大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

三十三 伏見桃山御陵の造營 四十九歳

明治四十五年七月三十日 畏くも世界の大英主と仰がれ給ひし 明治天皇には、七千萬國民の限りなき哀愁痛悼の裡に崩御あらせられた。こゝに於て八月三日、閑院宮載仁親王殿下には、宮内省諸陵頭並に内匠寮諸員を隨へさせられ、炎暑を冒して御躬(みずか)ら陵寢の豫定地桃山方面の實地踏査を遂げさせられ、伏見大喪使總裁宮殿下と御詮議の後、陵域を伏見桃山と御決定になつた。

桃山

桃山の地は、京都東山三十六峯に續く南端の翠巒(すいらん)、南眼下に宇治川の淸流が滾々(こんこん)として奔駛(ほんし)し、紆繞(うじょう)十里の山城平野を一眸(いちぼう)に集め、四圍(しい)には遠く大和、河内、攝津、丹波の連山を望む等その風光の明眉は天下に得難く、既に藤原朝時代に於て伏見長者藤原俊綱(關白道長の孫)がこの桃山に莊を構へ、一日白河帝の聖問に答へ奉つて、自己の居伏見の莊を以て天下に冠するとまで誇つた由緖があり、後、慧眼なる豊公はこの地に城閣樓殿を築き、その結構と輪奐の壯麗さは我が國美術の一期を劃(かく)するものであつたのに不幸慶長七年兵燹(へいせん)の爲烏有に歸し、爾來獨り三夜の莊の小閣がこの風光を擅にし來つた外、疎林肅條(そりんしょうじょう)、雜草離々、徒に往時を偲ぶのみであつたが、素より天の爲したる絶勝の境、こゝを 明治天皇の陵域に定められたのは國民等しくその選に欽服したのであつた。

光榮ある御下命

しかるに圖らずもその光榮ある御陵工事の命が大喪使より大林組に下つたのである。故人は夢かとばかり、恐懼(きょうく)措く所を知らず、八紘に洽(あまね)き皇恩の有難さに咽びつゝ、謹嚴淸直(きんげんせいちょく)、畢生(ひっせい)の精根を盡して恩命に酬ひ奉つたのである。數ある同業者中何故に故人がその選を辱うしたか、惟ふに故人を飾る下の經歴が必然的に故人をしてこの光榮を擔はしめたものと恐察するのである。

後月輪東北陵の施工

明治三十年一月 英照皇太后の崩御あらせられた時、その御陵工事の命が舊師(きゅうし)砂崎庄次郞氏に下つたのであつたが、故人は國民としての立場から御工事の無事完成を禱るばかりでなく、父とも敬ふ砂崎氏をしてその光榮ある御奉公を首尾よく遂げさせたいといふ燃えるやうな情誼から、無論砂崎氏よりの請託もあつたので、氏に代つて施工の總監督となり御工事の實際に當つたのであつた。當時三十四歳の屈強な故人は、威容凛として全線を壓し、號令嚴肅(げんしゅく)、秩序ある一進一退は三軍の力を同ふする如く、しかも十數日間の不眠不休の勤勞に工程頗(すこぶ)る順調に進み、滯りなく御工事の完成を見たのであつた。この間故人の發揮した至誠奉公の大精神と指揮統制の水際立つて鮮かな技能は、その時既に宮内掛官の認識を深めたものらしく、加ふるに飽くまで堅實を標榜する故人の營業方針は爾後倍々江湖(こうこ)の信用を博し、業務は日々に隆昌、遂に關西に於ける業界の覇者たるに至り、かくして故人は身に餘る光榮に浴したものゝやうである。

曾て故人が二十歳の若き頃初めて業を砂崎氏に修めた時、譽ある宮城御造營工事に纔(わずか)に携つたのであつたが、當時は誰しもこの録々たる無名の靑年が他日數百千人の總帥として御陵工事の任を辱めやうとは想像にだも及ばなかつたことで、人生の奇しき因縁に驚歎せざるを得ないのである。故人としても、辿り來つた既往の經路を顧み、感慨は一入深きものがあり、全く自己を忘れて御奉公を完うしたのであつた。

桃山御陵工事

本御工事は八月十三日に着手して、九月十二日までの一ケ月間に竣成せしむるもので、その内容は寶壙(ほうこう)、御須家、御陵前廣場の鋤取及地均、正面大鳥居、祭場殿、神饌(しんせん)所、奏樂所、皇族御休所、參列員休所及桃山驛の新設プラツト、御假室、各種幄舍並に幅六間長さ約八丁の御陵道、その他奉斂に要する各種の準備工事等實に廣汎(こうはん)なものであつて、しかも時は三伏の候とて炎熱燒くが如く、指揮又は勞役する總べての者は、淋漓(りんり)たる流汗拭ひも敢えず、一心不亂に活動するのであつた。遉(さす)が夜に入つては山城平野より吹き來る風の凉しく、神寂びた桃山の幽境は一段の靜肅を語り、千草にすだく虫の音も、この晝夜兼行、精神力行の勞役者を慰むるかのやう、その奏でる無心の音律は集へる神の管絃樂とも聞かれるのであつた。

自ら工事の第一線に立てる故人は、部下諸員を督勵して監視の眼を緩めず、靈的統制に妙を得たその監督は何時もながら功を奏し、工事は嚴肅な規矩(きく)の下に順調に運んで行き、その熱誠と指揮の徹底は少からず宮内諸官を讃歎せしめたのであつて、これ全く故人の至誠が勞役諸人夫にまで浸透し、彼等も亦光榮ある自已の任務に感謝しつゝ、熾烈な奉公心を以てその全的能率を發揮したからである。

伏見桃山御陵
(御斂葬前)
伏見桃山御陵
(御斂葬前)

褒辭(ほうじ)

さしもの大工事も曾て類例のない顯著な成績を示し、期限に先立つこと一週日、即ち着手より僅かに二十三日間に過ぎない九月五日を以て首尾よく竣功し、大喪使關係官より「迅速俊敏、加ふるに親切周到、赤心彌(いよいよ)に工事に現れ、出來榮は完全無缺なり」との褒辭を辱うし、故人は多大の面目を施したのであつた。

御斂葬(れんそう)

九月十三日の夜、靑山練兵場に於ける大葬儀の終らせ給ふや、十四日早旦、梓宮列車は靑山驛を發せられ、暮雲低く垂れて秋雨冥濛(めいもう)洛の内外を籠むる午後五時十分、諸員一齊最敬禮の裡に桃山驛に御安着あらせられたのであつた。同六時十五分、哀みの曲は吹奏せられて御出發の御時を報じ、橡色(つるばみいろ)の布衫(ふさん)、細纓の冠に纓掛けた百四名の八瀨童子が、驛内の御假屋に進んで葱華輦(そうかれん)の兩側に候し、奉送員一同は幔門前の廣場に整列し、齊(ひと)しく御假屋に向つて奉拜した。この間に黑き御幔は音もなく除かれ、八瀨童子は恭しく御輦の轅(ながえ)に肩を入れ、同六時三十分、萬秋樂の音は低く高く悲げに起り、警蹕(けいひつ)嚴かに、肅々として祭場殿に向はせられた。げに國を擧げて御名殘惜まるゝ慟きの涙は雨となつて、御列はしめやかに濡れそぼちつつ進む。御名代閑院宮殿下には、陸軍中將の御正裝にてつゝましやかに歩ませ給ひ、伏見大喪使總裁宮殿下には、橡色の御冠に、橡色の御袍と鈍色の單奴袴の上に素服を着けさせられて、黑塗の太刀を佩き、右手には鈍色黑骨の扇を、左手には桐杖を打たせ、御藁沓の歩を靜かに運ばせ給ひ、以下從ひまつる諸員約三丁に及んだ。

御告別の典

鹵簿(ろぼ)の祭場幔門を入り終れる頃日は全く暮れ、祭場殿前の廣場に燦たる十基の白熱燈や、盛に焔を吐く篝火までも何んとなく光の薄さを感ぜしめ、無限の哀愁は黯さを增すばかり、草も木も一樣に頂垂れて見えた。奉送諸員は列を離れて廣場に列び、葱華輦は祭場殿に入り給ひて、梓宮を大床子に移し奉り、いと崇嚴に御告別の典が行はせられた。山を削り谷を埋めた靈域の夜は次第に更けて、悲愁の雲は全山を包むのであつた。

奉斂

御告別の典終了後、梓宮を百二十尺の丘上御須家に奉揚し、かくて外側は混凝土に、内側は石造に成る寶壙(ほうこう)の底深い御木槨に奉斂し、それ等の空隙には白木綿袋入の石灰又は淸水にて洗ひ淸めた木炭を詰め、御石棺の蓋石七枚の中央に總裁宮殿下御筆の「伏見桃山陵」と刻せるものを以て蔽ひ、更に混凝土にて固めたる四隅に埴輪を樹て參らせたのである。この御行事は徹夜數時間を要したのであつたが、畏くも各宮殿下には御交代にて夜もすがら御附添ひ遊ばされ、唯々恐懼(きょうく)の極みであつた。

御淸め土の御式

軈て兩殿下を首(はじ)め各殿下には間道より御須家に上らせられ、白紙に包みたる淨砂(きよさ)を寶壙上に順次振りかけ參らせられ、「御淸め土」の御式を行はせられたのである。御式が終ると直に淨土を以て盛土をなし、その中央に更に御陵銘石を埋め、盛土の水平に達した上を白川産粒選りの小砂利を饅頭型に蔽ひ奉り、御斂葬の全部終了を告げたのは夜の明け初めた午前六時であつた。大喪使指揮の下にこの名譽ある作業に從つた者は、大林組の幹部員を首め各職の棟梁と選拔された優良工のみであつて、齋戒沐浴(さいかいもくよく)鼻口を覆ひ、靈鳥八咫烏を象つて一語だに發することの出來ない御例によるものであつた。

陵前祭

御斂葬の終了直後、前夜通宵供奉の各皇族殿下を首め文武百官は祭場殿に參集して、最後の陵前祭を行はせられ、始めて伏見桃山陵と稱し奉つたのである。かくて 明治聖帝の大御靈は底津磐根深く桃山の御寢域に鎭りまして、未來永劫彌崇く、帝國鎭護の大神とならせ給ふたのである。

陵前祭には、故人は、草莽(そうもう)の微臣たる身を以て岡技師長と共に特に幄舍參列の恩命に接し、前代未聞の光榮に浴した。曾て故人が宮城御造營工事に奉仕したとき、遙に瀧見御茶屋の樹頭を拜して誠忠の涙にくれたことがあつたが、その天眞の赤誠が天翔ります聖靈に通じたものゝやう、微軀よく曠古の大命を拜し、心血を灑(そそ)いで仕へ奉つた御工事の竣成を見、彌(いや)が上にも興奮しきつた折柄に、更に幄舍への參列をさへ許されたのであるから、故人としては全く豫期しない身に餘る榮譽、その感慨は奈何ばかりであつたか。さなきだに涙脆い故人の性、人陰に嗚咽歔欷(きょき)して已まなかつた。

稀代の名畫

御斂葬後の或る日、英國の日本大使館附武官中島大佐が駐英各國武官を招待されたことがある。その時佛國大使館附一武官が『各國に於ける古今名手の筆になる繪畫を見ること今日まで幾百千たるを知らない。しかるに未だ曾て眞にその國民性を象徴した大藝術品に接したことがない。勿論中には作家の個性を表現して藝術の極致に達した大作品、或は眞に美術の神韻を不朽に傳ふべき獨創の生命を有するもの、就中(なかんずく)ラフアエルの基督受難、もしくは復活昇天の如き崇高の念を感得し得る絶品を各國の大作家によつて稀に見ることはあるが、その國民史もしくは國民性を遺憾なく發揮した大藝術に觸れたことのないのは甚だ心細い。願くはその國家國民を代表すべき國畫とも稱する逸品がたゞ一枚たりとも發見したいものだ』と希望を述べられた。蓋(けだ)し至言である。中島大佐は言下に『我が日本に於ては、貴官の言はるゝやうな國家を代表する一葉の國畫がある』と言ひながら、桃山御陵の繪畫を示し、『桃山は我が中古戰國時代に、一代の豪傑でしかも最も善く日本民族を代表した豐太闍の愛好地であつて、遠山近水、頗る佳絶な風光を有し、こゝに我が日本國民の崇敬の的である 明治天皇の御遺骸を斂め奉つたのであつて、この聖地桃山御陵の眞景は、即ち我が國民性を象徴した國民信仰の中心であり、我が國代表の國家藝術として一大誇りをなすものである』と言つたので、列國武官は一齊に感激の意を表し、明治天皇の陵域を以て代表的國畫となす創意の如何にも至純であり、皇室を中心とする日本國民の忠烈が窺はれ、國運の隆昌を來した原因の偶然ならざるを感嘆したといふことである。

尚故人の御造營中に於ける逸話は尠くない。その内最も忠貞の氣の橫溢したものを摘録して見よう。

算盤は入らぬ

或る日會計係の一人が、收支豫算表を作成すべく盛に算盤を彈いてゐた。故人はこれを見て『君は何をしてゐるか』と訊ねた。

その一人は『御陵工事の收支豫算表を作つてゐます』と得意氣に答へた。これを聞いた故人の眦(まなじり)は裂けんばかり、爛々たる眼光でその會計係を睨みつけ『この度のやうな御工事に算盤が入るか。そんな穢れた算盤なら叩き破つてしまへ』と一喝した。故人の胸中は殉忠の念に燃えさかり、全然利害など眼中に置いてゐない、寧ろ缺損に終る位が國民としての華であるとまで心得てゐたのである。

犧牲は覺悟

故に御須家の材料たる内地産無節の檜材の如き、同一品の總量を三軒の商店に注文したのであつて、係員などはかゝる高價な材料の突飛な注文に啞然として呆れたのであつたが、故人は『萬一不良材が混つてでもゐたらこの急場の責を塞ぐことが出來ないではないか。このやうな貴重材は容易に集まるものでない。三を誂(あつら)へて一を得るに過ぎないものだ。無論他の二は犧牲となつても致方がない』といつて萬全の備へを樹(た)てたのである。果してその言の如く、三箇所への注文によつて辛ふじて所要量が整へられたのであつた。

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