渡邊嘉一(1858-1932)

海外で活躍し最新技術を持ちかえる

三浦基弘(産業教育研究連盟副委員長)

渡邊嘉一の技術業績と経営手腕

渡邊は1888(明治21)年、31歳の時、日本土木会社の技術部長になり、会社が請け負う山陽、九州、関西および官設鉄道工事、施工業務に従事している。参宮鉄道の宮川橋梁、京阪電鉄の木津川橋梁、宇治川橋梁などの設計も行っている。この木津川、宇治川橋梁の2つの工事記録は、現在京阪電鉄に残っていない。現存する橋梁と写真のみで論証できないが、筆者の今までの渡邊の研究記録からの傍証を引用しながら推理したい。現在の木津川橋梁は9径間のプラットトラスである。両端の径間は29.11m、残りの7径間はそれぞれ38.70mである。建設中の木津川橋梁の写真には6基の橋脚がみえる。現在の宇治川橋梁もプラットトラスで7径間である。両端の径間は34.79m、残りの5径間はそれぞれ38.70m、橋長は263.08mである。建設中の宇治川橋梁の写真には6基の橋脚がみえる。2つの橋の構造を比べてみると、端部を除くトラス径間の長さ38.70m、高さは7.20mと、いずれも形状寸法が全く同じなのである。同じ形状のトラスを架設するので、架橋工事の作業が効率よくでき、工期が短縮できる。

これら2橋梁の設計者の記録はないが、筆者は渡邊が関わったと推理している。渡邊は澁澤の要請で参宮鉄道の技師長になっている。『大日本博士録工學博士之部』(井關九郎編著 發展社 1930)の渡邊の欄に「......明治28年同會社延長線路及宮川鐵橋(延長1450呎)設計施設に着手す(宮川鐵橋には水利及地勢上新なる徑間百臺呎の鋼鐵桁を設計せり)......」とある。渡邊はこの鉄道の宮川橋梁を設計しているからである。

もうひとつの傍証は、京阪電鉄第4代取締役会長・今田英作の子息・英一氏より聞いた話のことである。渡邊は今田(妻は渡邊の娘、静)が入社したとき、電車に乗せ、臨時に電車を止め、八幡の木津川橋梁の上で、この橋の構造について渡邊から説明を求められ、野田橋の駅で近隣の人口動勢について質問されて、気を休める暇がなかったという。

渡邊の主要な経歴の中で、渡邊が見出し、彼の仕事を大いに助けた主な4名を紹介する。

太田光凞(みつひろ)―鉄道庁から京阪電鉄へ―

京阪電鉄の創生期を支えたのが太田光凞(1874~1939)である。渡邊は、当時帝国鉄道庁運輸部庶務課長を務めていた太田に、京阪電鉄に有望な人材を紹介してほしいと相談したが、候補者に断られ太田自身が入社することになった。太田は、京阪電鉄の路線選定と用地買収という困難な業務を引き受け、1910(明治43)年4月、大阪・天満橋~京都・五条間の開業に漕ぎ着けた。その後太田は、10年には取締役、そして1925(大正14)年に取締役社長に就任。1936(昭和11)年に退くまで積極経営で京阪電鉄を関西私鉄大手の一角に育て上げた。その後渡邊は、京阪電鉄から太田を東洋電機製造の取締役として迎えた。昭和5、6年頃の大不況に東洋電機製造が存亡の危機を脱したのは、資金面を通じての太田の功績が極めて大きかった。

上遠野亮三―京阪電鉄から東洋電機製造へ―

京阪電鉄は1910(明治43)年4月1日に開業を予定していたが、路線変更などの問題で手間取ったうえ、不注意で守口の変電所を焼損し、予定日の開業が絶望的になった。しかし、上遠野亮三(1879~1952)をはじめとする技師チームが泊まり込みで復旧に取り組み、わずか半月後の4月15日に開業できた。上遠野はその後運輸課長として、急行電車の増発計画、電車脱線事故、深草車庫の火災などの陣頭指揮を執った。渡邊は、こうした京阪での上遠野の実績から、1918(大正7)年に電気技師として東洋電機製造に迎え、欧米の電機製造工場と電気鉄道の視察を命じた。帰国後、上遠野は渡邊の片腕となって技術方面の独立に力を注ぎ、わずか2年余りで外人技師を廃する功労者になった。その後、23年に取締役、1939(昭和14)年に第3代社長に就任する。

吉江介三―海軍工廠から東京石川島造船所へ―

東京石川島造船所時代の渡邊を助けたのは、横須賀海軍工廠にいた吉江介三(1888~1944)。英国に建造を発注した巡洋戦艦「金剛」の建造委員として渡英し、建艦技術を学ぶ。渡邊は同郷の吉江を1917(大正6)年に東京石川島造船所に迎え入れ、20年と23年にスイス・エッシャーウイス社(現・スルザー社)に派遣し、輸入に頼っていた蒸気タービンの製造技術提携を成立させる。その後吉江は、タービン国産化に貢献、東京石川島造船所は海軍から駆逐艦建造の受注に成功し、第1次世界大戦後の不況を脱することになる。なお、石川島播磨重工業社長、経団連会長を務めた土光敏夫は吉江の部下で、同じくエッシャーウイス社に留学しタービンの製造技術を学んでいる。石川島造船所と東芝の合弁会社・石川島芝浦タービンの社長を土光が後に務めたことが、東芝の社長に請われ日本有数の経営者になる縁となった。

栗田金太郎―東京石川島造船所から東洋電機製造へ―

渡邊は1918(大正7)年に東洋電機製造の社長に就任し、24年に懇望して当時東京石川島造船所取締役の栗田金太郎(1873~1965)を迎えた。石川島造船所で栗田は、橋桁工事技術の視察のため、14年に渡邊から渡欧を命じられている。東洋電機製造は、関東大震災の被害から立ち直った矢先、26年3月に横浜工場の火災で生産設備の大部分を失ってしまう。渡邊から横浜工場再建を一任された栗田は、徹夜で仮工場を設計し、3日後には工事に着手、40日後には工場の主要部分が使用可能になった。栗田は1929(昭和4)年まで在籍し石川島造船所に戻ったが、持ち前の統率力で渡邊の事業を守り立てた。ちなみに栗田の長女直子が土光敏夫に嫁ぎ、仲人は吉江が務めた。

渡邊は将来、会社を背負っていく人物、これぞと思った部下には共通して、外国に留学、企業研修を積極的に勧めていたのである。渡邊は人材登用ばかりでなく、一般社員、その家族にも目を配り、葉山の別邸などに招き、労をねぎらっている。

三浦基弘(産業教育研究連盟副委員長)

1943年旭川市生まれ。東北大学、東京都立大学で土木工学を学ぶ。専門は構造力学。東京都立小石川工業高等学校、大東文化大学などで教鞭をとる。傍ら、NHK教育テレビ「高校の科学 物理」などの講師、月刊雑誌「技術教室」(農山漁村文化協会)編集長などを歴任。著書に『日本土木史総合年表』(共著 東京堂出版)『世界の橋大研究』(監修:PHP研究所)など。

この記事が掲載されている冊子

No.60「技術者」

日本の近代化はごく短期間で行われたとしばしば指摘されます。国土づくり(土木)では、それが極めて広域かつ多分野で同時に展開されました。明治政府はこの世界的な大事業を成し遂げるために技術者を養成。その技術者や門下生らが日本の発展に大きな役目を担いました。
今号は、60号の節目を記念し、国土近代化に重要な役割を果たした「技術者」に注目しました。海外で西洋技術を学んだ黎明期から日本の技術を輸出するようになるまで、さまざまな時期における技術者が登場します。
時代を築いたリーダーたちの軌跡を見つめ直すことが、建設、ひいては日本の未来を考える手がかりとなることでしょう。
(2020年発行)

座談会:近代土木の開拓者

樺山紘一(東京大学名誉教授、印刷博物館館長)
月尾嘉男(東京大学名誉教授)
藤森照信(東京大学名誉教授、東京都江戸東京博物館館長、建築史家・建築家)

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総論:近代土木の技術者群像

北河大次郎(文化庁文化財調査官)

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