古市公威(1854-1934)、沖野忠雄(1854-1921)

「明治の国土づくり」の指導者

松浦茂樹(工学博士・建設産業史研究会代表)

「明治の国土づくり」の到達点

日露戦争後の1907(明治40)年前後、河川、鉄道、港湾に対し新たな枠組みがつくられ、「国土づくり」に対して政府の施策に大きな進展があった。

沖野が指導した河川改修についてみると、1910(明治43)年、関東平野をはじめとして全国的な大水害が生じ、政治および経済に深刻な影響を及ぼした後、政府内に臨時治水調査会が設置され、沖野が技術的な課題を説明していった。ここで65河川を直轄施行河川とする第1次治水計画が策定されて帝国議会で承認された。財政面においても制度が確立され、水田を中心とする耕地の保全と都市の安定と発展を求め、社会の基盤を築くものとして治水事業は進められていった。

これ以前に着工されたものも含め、明治時代に始まった洪水防御を目的とする河川改修事業は、「明治改修」と称されるようになった。この改修によってそれまで乱雑に広・狭となったり、広大な無堤地帯を有していた河道が整然と整備された。今日、我々が目にする河川は、この「明治改修」により築かれたのである。

鉄道建設は、1890年代以降順調な推移をみせ、1900(明治33)年前後には旭川から熊本までの列島縦貫線をつくりあげた。そして日清・日露戦争時の軍事輸送で重要な役割を担い、軍部から一層注目されたことも背景となって、日露戦争後の06年に鉄道国有法が成立し、全国の幹線は国有化されていった。07年頃にはほとんどの県で鉄道が整備されたが、さらに国により全国ネットワーク化が進められた。この後鉄道の課題は、輸送力の著しい増大を図る広軌鉄道改築問題へと移っていく。陸上交通において、道路整備が課題となっていくのは第1次世界大戦後である。

港湾についてみると、1906(明治39)年4月、港湾調査会が内務省内で開催され、港湾整備に対する体系的な政府の方針が策定された。翌年10月、「重要港湾」として14港が定められるなど、ここに初めて港湾に対して国の統一的方針が決まったのである。

それまでの近代港湾事業を振り返ると、1878(明治11)年に九頭竜川河口の阪井港(福井県)、鳴瀬川河口の野蒜(のびる)港(宮城県)が着工された。この後、三角港(熊本県)・宇品港(広島県)などが着工されたのち、89年に京浜地区の窓口として、防波堤で泊地を保護した日本最初の近代港湾である横浜築港事業が神奈川県によって着工された。ここに本格的な近代港湾の築造となったのである。この後、96年には名古屋港・函館港、97年には江戸時代に大いに繁栄した大阪で近代港湾工事が市営により着手されたのである。

ところで、港湾が初めて鉄道と直接的につながったのは1899(明治32)年に着手した横浜港第2期工事で、横浜駅と横浜港との間に鉄道が敷設された。この計画・設計は古市によって作成された。留学中に行った西欧公共事業調査旅行で港湾に強い興味を示していたが、自らの計画・設計が実現したことに技術者として悦んだことだろう。

フランス留学生たちの遺産

古市は、1907(明治40)年総督府鉄道管理局長を辞任した後、帝国学士院第2部長、日仏協会理事長、土木学会初代会長、工学会会長、(財)理化学研究所長、東京地下鉄道(株)社長など要職を歴任し、24(大正13)年には枢密顧問官に就任した。そして最後の晴れ舞台が、29(昭和4)年に東京で開催された万国工業会議会長であった。きらびやかな顕官の道を歩み、1934(昭和9)年に死去した。

古市は、この自分の人生についてこう語っている。「余は学者に非ず、実業家に非ず、技術者に非ず、又、行政家に非ず、色彩極めて分明ならざる鵺(ぬえ)的人間と称すべきか。」社会的名声は別にして、自分は社会から求められる役割を果たしたが、人生をかけて成し遂げたという積極的に肯定できるものを残さなかったという悔いであろうか。

その一方で古市は、1915(大正4)年第1回土木学会総会で国土づくりを担当する土木技術者の在り方として、他の専門との比較で「将ニ将タレ」との有名な言葉を残している。

「余は極端なる専門分業に反対する者なり。専門分業の文字に束縛せられ萎縮する如きは大に戒むへきことなり。殊に本会の方針に就て余は此の説を主張する者なり。」

「工学所属の各学科を比較し又各学科相互の関係を考ふるに指揮者を指揮する人、すなわち所謂将に将たる人を要する場合は土木に於て最多しとす。土木は概して他の学科を利用す。故に土木の技師は他の専門の技師を使用する能力を有せさるへからす。」

社会インフラ整備を通じて国土づくりを担当する土木技術は、総合性が強く問われている。そのためには、極端に狭い専門分野に閉じこもるのではなく、幅広い知識が必要なことを強く主張している。今日では、当時よりさらに社会は複雑化し、地球環境問題が前面にでている。古市の主張を今日的に言いかえると、社会の理解の基礎となる人文・社会科学の教養を十分に身につけ、国土の自然条件の深い理解をもって「国土づくり」を担っていけ、とのことだろう。

一方、沖野は1912(明治45)年、内務技監となり、全国の河川改修事業は沖野の了解のもとに進められていった。事業は、現地・地元の了解がなかったら進められない。沖野は、地方議会などに自ら出向いて説明し説得にあたった。直轄事業を中心に強い使命感に基づき黙々と業務をこなしていった沖野は、後年、「直轄事業の父」とうたわれた。正月、部下が年始の挨拶に行ったら高等数学の難しい原書を読んでいたという。その生真面目な性格で、内務省土木局技術陣を引っ張っていき、後輩技術者に対して強い影響力を残した。昭和の戦前にも現場では沖野イズムが余燼(よじん)として残っていて、沖野が決めたものといわれたら、それ以上の議論はなかったという。

ところで、技術面において沖野が得意だったのは設計・施工面だった。1889(明治22)年から木曽川改修工事に監督署署長として関与し、内務技監となる1912(明治45)年まで大規模事業の現場の責任者となっていた。では計画面はどうか。この方面に、実に有能な協力者がいた。ドイツ留学し、高等工芸学校を卒業して内務省に勤務した原田貞介である。淀川改修、大河津分水をともなう信濃川改修、荒川改修などの計画の中心となったのは原田であった。また、第1次治水計画の策定には土木局調査課長として実質的な作業を行った。沖野の偉さの一つは、自分にはない計画の才を原田に認め、原田に仕事を任せたことだろう。原田は沖野の後を継ぎ、内務技監となった。

沖野が退官したのは、1918(大正7)年であるが、その前年、壮年時代に精力を費やして事業を進めた淀川が決壊し大惨状となった。この決壊に対し、沖野は水防活動が不十分であったと指摘した。どういう堤防であっても破堤しないということは請け合えない、築堤を生かすも殺すも水防次第と主張したのである。この主張は重要だろう。堤防は危険にさらされることは当然ながらあり得る。水防活動をはじめ、それに備えるソフトの対応により水害を防御あるいは減災する。そう唱えたのであり、治水対策として今日でも基本のことである。

沖野が死去したのは1921(大正10)年である。翌年、顕彰碑が建立されたが、その題額は古市による篆書(てんしょ)である。

ところで、エコール・サントラルを卒業して古市・沖野に先立って帰国したもう1人の技術者山田寅吉はどうなったのだろう。山田は、帰国後、内務省勧農局雇となり、起業公債事業のなかで行われた猪苗代(安積)疏水工事において活躍した。その後、一度、官を辞して日本最初の馬車鉄道、東京馬車鉄道株式会社の技師長に就任し、新橋・上野・浅草間の馬車鉄道の設計・監督に従事した。

その竣工後の1883(明治16)年11月、内務省技師として官に復帰し、東北地方に在住して北上川、阿武隈川、最上川の修築工事に従事した。86年に制定された土木監督署官制はフランスの制度を参考にしたものであるが、その制定に先立ち山田は「仏国工部省職制」「仏国工部省組織」を土木局長に提出している。

しかし山田は、古市が帝国大学工科学長に就任してからほどない1887(明治20)年2月、内務省を依頼退官し民間にその活路を求めていった。新天地は資本金200万円という巨大な資本金でもって設立された有限会社日本土木会社で、技術陣のトップである技師長として参画した。さらに90年中頃には日本土木会社を去り、「個人として」、鉄道事業を中心に設計や請負工事に従事し、さらに事業家に転じていった。山田は、自らを「Consulting Civil Engineer」と称した。留学先のエコール・サントラルは、そもそも民間技術者の育成を目的としていた。山田は、その理念をもっとも忠実に実行したこととなる。

山田寅吉の名は、今日忘れ去られていったが、官という組織に属するのではなく、自らの技術力のみで社会に立ち向かっていったその志は、記憶しておくべきだろう。建設コンサルタントの先駆者といってよい。

参考文献

  • 『古市公威とその時代』土木学会 2004
  • 『沖野忠雄と明治改修』土木学会 2010
  • 松浦茂樹「忘れられた技術者・山田寅吉」『水利科学』No.250日本治山治水協会 1999
  • 松浦茂樹(工学博士・建設産業史研究会代表)

    1948年埼玉県生まれ。1973年東京大学工学系大学院修士課程修了。専門は国土史学。工学博士。建設省技官(1973年)東洋大学国際地域学部教授(1999年)などを務める。主な著書として『戦前の国土整備政策』『足尾鉱毒事件と渡良瀬川』『利根川近現代史』『遷都と国土経営―古代から近代にいたる国土史』など。

    この記事が掲載されている冊子

    No.60「技術者」

    日本の近代化はごく短期間で行われたとしばしば指摘されます。国土づくり(土木)では、それが極めて広域かつ多分野で同時に展開されました。明治政府はこの世界的な大事業を成し遂げるために技術者を養成。その技術者や門下生らが日本の発展に大きな役目を担いました。
    今号は、60号の節目を記念し、国土近代化に重要な役割を果たした「技術者」に注目しました。海外で西洋技術を学んだ黎明期から日本の技術を輸出するようになるまで、さまざまな時期における技術者が登場します。
    時代を築いたリーダーたちの軌跡を見つめ直すことが、建設、ひいては日本の未来を考える手がかりとなることでしょう。
    (2020年発行)

    座談会:近代土木の開拓者

    樺山紘一(東京大学名誉教授、印刷博物館館長)
    月尾嘉男(東京大学名誉教授)
    藤森照信(東京大学名誉教授、東京都江戸東京博物館館長、建築史家・建築家)

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    総論:近代土木の技術者群像

    北河大次郎(文化庁文化財調査官)

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    【古市公威と沖野忠雄】 「明治の国土づくり」の指導者

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