渡邊嘉一(1858-1932)

海外で活躍し最新技術を持ちかえる

三浦基弘(産業教育研究連盟副委員長)

渡邊嘉一にまつわるエピソード

思いがけず筆者は渡邊の遺族を探すきっかけに出会った。それは日本経済新聞(1982年1月13日付)の記事であった。当時経団連名誉会長だった土光敏夫が「私の履歴書」を連載中で、文中の最後に「......大正9年の石川島の規模は、資本金500万円、従業員数は千人弱、社長は渡辺嘉一氏であった。私の初任給は45円だったが、その他諸手当があって72、3円にはなったと思う」とあったのである。

早速、連絡したところ土光の秘書から渡邊の三男慶三氏が鎌倉に健在であることを知らせていただいた。すぐさま連絡すると長男の哲二氏も新宿に、三女の晴江氏は富士宮にそれぞれ健在であることが分かった。この年哲二氏、慶三氏に面会し、例のヒューマン・デモンストレーションの写真は、赤坂の自宅の居間に飾ってあり、「中央に坐っているのはお父さんだよ」と渡邊は自慢げに言っていた、と語ってくれた。その貴重な写真は戦災で焼失してしまったという。しかし、哲二氏の話によると、蔵書はかなりあり、殆どが洋書。渡邊が他界後、日本交通協会図書館に寄贈されたことを知り、1983~84年にかけて筆者が渡邊嘉一文庫として整理をさせていただいた。

渡邊の自宅は赤坂にあり、当時の住所は赤坂區表町3丁目13番地。洋館部分は渡邊が建て増したもので、日本家屋部分は渡邊の父忻三が建てた。洋館は地上3階、地下1階であった。場所は青山1丁目の交差点から赤坂見附方面に向かって徒歩5分くらいの青山通りに面した青山御所の向かい側にあった。裏手奥、3軒目にカナダ大使館があった。現在のカナダ大使館は渡邊の土地も共有している。門と塀は昭和40年頃まであったようである。

現在に伝わる渡邊のエピソードを紹介する。渡邊の息子のひとりに、関西のクラシック音楽界を牽引した指揮者の朝比奈隆がいる。隆は、生まれてすぐ渡邊の鉄道省時代の部下にあたる朝比奈林之助の養子として入籍し、育てられた。隆の自伝『楽は堂に満ちて』の中に、渡邊の仕事に対する厳しさが窺えるエピソードの記述がある。要約すると、隆の養父・林之助は鉄道省を退任後、渡邊の創立した東洋電機製造の専務に迎え入れられたが、電車のモーター製造という職だけにじっとしていることができず、第1次世界大戦の好景気の恩恵に浴そうと製鉄会社を設立し、新規事業に手を出して失敗、膨大な借金をかかえてしまう。その後、林之助は急死したため、病気がちだった林之助の妻に代わって倒産の整理を全部片付けたのは実父(嘉一)だった。「事業で迷惑をかけた人だけにはできるだけのことはしろ」と事業の整理にあたっては人も驚くほどの厳しさですべての私財をあげて負債の補填を命じた。そんな厳しい実父の行動に、一時は冷たい仕打ちと思ったこともあったが、それが死んで行った人の名誉を守る唯一の道であったことを今にして思うのである、と朝比奈は回想している。

渡邊の趣味は義太夫で、仕事の合間によく娘を伴って観劇した。渡邊は観劇中周りを気にせず感涙にむせび、一顰一笑するので、娘たちは恥ずかしかったという。しかし、観劇終了後の食事が豪華で、それを楽しみについて行ったとのことだった。教育は娘に比較的甘く、息子には厳しかったようである。渡邊は鉄砲の趣味もあり、あるとき、雁を撃って言った。「(雁の)群れを散らすには、ボスを狙うことだ」と生きていく上で何が大切なのかを教えたという。

渡邊嘉一を巡るひとりの研究者として

初めて筆者がフォース橋のヒューマン・デモンストレーション写真を見たのは1972年のことだった。中央の人物が渡邊と分かって当時の学者、研究者に渡邊のことを尋ねたが、誰からも回答がなく、調査には困難が伴った。渡邊の日記、著作がなく、また資料も乏しかったため、遺族を探し、丹念に時間をかけて、足で調査するしかなかった。渡邊への思いが募って、フォース橋を自分の足で渡ることもできた。

京阪電鉄の創立100周年記念に『京阪百年のあゆみ』(2011年3月)の社史が編まれた。このとき、京阪電鉄の編集責任者から、社内に渡邊の求めるべき資料がないので、協力の依頼があった。この社史に筆者のことが紹介された。その一部を紹介して結びとしたい。

"渡邊嘉一は著書もなく、残された資料も少ないが、渡邊嘉一について、約35年前から研究をしている人物がいる。構造力学(橋梁)の研究者三浦基弘である。......三浦は、研究を進める中で、嘉一について次のように感じたという。「嘉一の大学の同期に田邊朔郎がいる。田邊朔郎は琵琶湖疏水の設計者で一般の人にも知られているのにくらべ、嘉一は殆ど知られていない。嘉一は数多くの民間会社で活躍をしている。調査・研究をして2人を比較してみると、官尊民卑の感を否めない。彼は技術者の中にあってまれに見る能弁家で、能文家でもあったといわれているが、1冊の本も上梓していないようである。文章は、外国文献の紹介などを「工學會誌」に散見できるだけである。文筆家は文化の記録を書物で伝えてきたが、土木技師渡邊嘉一は文明の記録を書物の代わりに、建造物として現代に伝えてきたのではないだろうか。」

三浦が朝比奈隆にインタビューした際、実父渡邊嘉一に対しては、自身が養子に出されたこともあり、あまり良い印象を持っておらず、実業界での活躍もあまり知らなかったらしい。しかし、三浦が嘉一の功績を伝えるうちに、実父への敬意と親しみを深めていき、嘉一について色々と知りたがったそうである。

三浦は日本交通協会図書館に寄贈されていた蔵書の中から嘉一の蔵書(洋書)を1983(昭和58)年、84年の2回にわたり整理して、172冊分の目録を作成した。蔵書は土木に関する専門書がほとんどで橋梁、鉄道、上水道、蒸気機関、土木ハンドブック、土木学会論文集など多岐に亘る。橋梁工学の中にはベンジャミン・ベーカーの鉄道橋の書籍もある。現在は同図書館内に「渡邊嘉一文庫」として保管され、閲覧できるようになっている。"

三浦基弘(産業教育研究連盟副委員長)

1943年旭川市生まれ。東北大学、東京都立大学で土木工学を学ぶ。専門は構造力学。東京都立小石川工業高等学校、大東文化大学などで教鞭をとる。傍ら、NHK教育テレビ「高校の科学 物理」などの講師、月刊雑誌「技術教室」(農山漁村文化協会)編集長などを歴任。著書に『日本土木史総合年表』(共著 東京堂出版)『世界の橋大研究』(監修:PHP研究所)など。

この記事が掲載されている冊子

No.60「技術者」

日本の近代化はごく短期間で行われたとしばしば指摘されます。国土づくり(土木)では、それが極めて広域かつ多分野で同時に展開されました。明治政府はこの世界的な大事業を成し遂げるために技術者を養成。その技術者や門下生らが日本の発展に大きな役目を担いました。
今号は、60号の節目を記念し、国土近代化に重要な役割を果たした「技術者」に注目しました。海外で西洋技術を学んだ黎明期から日本の技術を輸出するようになるまで、さまざまな時期における技術者が登場します。
時代を築いたリーダーたちの軌跡を見つめ直すことが、建設、ひいては日本の未来を考える手がかりとなることでしょう。
(2020年発行)

座談会:近代土木の開拓者

樺山紘一(東京大学名誉教授、印刷博物館館長)
月尾嘉男(東京大学名誉教授)
藤森照信(東京大学名誉教授、東京都江戸東京博物館館長、建築史家・建築家)

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総論:近代土木の技術者群像

北河大次郎(文化庁文化財調査官)

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【古市公威と沖野忠雄】 「明治の国土づくり」の指導者

松浦茂樹(工学博士・建設産業史研究会代表)

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【ヘンリー・ダイアー】 エンジニア教育の創出

加藤詔士(名古屋大学名誉教授)

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【渡邊嘉一】 海外で活躍し最新技術を持ちかえる

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高橋裕(東京大学名誉教授、土木史家)

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近代土木の開拓者年表