渡邊嘉一(1858-1932)

海外で活躍し最新技術を持ちかえる

三浦基弘(産業教育研究連盟副委員長)

京阪電気鉄道の初代専務取締役

渡邊は生涯にわたり、鉄道関連会社19社、そのほかにも19の会社の経営に関わってきた。これらの会社の中で、筆者が渡邊を調査している中、京阪電気鉄道社史『京阪百年のあゆみ』、IHIの技報(300号記念)、東洋電機製造の百年史の制作に関わる機会を得た。この3社に焦点を当て、紹介してみたい。

渡邊は、1906(明治39)年の京阪電気鉄道設立時、専務取締役に就任し、実質的には初代社長として経営に携わった。渡邊が京阪電気鉄道で経営のトップにあったのは3年半と短く、京阪電車が開通した10年4月15日から2カ月もたたない6月7日に桑原政取締役に専務取締役を譲って自身は取締役会長に就任、さらに翌年1月17日には会長職も辞している。しかし、その後は取締役として晩年1931(昭和6)年10月10日に辞任するまで長年にわたり京阪電気鉄道の経営に携わった。専務取締役就任時から通算すると25年もの期間になる。

初代専務取締役に就任した渡邊の第1の使命は、大阪~京都間の鉄道敷設を無事成し遂げることだった。鉄道建設中の株主総会では、株主から渡邊が言うなら信用するという記録が残っているように、その技術に絶大な信頼が寄せられていたようである。しかし、渡邊の在任期間中の社内資料からは、彼の活躍を窺い知ることはほとんどできない。そこで、他社の年史や交流のあった人物による記録などの社外資料から京阪電気鉄道在任期間中の渡邊の活躍をたどってみることにする。

京阪電気鉄道取締役時代の社外での活躍

京阪電気鉄道の会長から取締役になった翌年の1912(明治45)年、澁澤の推薦によって東京石川島造船所の社長に就任している。澁澤は09年に実業界引退を声明し、東京石川島造船所の取締役会長も辞任していた。以後は取締役会長を置かず、取締役社長制を採用し、初代社長には梅浦精一が専務を兼任して就任したが、12年に死去したため、同年の臨時株主総会で渡邊が専務取締役社長に就任したのである。渡邊は1925(大正14)年1月までの長期間にわたり社長を務め、その後も1928(昭和3)年4月まで相談役であった。

『東京石川島造船所50年史』(1930)の中に渡邊の文書が掲載されている。「私(渡邊)が多年恩顧を蒙っている渋沢子爵の推薦に依って、石川島造船所の社長に就任したのは、明治45年5月であった。当時所内の諸設備は足らざる所少なからず、せめて駆逐艦でも製造の下命に接するようにしたいと思い、それには相当の人が必要なので、まず、内田徳郎君を欧州に派遣し、発達せる海外の工業状態を実地に視察して貰う事にした。内田君は充分の見聞を遂げて、大正2年1月に帰朝をしたので、その報告に基いて工場の拡張、機械の増設を行うことになり、それに必要なる資金を得るため、資本金を倍加した。何さま石川島は看板が古く、自然華客先も多かったので仕事は相当にあって、配当もずっと1割を続けていたが、この拡張計画がちょうど完成しようという頃に世界大戦が始まり、間もなく工業界空前の繁栄を見るに至ったので、計画正に圖にあたった訳で、利益も激増し、儲けた金で鋳物工場や製罐工場を新築し、なお拡張を行うために一躍資本金を500万円に増額し、石川島の面目一新を見たので、これだけの設備があればと、海軍省からも駆逐艦の建造を命ぜられるようになり、私が入社早々の希望はここに達せられる事になった」。

国産の電車・電気機器の東洋電機製造株式会社の設立

渡邊の京阪電気鉄道の取締役時代は、車両用電気機器のほとんどが欧米からの輸入に依存しており、我が国の電気鉄道の将来のために、早急の電気機器の国産化の必要性を考えていた。そのために設立したのが東洋電機製造株式会社である。『東洋電機50年史』(1969)には、創業趣旨を以下のように記している。

「電車・電気機関車については、一部国産化されつつあったものの、その心臓部である主電動機や制御装置など、主要電気機器については、国産技術がまだ充分といえる水準に達しないため、大正時代の初期までは圧倒的に輸入に依存せざるをえなかった。大正3年7月に第1次世界大戦が勃発して、日本の兵員、軍需物資輸送のため船腹不足は甚だしくなり、わが国の造船業・海運業も未曽有の活況を呈するに至った。一方で、生活必需物資や工業資材などの輸入は逼迫し、これらを原料とする産業は困難に陥った。(中略)渡邊は車両用電気機器の国産計画を、盟友である玉木辨太郎にまず諮った。玉木は鉄道院電気局課長在任中、京浜間の電化を成し遂げた鉄道電化の権威である。2人は電機メーカーとして当時世界的な名声を持っていたイギリスのディッカー社(Dick Kerr & Co., Ltd.)の技術に着目し、とりあえずその技術を導入して同社製品を国産化することを考え、交渉の結果、大正6年、その車両用電気機器製作販売権を獲得することに成功したのである」。

しかし、1923(大正12)年は、会社にとって試練の年であった。経済不況の中、21年下期から24年上期まで無配当を続けなければならなかったのだが、陣頭指揮の立場にあった常務取締役の朝比奈林之助が23年に逝去。技師長の上遠野亮三(かどのりょうぞう)が支配人を兼任して事業運営の万全を期することになった。この年の9月1日に関東大震災があった。工場の全壊、半壊はあったが、火災は発生せず、幸い類焼は免れた。しかし、東京本社の有楽館ビルの損傷が激しく、赤坂の渡邊宅を仮事務所にした。そして、会社を立ち上げたひとり、技術顧問の玉木が鬼籍に入った。

大震災後、渡邊の懇望により、東京石川島造船所から栗田金太郎取締役を東洋電機の横浜工場の責任者として迎え入れた。その後、運悪く横浜工場が火災に見舞われるが、栗田は抜群の行動力で工場を立て直す。

東洋電機製造は、「技術の東洋」として社会の信頼を得るとともに、大口の受注により経営の基礎を築くことになった。京阪電気鉄道も、進取の気象で東洋電機製造がもたらす先進の技術を貪欲に取り入れ「技術の京阪」という評価と社風をつくっていったのである。渡邊は京阪電鉄の取締役として、また東洋電機製造の社長として、この2社相互の成長に大きな役割を果たしたのである。

三浦基弘(産業教育研究連盟副委員長)

1943年旭川市生まれ。東北大学、東京都立大学で土木工学を学ぶ。専門は構造力学。東京都立小石川工業高等学校、大東文化大学などで教鞭をとる。傍ら、NHK教育テレビ「高校の科学 物理」などの講師、月刊雑誌「技術教室」(農山漁村文化協会)編集長などを歴任。著書に『日本土木史総合年表』(共著 東京堂出版)『世界の橋大研究』(監修:PHP研究所)など。

この記事が掲載されている冊子

No.60「技術者」

日本の近代化はごく短期間で行われたとしばしば指摘されます。国土づくり(土木)では、それが極めて広域かつ多分野で同時に展開されました。明治政府はこの世界的な大事業を成し遂げるために技術者を養成。その技術者や門下生らが日本の発展に大きな役目を担いました。
今号は、60号の節目を記念し、国土近代化に重要な役割を果たした「技術者」に注目しました。海外で西洋技術を学んだ黎明期から日本の技術を輸出するようになるまで、さまざまな時期における技術者が登場します。
時代を築いたリーダーたちの軌跡を見つめ直すことが、建設、ひいては日本の未来を考える手がかりとなることでしょう。
(2020年発行)

座談会:近代土木の開拓者

樺山紘一(東京大学名誉教授、印刷博物館館長)
月尾嘉男(東京大学名誉教授)
藤森照信(東京大学名誉教授、東京都江戸東京博物館館長、建築史家・建築家)

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総論:近代土木の技術者群像

北河大次郎(文化庁文化財調査官)

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【古市公威と沖野忠雄】 「明治の国土づくり」の指導者

松浦茂樹(工学博士・建設産業史研究会代表)

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近代土木の開拓者年表