島安次郎(1870-1946)、秀雄(1901-1998)、隆(1931-)

新幹線に貢献した島家三代:世界へ飛躍した日本のシンカンセン

小野田滋(工学博士・鉄道総合技術研究所担当部長)

新幹線の実現と島秀雄

動力分散方式に着目

実現の機会を逃したままであった戦前の広軌化計画は、戦後の東海道新幹線として、安次郎の長男、秀雄によって実現することとなった。秀雄は、1901(明治34)年5月20日、母親の実家があった大阪市内で生まれ、その後東京で育った。25(大正14)年3月に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業して鉄道省に入り、大宮工場、大井工場での実習を経て1年後に本省工作局車両課勤務となった。当時の車両課長は、父親の愛弟子で大学時代の恩師でもあった朝倉希一で、初仕事として国産初の三気筒蒸気機関車であるC53形の設計に取り組んだのを皮切りに、C54形、C55形、C56形、C57形、C10形、C11形、C12形、C58形、D51形など全盛期の蒸気機関車を次々と手がけた。36(昭和11)年3月には在外研究員として海外に派遣され、翌年12月に帰朝するまでヨーロッパ、南アフリカ、南米の鉄道事情を調査した。

この調査では、オランダで電車列車を用いて高頻度・高速度運転を実施して高密度の輸送を実現していることに強い印象を受け、のちの動力分散方式による電車列車の着想を得たとされる。当時は、日本も外国も機関車で客車または貨車を牽引する列車(いわゆる動力集中方式)が一般的であったが、電気鉄道の進歩とともに動力を各車両に分散配置した電車列車など(いわゆる動力分散方式)が発達した。電車はすでに路面電車や郊外電車、地下鉄などで用いられていたが、長距離運転には適さず、乗り心地も悪く、電化されていた区間も一部の路線に限られていた。

秀雄は1940(昭和15)年に本省工作局車両課と大臣官房幹線調査課を兼務して、父・安次郎と共に弾丸列車計画に携わったが、翌年には浜松工場長に転出し、さらに42年に本省に復帰して工作局車両第2課長(翌年の改組で資材局動力車課長)となり、終戦を迎えた。

戦前の秀雄はもっぱら蒸気機関車の設計に従事していたが、その完成度が頂点に達するとともに狭軌における限界も自ずと明らかになり、やがて将来の電化や貧弱な日本の線路条件を考慮すると動力集中方式よりも動力分散方式が実状に合っていると考えるようになった。終戦後の1946(昭和21)年に秀雄は電車用動力台車設計研究会(のちに高速台車振動研究会と改称)を発足させ、海軍の解体に伴って鉄道技術研究所に移籍した技術者を中心に、新しい電車用台車の基礎研究を開始した。

この研究会では、かつて海軍航空技術廠(空装廠)で軍用機の研究開発に従事していた松平精(ただし)、三木忠直らによって航空機の振動理論や機体設計技術などの知見がもたらされ、従来の鉄道車両の設計手法と融合して、鉄道車両の設計に新境地をもたらす契機となった。研究会ではメーカーの技術者も参加して立場を超えた活発な議論が重ねられ、いくつかの試作台車を製作して比較のための走行試験が行われた。秀雄は、1948(昭和23)年に工作局長となり、翌年6月の日本国有鉄道発足とともに工作局長のまま理事に栄進して、車両系統のトップとなった。しかし、戦後復興が優先される時代であったため高速台車振動研究会の予算は削減され、49年を最後にその活動を休止した。

東海道新幹線計画の始動

その頃、戦争の影響で中断していた東海道本線の電化工事が再開され、これに伴って長距離電車を登場させる条件が整った。1950(昭和25)年にデビューした80系電車(一般に湘南形電車と呼ばれた)は、長距離用にふさわしい客車列車並みの接客設備を備え、最大16両という海外にも例のない長大編成を実現した点で従来の電車とは一線を画す存在となった。また、台車の設計には、高速台車振動研究会の成果が反映された。長距離を走破する電車列車は昭和30年代初頭に登場した153系急行形電車、151系特急形電車へと継承され、動力分散方式が動力集中方式の長距離列車の領域に進出する端緒となった。しかし、51年4月24日、架線短絡に伴う列車火災により死者106名を出した桜木町事故が発生して粗雑な戦時設計車両の構造的欠陥が指弾され、その責任をとる形で秀雄は加賀山之雄総裁と共に同年8月に辞任して国鉄を去り、新扶桑金属工業(のち住友金属工業)顧問(のち取締役)となった。

昭和20年代後半になると戦後の復興も一段落し、日本の経済も成長への助走を開始したが、こうした背景のもとで日本の大動脈である東海道本線の輸送力がやがて限界に達するであろうことが関係者の間で認識されるようになった。1955(昭和30)年と、翌56年にたて続けに発生した洞爺丸・紫雲丸の海難事故の責任をとって辞任した長崎惣之助総裁の後任として、十河(そごう)信二が国鉄総裁に就任したが、十河は東海道本線とは別に広軌新線を建設することを意図して、東海道本線増強計画の検討を命じ、これを技術面から支える人物として、秀雄に白羽の矢を立てた。

秀雄は、すでに国鉄を去った身であるとして固辞したが、父親の代からの旧知であった十河から「広軌が実現できなかった父親の無念を、その子として完成する義務があるのではないか」と説得され、周囲からの後押しもあってこれを承諾し、同年12月に国鉄技師長に就任した(ひと昔前の仇討話や親孝行話を彷彿させるエピソードであるが、具体的にこうしたやりとりがあったかどうかは確認されていない)。こうして、熱血漢の十河と冷静沈着な秀雄がタッグを組むことによって、東海道新幹線プロジェクトは実現に向けて大きく前進することとなった。

1956(昭和31)年には、秀雄を委員長とする東海道線増強調査会が国鉄部内に設置され、在来線を複々線化する案、広軌で別線を建設する案などが比較検討された。しかし、この調査会では国鉄の財政事情や施設の現状から狭軌案を推す意見も根強くあり、最終的な結論を出すには至らなかった。

秀雄は、この計画を推進するための幹線調査室長として、弾丸列車計画を共にした北海道総支配人・大石重成(のち鉄建建設社長)を呼びよせることとした。大石は土木技術者として秀雄の期待に応えてこの計画を推進し、新幹線総局長として建設工事の中心的役割を果たした。このほか、技術開発の要となる鉄道技術研究所長には大石と大学の同窓で西部総支配人兼門司鉄道管理局長であった篠原武司(のち日本鉄道建設公団総裁)が起用され、秀雄を支えて新幹線を実現するための陣容が整った。そして1957(昭和32)年には運輸省に日本国有鉄道幹線調査会が設置され、翌年7月に広軌別線で東京~大阪間を3時間で結ぶとする答申がまとまり、59年の着工へとこぎつけた。

東海道新幹線の開業

新幹線実現にあたっての秀雄の基本コンセプトは、在来線で培った技術を確実に適用することにあり、技術開発の著しい分野については将来的にそれを採用できる十分な余裕を設けることとした。動力分散方式や交流電化、CTC(列車集中制御装置)の全面的な採用はその典型的な例で、80系湘南形電車や20系(のちの151系)「こだま形」特急形電車などの長距離電車の実績、仙山線や北陸本線における交流電化の実用化、伊東線に導入されたCTCの経験が新幹線の実現に活かされた。新幹線の工事予算は一部を世界銀行からの借款でまかない、秀雄は新技術を対象とした事業に融資できないという世界銀行の規定をパスするため、新幹線は「Well Proven Technology(充分実証済みの技術)」であるとしてこれを説得した。

新幹線の建設は急ピッチで進められたが、その一方で工事費は当初の計画を大幅に上回る結果となり、その厳しい批判に抗しきれず1963(昭和38)年5月19日に十河総裁が任期満了で退任し、その後を追って同月31日付で秀雄、大石も国鉄を去った。東海道新幹線は、在来線の鴨宮駅に隣接して設置されたモデル線での試作電車による走行試験、のちに0系と呼ばれた東海道新幹線電車の量産と訓練運転などを経て、東京オリンピックを10日後に控えた64年10月1日に開業式を迎えた。

東海道新幹線は、世界で初めて常用運転速度時速200kmを超える高速鉄道として誕生し、高頻度・高速度運転によって大量輸送を実現して、世界の鉄道史に新たなページを開いた。新幹線の完成によって、狭軌の制約に悩まされ続けていた日本の鉄道は、ようやく欧米の水準をしのぐまでに成長し、以後、世界の鉄道技術をリードする立場となった。当時、航空機や自動車の発達によって鉄道はもはや斜陽産業であると囁かれ、計画段階では「ピラミッドや戦艦大和と並ぶ無用の長物」と酷評されたが、東京タワーや東京オリンピックなどと共に高度成長時代の象徴となり、世界の高速鉄道の開発にも大きな影響を与える存在となった。

退任後の秀雄は、古巣の住友金属工業顧問に籍を置いたのち、1969(昭和44)年に設立された宇宙開発事業団の初代理事長に就任し、国産人工衛星の実用化に貢献した。新幹線開業30周年にあたる94(平成6)年、鉄道人として初めての文化勲章を受章したが、97年暮れににわかに体調を崩し、翌年3月18日に96歳で逝去した。

小野田滋(工学博士・鉄道総合技術研究所担当部長)

1957年愛知県生まれ。日本大学文理学部応用地学科卒。工学博士。土木学会フェロー。文化庁文化審議会文化財分科会第二専門調査会委員。国鉄東京第二工事局、西日本旅客鉄道(出向)などを経て現職。著書に『鉄道と煉瓦』『高架鉄道と東京駅』『東京鉄道遺産』『関西鉄道遺産』『鉄道構造物を探る』など。

この記事が掲載されている冊子

No.60「技術者」

日本の近代化はごく短期間で行われたとしばしば指摘されます。国土づくり(土木)では、それが極めて広域かつ多分野で同時に展開されました。明治政府はこの世界的な大事業を成し遂げるために技術者を養成。その技術者や門下生らが日本の発展に大きな役目を担いました。
今号は、60号の節目を記念し、国土近代化に重要な役割を果たした「技術者」に注目しました。海外で西洋技術を学んだ黎明期から日本の技術を輸出するようになるまで、さまざまな時期における技術者が登場します。
時代を築いたリーダーたちの軌跡を見つめ直すことが、建設、ひいては日本の未来を考える手がかりとなることでしょう。
(2020年発行)

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