島安次郎(1870-1946)、秀雄(1901-1998)、隆(1931-)

新幹線に貢献した島家三代:世界へ飛躍した日本のシンカンセン

小野田滋(工学博士・鉄道総合技術研究所担当部長)

新幹線の輸出と島隆

父・秀雄のもとで

島秀雄の次男である隆は、1931(昭和6)年7月27日に東京市で生まれ、55(昭和30)年に東京大学工学部機械工学科を卒業した。ただちに日本国有鉄道に入社し、臨時車両設計事務所主任技師として、新幹線用試作台車の開発を担当した。国鉄の研究開発の中枢を担う鉄道技術研究所は、それまで都心の浜松町にあった狭い庁舎で研究活動を行っていたが、十河信二の「広々とした場所で伸び伸びと研究開発を行って鉄道の発展に貢献してほしい」という願いから東京都国分寺市の新しい土地に移転することとなった。

この移転工事で最初に完成したのが車両試験台で、レール側も車輪とすることによって、車両を固定したままで走行状態を再現できる実験装置として用いられた。車両試験台は、それまで品川区の大井工場の敷地に蒸気機関車用の設備があったが、新しい車両試験台は、新幹線車両を想定した車体長25m、広軌台車、最高速度時速350kmまでを試験できる設備として設計された。車両試験台は、1960(昭和35)年に完成し、その完成を待っていたかのように同年6月から新幹線の1号試験台車の試験が実施された。

隆は、臨時車両設計事務所でこの1号試験台車の設計に取り組んだが、高速走行の要である台車の開発は、新幹線の成否の鍵を握っていた。従来の鉄道車両用台車は、コイルバネや板バネで構成されていたが、空気バネや駆動装置の高性能化によって高速でも乗り心地の良い安定した台車が可能となり、隆は3種類の試験台車(A案~C案)を試作して、条件を変えながら車両試験台での試験を繰り返した。その成果に基づいて1962(昭和37)年に完成した新幹線用試作旅客電車(A編成、B編成)のDT9001形~DT9006形の6種類の台車が設計され、さらに64年に完成した量産車用のDT200形台車として結実した。

隆はこのほか、試作パンタグラフの風洞試験や排障装置の試作などにも携わり、1964(昭和39)年の東海道新幹線開業を迎えた。

海外鉄道のエキスパートとして

東海道新幹線の開業後も、山陽新幹線、東北新幹線、上越新幹線と建設が進められ、新幹線は全国にネットワークを拡大しながら現在に至っている。いっぽう、新幹線の成功は、世界の鉄道事業者にも大きな影響を与え、フランスのTGV、ドイツのICEなどの高速列車が登場し、イタリア、スペイン、スウェーデンなどがこれに次いだ。

東海道新幹線開業後の隆は、国鉄ニューヨーク事務所に駐在することとなり、当時アメリカで開発が進められていた高速電車「メトロライナー」や、カナダで開発された高速ガスタービン列車「ターボトレイン」などの高速列車の調査にあたった。帰国後は車両設計事務所主任技師となり、在来線用の振子式列車の開発を担当することとなった。

振子式は、曲線区間で車体を傾斜させて通過速度を向上させる仕組みの車両で、特に急曲線が多い日本の在来線における速度向上の切り札として注目された。隆は1970(昭和45)年に完成したクモハ591形試作電車の設計を担当し、在来線での走行試験を繰り返した。その成果は、73年に中央本線の特急「しなの」の381系特急形電車として実用化され、従来の気動車特急で3時間52分を要していた長野~名古屋間の到達時間は、3時間20分に短縮された(現在は2時間53分)。

隆は、381系電車の完成を待たず、経営計画室主幹となり、イラン国鉄の近代化計画の調査にあたった。そして、1974(昭和49)年1月から1カ月間、イランに滞在して現地の実情を調査し、複線化や曲線改良、交流電気機関車の導入、自動連結器への取り換えなどを提言した報告書をまとめた。帰国後の隆は、言葉や習慣の異なる海外での経験に基づき、主張すべきことは主張し、性急な結論を求めず、日本のやり方を一方的に押し付けるべきではないと語った。

その後、車両設計事務所次長として1979(昭和54)年に登場した962形東北・上越新幹線用試作電車の開発にあたった。962形は、東海道新幹線の開業後に明らかとなった関ヶ原の雪害問題や、騒音振動の公害訴訟を念頭として、雪に強く、環境対策を強化した新幹線電車をコンセプトとして設計された。そして東北新幹線小山試験線などで試験を繰り返したのち、量産車として200系新幹線電車が完成し、82年の東北・上越新幹線開業より使用を開始した。

隆は、1981(昭和56)年には外務部勤務となって世界銀行へ出向した。世界銀行では、南アジアプロジェクト局に在籍し、日本人スタッフが少ない中でインド国鉄とパキスタン国鉄の鉄道近代化計画を担当した。

台湾高速鉄道の実現

1984(昭和59)年に国鉄を退職した隆は、日立製作所国際事業本部技師長となったが、豊富な海外経験を請われ、2002(平成14)年に台湾高速鉄道(台湾新幹線)の技術顧問として台湾に招かれ、技術指導にあたった。

台湾新幹線の計画は1990年代から具体的に進められ、一時はドイツ・フランス連合による一括受注が内定していたが、1999(平成11)年に発生した台湾大地震の被害などを踏まえて地震国である日本の新幹線技術を導入することとなった。結果的に、ヨーロッパの鉄道システムと日本の新幹線技術を融合した新幹線となったが、車両は日本の700系新幹線電車をベースとした改良型の700T型が用いられることとなった。700T型は2004(平成16)年から製造が開始され、台湾高速鉄道は07年より台北~左営間で営業運転を開始した。日本の新幹線は、東海道新幹線の開業から約40年の歳月を経て、ようやく海外進出を果たした。

鉄道は、基本的に自国だけでシステムが完結し、特に日本のような島国は他国との直通列車も皆無なので、いわゆるガラパゴス化の典型的な例である。日本で高度に発達した技術が外国でもそのまま受け入れられるとは限らず、むしろ特殊な進化を遂げたことが進出の妨げとなるケースもある。そうした意味で、紆余曲折を経て実現した台湾高速鉄道は、日本の先端技術の輸出にとっても大きな意義があった。

小野田滋(工学博士・鉄道総合技術研究所担当部長)

1957年愛知県生まれ。日本大学文理学部応用地学科卒。工学博士。土木学会フェロー。文化庁文化審議会文化財分科会第二専門調査会委員。国鉄東京第二工事局、西日本旅客鉄道(出向)などを経て現職。著書に『鉄道と煉瓦』『高架鉄道と東京駅』『東京鉄道遺産』『関西鉄道遺産』『鉄道構造物を探る』など。

この記事が掲載されている冊子

No.60「技術者」

日本の近代化はごく短期間で行われたとしばしば指摘されます。国土づくり(土木)では、それが極めて広域かつ多分野で同時に展開されました。明治政府はこの世界的な大事業を成し遂げるために技術者を養成。その技術者や門下生らが日本の発展に大きな役目を担いました。
今号は、60号の節目を記念し、国土近代化に重要な役割を果たした「技術者」に注目しました。海外で西洋技術を学んだ黎明期から日本の技術を輸出するようになるまで、さまざまな時期における技術者が登場します。
時代を築いたリーダーたちの軌跡を見つめ直すことが、建設、ひいては日本の未来を考える手がかりとなることでしょう。
(2020年発行)

座談会:近代土木の開拓者

樺山紘一(東京大学名誉教授、印刷博物館館長)
月尾嘉男(東京大学名誉教授)
藤森照信(東京大学名誉教授、東京都江戸東京博物館館長、建築史家・建築家)

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総論:近代土木の技術者群像

北河大次郎(文化庁文化財調査官)

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【古市公威と沖野忠雄】 「明治の国土づくり」の指導者

松浦茂樹(工学博士・建設産業史研究会代表)

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【ヘンリー・ダイアー】 エンジニア教育の創出

加藤詔士(名古屋大学名誉教授)

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【渡邊嘉一】 海外で活躍し最新技術を持ちかえる

三浦基弘(産業教育研究連盟副委員長)

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【田邊朔郎】 卒業設計で京都を救済した技師

月尾嘉男(東京大学名誉教授)

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高橋裕(東京大学名誉教授、土木史家)

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近代土木の開拓者年表