大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

編外 手向艸(たむけぐさ)(寄稿及談話)

小糠(こぬか)三合の我も折れた

濱崎照道

大林故人は、私にとつては忘れることの出來ない方で、事業上には特に關係はなかつたが、種々のことから親戚同樣に親しく往來した方である。私を故人にコネクトして呉れたのは本出保太郞氏で、その當時私は藤田組に單なるサラリーマンとして勤めて居たが、將來を考へて内心焦慮して居た折柄、同郷の本出氏によつて故人に紹介され、その刹那に、私は慈父の子に對するやうな温情と威嚴とに打たれたが、又一面如何にも柔かい落着いた言語動作に接して、すつかり親しみの中に抱擁されたのであつた。即ち「この人なれば以て六尺の孤を託するに足る」との印象を受けたのであつた。その後藤田組を辭し、大林組東京支店に厄介になり、故人の援助を得て獨立の事業を目論んで居た時、偶本出氏を通じて濱崎家から養子にといふ話が持ち上つた。私は、小糠三合の譬(たとえ)で、養子などは平に御免を蒙(こうむ)ると即座に拒絶してしまつたのであるが、本出氏が濱崎の先代に、『是非共彼の男が懇望なら大林氏を煩はすがよい。大林氏から言へば本人も嫌とは言ふまい』と入れ智惠をしたので、先代は早速故人にその經緯を話し、一切を擧げて依賴したものである。先代は故人の事業に對して好意を示した一人であつた。大抵の者は成功してしまへば昔の恩義など考へても見ないものであるが、情誼に厚い故人は、先代の好意を極めて重大とし、何がな報恩の機もと考へてゐられた時であつたから、一議に及ばず『宜しい。私が萬事引受けました』と言つて、知らぬ間に荷物から支度萬端を整へ、自ら親許となつて濱崎家に入家せしめられた。私としても、この豫期しない深い愛に感激して、喜んでその意志に從つたのであつた。かくの如く、愛は故人の全幅を飾つたもので、その行く所必ず愛の發露ならざるはなく、その人に接するや、貴賤の論なく、親疎の別なく、終始一貫愛を以てし、その事業に對するや、又注ぐに渾身の愛を以てせられた。愛に敵なし、傘下幾千の人々が故人を敬慕してその事業を助け、和氣靄々の裡に業務の發展を遂げ、期せずして枝葉は繁茂するのであつた。

故人はかくの如く人を愛し、事業を愛し、利害の念に淡く、人もし故人に至誠を以て謀れば、如何なる難業をも無條件で應諾された。

故人については傳ふべき多くのものがあるが、要するに、情と、意と、德と、腕とは、逸すべからざるその生涯の華であつた。

事業――人格――努力

最初の取引

故人は私にとつては師父ともいふべき方で、私が今日多少共社會に知られる所ありとすれば、それは全く故人の賜に外ならぬのである。初めて故人の恩顧を受けるに至つたのは、私の二十二歳の明治二十七年に、紀州新宮にある親戚の材木屋が幸橋に支店を出し、私がその支配人兼小僧をやつてゐた時である。當時橫堀の或る一流の板屋から背板を買つて頂いたことがある。その數量も相當に多く一年ばかり取引が續いた。私は不圖、一體これだけのものを何時も何處へ賣り込まれるのであらうか、出來得べくんば自分の手で直接その需要家に賣り込みたい。といふ希望を持つて居た折柄、丁度同じ口の注文があつたので、『何處へ納められるのですか』と聞いたが、『唯一寸』と笑つて、その時も一束九錢の割で五百束程賣つた處が、先方が艀を雇つて貰ひ度いといふことであつたから、『よし、明日この艀をつけて行けば賣込み先が分るだらう。分りさへすればもう此方のものだ』と、翌日は未明に起きてその艀の出るのを待ち、軈て艀が下つて行くのに此方は陸路を尾行した。艀は傳法の朝日橋を二三丁目下つた製紙工場へ到着して水揚げを始めたのである。後で分つたのであるが、その製紙工場は阿部製紙工場であつた。私は荷物の水揚げの終るのを待つて、會社へ行つて、背板を買つて貰ひ度いと申し出たのであるが、『左樣なことはこゝでは分らん、あつちへ行け』と、とてもひどい劍突くを喰ひながら、彼方此方と突つ離された結果、やつとその掛りと稱するものを尋ね當てゝ見ると、大林組出張所といふ極めて貧弱な看板がかゝつた小屋の中で、四、五人の大工が一生懸命に仕事をして居るのであつた。件の背板は紙の締木に使ふのだといふことが分つた。そこでその大工から敎へられて岡崎橋の大林組に行き、初めて故人に面會して懇請した。種々話合の結果、品物がよくて値段が割安なら一度持參するがよいとのことだつたので、まだ若い私にはまるで鬼の首でもとつた程の喜びを抱いて、その翌日荷物を搬び、事務所で一服して居ると、隣室で、故人が大工に『どうだ今日持つて來たのは品物はよいか』と言はれて居る。大工が、『以前に納めて居るものよりズツト上等のやうです』といつてゐるのが私に聞えたので、私はしめたと思つてゐると、故人は明快な調子で『これからも引續いて持つて來るやうに、そして金は要るか』と問はれた。初めて會つた時から大まかな、尋常一樣の人と違ふのが私の頭に何となしに響いて居たので、即座に『何時でも結構です。御宅の御支拂日に頂きまして差支へありません』と答へると、暫らく故人は私の顏を注視して居られたが、『左樣か』と如何にも滿足らしく感じて居られたやうであつた。かうしたことで、故人も私のやうな若造に何處か見處でもあると考へられたのであらう、その後引續いて何かと注文せられ、私も漸次故人の心意氣に感動し、何となしにその人格に引きつけられて、故人と面接することが唯一の樂しみで、その度毎に師父の如き暖かさを感じてゐた。當時既に取引のあつた佐々木伊兵衛、土橋由兵衛兩氏の間に伍して私のやうな貧弱であつた者でもその取引材木店の一部として貰つたのである。

激勵

或る時丸太を買つて貰ふべく店に行つたが、築港の現場だといふので、そこに行つて話をする機會を待つて居ると、『一寸急ぐから』と腕車で尻無川の木場(當時尻無川に大林組の木場があつた)へ行かれたので、私もその後をつけて又待つて居たが駄目、更に天下茶屋の豫備病院の建築場ついて行つたがそこでも『今日は非常に忙しいから』と一蹴された。しかし私は尚ひるまずに再び店に行つて故人が戻られるのを待つてゐると、暫らくして歸られ、『奧へ這入るやうに』とのことで、言はれるまゝに奧へ通ると、故人は『君は實に熱心な人だ。俺はかうした立派な服を着て腕車を飛ばしてゐるが、君は厚司で自轉車に乘つて、何處までも俺の後を商賣の爲に追ひ廻す。商賣の爲にはかくまで熱心で、若いに似合はず自己に忠實なのには全く恐れ入つた』としみじみと人情味豐かに話されたので、私は感激措く所を知らぬといつた有樣、肝腎の商賣である丸太を買つて貰ふことも忘れてしまつたほどであつた。

濱寺俘虜(ふりょ)收容所建築

濱寺の俘虜收容所の建築は、今から考へてもよく短時日の間にあれだけのものが出來たと思ふ位で、當時同業者をして三嘆久しうせしめたものであつた。これは故人から承つたのであるが、故人が明治三十八年一月の年始に第四師團經理部に行かれた時、「旅順陷落に伴ふ俘虜收容所が大阪附近に建築せられる」といつた何かの豫感に打たれ、機を見るに敏な故人は早くもその準備に着手し、同八日に私を呼んで『今に大仕事が降つて湧くからそれぞれ凖備を整へて置くやうに』とのことだつた。私は唯々故人の命ぜらるゝまま出來るだけの手配をすると共に、他にも一軒その凖備方を話したが、十一日には愈明日から材木を濱寺に廻送せよと命令された。『さあ始まつたな』と私も異常の緊張を覺えたが、故人は「大林組」の旗風勇ましき濱寺の收容所建築場に行かれ、第一線に立つて、晝夜の別なく、血の出るやうな奮鬪を續けられたのであつた。現場は戰場の如き有樣で、荷物の受渡しなども間違ひ易く、私の方でも係の者が丸太九百何十本の納入に對して大林組の係の人の錯誤から二重に領收證を貰つて居たことがあり、その事由を話して領收證を返したことがあつた。故人は不正を憎むこと蛇蝎の如く、もし不正を發見した場合、それが如何なる人であらうと、又場所が何處であらうと左樣なことに少しも斟酌なく、口を極めて罵倒された。隨(したが)つて正義を愛されることも人一倍強く、この二重請取證のことを申出たところ『いや、よく氣付いて貰つてまことに有難う』と非常に感謝されたこともあつた。こんな風で、故人は如何なる場合にも不正又はこれに類似したことは自ら愼み、この風は大林組の家風となつてゐるが、この他故人の偉大な人格の反映は到る處に發見されるのである。

他の一例をいへば、工事終了後精算の際、當時この方面を擔當して居られた伊藤氏の手元では私の店に參千圓少く拂つてあるやうになつて居り、私の手元では三千圓多く貰つてゐる勘定になつてゐたが、後伊藤氏の手許に手形が一枚附落ちになつてゐたのが發見された(勿論これは伊藤氏の責任ではなく係の人の粗漏だつた)やうなことがあつて、それも調査の結果判明した。濱恒のなら無條件で信用してよいといふことになつて、その勘定十四萬六千餘圓を一錢も値切られずに拂つて頂いたこともあつた。

かやうに一旦信じたら何處までも變らぬところは、實に一徹で親分肌な故人の性格であつた。

恐ろしき彼

男爵 大倉喜八郞翁談

大倉喜八郞翁は、故人が最も畏敬した同業の先輩であつた。赤手空拳、遂によく大成して大倉組の富を致した一代の巨人であるが、曩日(のうじつ)、編者の一人が故人のことについて翁の感想を仰いだ時、令嗣喜七郞氏と共に快よく大倉組の樓上に引見して、故人に關し種々感想を述べられた。

大林さんについて今も尚私の眼底に浮ぶことは、果斷決行の勇に富んでゐられたことです。大林さんとは同業の關係上種々と交渉したことも少くなかつたのですが、實に淡泊で、理前さへ解れば何等の糟も殘さず一氣に手打ちしたことも屢(しばしば)あり、私も大林さんの仕事の上には決して我意を通さなかつた筈です。共同で仕事を請負ひましたときも、謙遜で利益問題などを固執しない大林さんでした。

殊に大林さんは、一旦かうと決心したことには、いかなる威力に對しても毫も怖れない勇敢な方であると感心しました。まだ大林さんがその大を成されない前、何かの請負のことで上京され、同業組合の相談の爲大阪方を代表して我等と商議中、一人の巨漢が突如闥を排して來て、『貴公は、この俺を差置いて、大阪方の代表となつて來たのは餘りに不遜ではないか』といひがかりをつけ、何處かの請負について所謂團子取りの話を持ちかけた。すると今まで默つて聞いてゐた大林さんは、『何ツ』と立上り、『默れツ』と一喝された。その權幕に、傍にゐた一同は何れもどうなることかと驚いてその方を瞠りましたが、大林さんは、『東西共通の仕事についての規約の協定は、少くとも双方から選ばれた委員の手によつて決行するに何の異議があるか。大體貴公達は、土木建築界の弊風である團子取りを仕事にして、何等の財力も信用もないのに、刺靑と腕まくりで、他人の仕事の上前をはねることばかり考へてゐる。そんなケチな野郞がゐるから我等の業界は何時までも發展しないのだ。この大林は一旦かうと信じた以上、誰が何といつても一歩も讓らないぞ。正義を楯に、確實、神聖を尺度としてゐるのだ。歸れツ。そんな馬鹿げた文句を言ひに江戸まで來てゐるのは大阪の面汚しだ』と一分の隙さへない。この緊張した態度に相手も呆氣にとられ、ブウブウ言ひながら退出しました。故人は『改革といふものは難かしいものです。團子取りの弊風を一掃したいといふ信條で進んでゐるので、あんなのが何人私を脅迫したか知れませんが、私はあゝいふ卑劣な習慣を根本から排除して、我等の請負うた事業は絶對に何人の容喙(ようかい)も許さず、といふ大林組獨特の主張に終始して居ります』と言はれ、私は、失禮だが、『あゝ貴下は豪(えら)い。その若い元氣で一直線に進んで行つて下さい』と言つて、二人は固い握手をしました。私は、大林さんを思ひ出すたびに、この時の光景がはつきりと眼底に浮び上ります。

鶴彦翁 大倉喜八郞男爵は、本書に例の麗筆を揮つて題字を惠まれたが、今は翁も亦故人となられ、やつと世に出た本書も、思ひ出となつて御靈前に捧呈することゝなつた。

任俠の前に損益なし

大谷順作

故人について今も尚私の感服してゐることは、その輪廓が偉大であつて、義俠心に富んで居られたことである。

元來私は官吏畑に成長して、四角四面な碁盤の罫のやうな生活をして來た過去の歴史からその間相當有名な人物にも接したが、故人の如き俠氣のある人を見たことがなかつた。

明治三十四、五年のことである。私が若松の製鐵所經理部長として農商務省から轉任して行つた當座のこと、同製鐵所では、前所長の所謂綱紀問題があり、その上鐵の需要が一時減退して製鐵所の悲況時代で、二個ある鎔鑛爐のうち一個は火を消してゐた。

製鐵所附屬の二瀨炭坑の石炭は、採掘しなければ鑛穴に水が溜るので、その方の仕事は繼續(けいぞく)してゐた。そこへ大林組からその粉炭引受の申込があつた。當時の製鐵所に於ては、この申込は渡りに船であつたから早速契約をしたが、大林組では獨特の手腕を揮つて、それを自家の小蒸汽用にも使つたらうし、又大部分は鐵道に納入してゐた。しかるにその事が門司、下關あたりの石炭業者の耳に入つて、大騷ぎがもち上つた。大林組が業者でもないのに石炭の販賣をやり、しかもその石炭は製鐵所々屬の二瀨炭だといふので、果ては議會の問題となつて、私も閉口したが、今更大林組と契約の解除をすることは到底不可能のことである。もしかういふ場合、民間が契約官廳(かんちょう)に對して破談の申込をすると當然多額の違約金を取られることになるし、官の方が違約した場合には民間に對する賠償の豫算はないし、といつてこの儘にして置いては政治問題にもならうといふ官吏としては詰腹事件である。私は全く板挾みの状態となつた。そこで勇氣を揮つて大林組の關係者を訪問し、自分の苦境を開陳して大林氏方の意向を叩いて見たが、故人の意見はとも角、側では中々強硬である。仍(よっ)て私は愈決心して、もしこの事が纒らなければ辭職の覺悟で故人にお目にかゝつて縷々(るる)内情を開陳した。例の調子で、はいはいと頭も上げず、小屈みに面を伏せて傾聽されてゐた故人は、私の話が終るや、『承知しました貴方が嘸(さぞ)御迷惑でせう。一切の契約は無條件で取消しませう』と、しかもそれが何等の角張つた態度や辭令でなく、淀みなき素直な調子で深い肯きを見せられた時、私は双肩の重荷を下した氣持でホツト一息ついた。

『有難うございます。貴方が左樣簡單に御承諾下さるとは思はなかつた』
『いや、お互樣のことでございますよ』
といつた調子で、何の蟠(わだかま)りもなくこの事件は解決した。事實この解約は大林組に少なからぬ迷惑を及ぼしたことだらうし、當時の大林組の臺所向では非常な打撃であつたらうと思はれた。

この時私は生れて初めて、かういふ淡白な氣性の風韻に接して、市井の中にもかうした偉い人があるのかと、つくづく感心させられたのであつた。

精神的の施工

小笠原 鈅

東京中央ステーシヨンは、當時建築界の權威たる辰野金吾博士の設計に成り、同設計事務所に博士を佐けた葛西萬司博士及松井淸足氏(エレベーシヨンは松井氏の考案で、同氏は後、海軍技師より大林組に轉じ、取締役東京支店長を勤められた)の如きは現建築界の耆宿(きしゅく)である。鐵道省の監督としては金井彦三郞氏が總主任で、(氏は土木出身であつたので建築方面は主として私が擔當した)工事は大林組の請負であつた。何分當時としては稀有の大建築であつたから、技術者方面はいふまでもなく、社會一般からも注視の的となつてゐたので、各關係者は勿論私の責任も重且つ大で隨分と苦心させられたものであつた。コンクリート施工にミキサーやエレベーター、タワーを使用したことも恐らく我が國としての嚆矢(こうし)であり、ホール大天井のコンクリート打に、假枠(かりわく)の低下を氣付かずに徹底的に突き固めた爲、遂に假枠一部の低下を見、後已むなく低下部分だけを斫り取つたやうな失敗などもあり、或は鐵骨筋違の空隙部分には適度に切つた煉瓦を充積するといふ入念ぶりで、その他煉瓦の色を揃へ又は屋根のスレートの色合及厚さを一定する爲、一人の技術員がこれに附きゝつてゐたやうな譯、木材は木曾御料林の原木を現場にて製材するなど、今日から考へると實に馬鹿叮嚀(ていねい)なものであつた。かうした徹底的入念の施工であつたが、大林組では現場主任及掛員より一職工に至るまで、我々監督側の意思をその儘受け容れ、如何にせば強靭にしてしかも優秀な建物が出來るだらうかと、一意專心それのみに沒頭して工事が進められたのであつて、全く協心戮力(りくりょく)、異身同體となつて和氣靄々裡にこの大工事を終了したのであつた。私の多年の經驗からいつてもこの時ほど請負者側としつくり意思の合致した例は至つて鮮く、今から考へると胸の透くやうな心地がする。

かくして出來上つた東京ステーシヨンは、私としては我が國の代表的優良建築と自信してゐたのだが、彼の大正十二年九月の關東大震災時に、丸ノ内附近の高層建築物は殆ど損傷を被らざるはなく、就中(なかんずく)内外ビルの如きは鐵筋が飴のやうに屈曲して崩壞し、又東京會館は二階床の全部が墜落するなど、その他丸の内、郵船等の各ビルヂングの被害も相當大なるものであつたが、獨り興業銀行と我が東京ステーシヨンに至つては、些の損所も罅裂(かれつ)もなく、巍然(ぎぜん)としてその強靭を誇り得たのであつて、その時の私は我が眼を疑ふほど痛快淋漓(りんり)たるものがあつた。實に關東地方の大震災は、既成建築物の強弱を遺憾なく試驗したものであつて、將來の建築技術上に刺戟を與へたことの大なるはいふまでもないが、技術的の強度計算等は震災前と雖も相當研究もされ、既に東京ステーシヨンのやうな生きた實證が擧げられたのだから、今遽に強て技術問題を云爲(うんい)する必要はあるまい。寧ろ無形の施工心理といふやうな精神的方面の指導原理でも研究するのが優良建築物を得る上に於ての捷徑(しょうけい)ではあるまいか。

東京ステーシヨンはかくして強靭比類なき優良建築としての折紙がつけられた。これは前きに言つた上下協心戮力の精神的結合の賜に外ならない。これを要するに總帥たる大林芳五郞氏の大精神が、現場掛員より一職工に至るまで深刻に滲み込んでゐた結果に外ならないと思ふ。氏は音に聞えた豪邁(ごうまい)卒直、不正不義は爪の垢ほども持合せのないといふ人。まして東京へ進出の第一歩として東京ステーシヨンを請負つた關係上、全く利害に超然として本工事の完璧を衷心から期してゐたので、幾多模樣替等の場合でも、唯々諾々として何等の苦情もなく、何時もすらすらと工事が運んだのであつた。例へば鐵骨筋違内部への煉瓦積込みの如き、又は貴賓室入口の如きも、一朝有事の場合を虞つた宮内省よりの御注意により、取放しの出來る黑柿のベース上に柱を建て、兩側には篏殺しの窓を設けて何時たりとも入口を擴げ得らるゝ方法に模樣替をしたのであつたが、その後偶 明治天皇の崩御に際して御梓宮を桃山に遷し奉るとき、些の支障をも來さなかつたのはこの模樣替によるもので、かうした相當手間の込んだ變更に對しても、大林組は快く無償でこれを施工するなど、金錢上には頗(すこぶ)る恬淡(てんたん)無慾で、實にさつぱりしたものであつた。かうした點から見ても、大林氏の精神が那邊にあるかを窺はれるのである。因にいふが興業銀行も大林組の施工になつたものである。

聞けば大林氏は空手空拳からかの大をなした人だけあつて、普通人とは確かにその趣を異にしてゐた。氏は各所に相當の大工事を請負つてゐた關係で、東京ステーシヨン工事は、現東京方面の探題たる植村克巳氏や、その部下の伊藤順太郞氏や、野原太市郞氏等に一切を任せ、自身は隔月に一回位上京されて現場員を督勵してゐたやうに記憶してゐるが、上京の際監督事務所に見えた時は、必ず先づ『現場施工に不都合なことは御座いませんでしたか。ありましたら充分叱り付けますから御遠慮なく仰しやつて頂きたい』と至誠面に現はれ、如何にも懇切鄭重を極めてゐる。我々監督員側もさうした態度に少からず感激して、よしんば現場に多少不都合の廉(かど)があつたにしてもその儘は告げられもせず、我々は何時もたゞ好感を以て氏を迎へるのを常としてゐた。氏は餘り邊幅を飾らない謹嚴な人で、寧ろ部下社員中には氏以上の立派な洋服を着用してゐられる方を見受けたものだ。又氏は何時も小さな鉈豆の煙管を使用してゐられたことなどは、當時を想ひ起した際目に浮んで來る印象の一つで、今更ながら追懷(ついかい)綿々たらざるを得ない。

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