建物探訪

都市の過去と未来とを繋ぐ建築

建築史家 橋爪紳也

2009. 11. 05

大林組旧本店ビルは、時代の節目にあって、建築界における尖端を示した建物であった。

ひとつには構造での取り組みがあった。1923(大正12)年9月、関東大震災によって帝都が壊滅的な打撃を被る。専門家たちは耐震耐火性能に優れた鉄筋コンクリート構造の重要性をあらためて確認する。

大阪にあっても、百貨店や賃貸オフィスビル、ターミナルビルなど、数階から10階建て程度のビルディングを建設する動きがさかんになった。建設会社がそのノウハウを得ることを要請されたのは当然のことだろう。旧本店ビルの工事にあたって、大林組は社員をアメリカに派遣し最新の建築工法と建築機械の導入に力を入れた。

いっぽう意匠面にあって、同時代の流行を採択したという点にも注目したい。土佐堀川の畔にあるモダンなビルディングは、大阪で創業した同社にとって、四代目の社屋である。腰壁には竜山石を用い茶色のタイルを張った外観は、1926(大正15)年6月の竣工時には、界隈のランドマークとなったことだろう。

竣工当時の大林組旧本店ビル

細部の装飾に目を向けて欲しい。上方部の両端にテラコッタの円形レリーフを掲げ、ラテン語で紀元1926年と竣工の年次を刻んでいる。なかでも入り口周辺の構成が、細部意匠の見どころだ。三連のアーチ風の意匠で正面中央の各階の窓を囲いこみ、随所に紋章風の意匠を配置する。左右の鷲が来訪者を出迎えてくれている。インテリアの装飾にも、さまざまなモチーフが採択されている。エレベーター上部には、花と人面の鳥をかたどったアールデコ風の装飾がある。旧役員食堂はカタロニア風、壁には中近東の諸国を思わせる模様や舵輪のレリーフがあった。要所に据えられた彫刻は、大林組設計部に所属していた彫刻家大塚尚武の作品である。

外観には当時、アメリカで流行していたスパニッシュ・スタイルの影響をみてとることができる。意匠設計を担ったのは、設計部員であった平松英彦である。会社の象徴となるビルはどのような姿がふさわしいのか。小田島兵吉がまとめた平面計画に基づいて、社内で設計競技が行われた。審査の結果、毛利泰三、木村得三郎たちの案を凌いで、平松の作品が一等に選定された。

一期生として京都帝国大学工学部建築学科に学んだ平松は、在学中から大林組で実習した経験もあって、卒業後、入社する。師である武田五一ゆずりなのだろう、スパニッシュ・ミッション風のデザインを得手とした。もっともスパニッシュ・スタイルの案が選定された背景には、1921(大正10)年に米国に外遊した当時の副社長大林賢四郎の好みであったとも伝えられている。

重厚な正面入口
2階役員食堂
  • 1926(大正15)年、営業室の勤務風景

1920年代から30年代、建築の分野は、あきらかな転機を迎えていた。欧米から、従来の様式を打ち破るような新しい建築デザインの潮流が紹介される。それだけではない。工業化に対応した新たな建材の登場、高層化と耐震耐火に呼応した構造、そしてそれまでになかったビルディングタイプへの挑戦などが要求された。大阪も例外ではない。関西の建築ジャーナリズムにあって、「昭和維新」という表現が用いられたほどだ。旧本店ビルは、まさにその時代の産物である。

もちろん優れた建築には、それが竣工した時代の流行、ひいては人々の価値観が、そのままに託されている。旧本店ビルが竣工した当時、大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれる産業都市であると同時に、「日本の米国」とたとえられるほどに豊かな消費都市でもあった。

タイル張りの旧本店ビルは、今日の都市にあってはいささか渋く、落ち着いて重厚に見えるかも知れない。しかし竣工時の気分に立ち返るならば、このビルを目にした人々は、じつに新しく、華やかな印象を持ったのではないか。米国に学んだビルディング建築の存在感に、私たちはこの都市が「大大阪」と呼ばれた繁栄の時の記憶を呼び覚ますべきだろう。

歴史的な建造物を眺める時、私たちは懐旧的になりすぎてはいけないのではないか。先人たちの息遣いや建物にこめた想いを、当時の人々の立場に我が身を投影して、確認することが大切だと思う。真に良質な建築は、都市の過去と現在、そしておそらくは現在と未来とを繋ぐ役割をおのずと担っているのだ。

天神橋から見た大林組旧本店ビル

橋爪紳也(はしづめ しんや)

大阪府立大学21世紀科学研究機構教授/大阪府立大学観光産業戦略研究所長、
大阪市立大学都市研究プラザ特任教授、橋爪総合研究所代表(以上、2009年11月現在)
著書『モダン都市の誕生』、『創造するアジア都市』ほか多数

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