小笠原 鈅
東京中央ステーシヨンは、當時建築界の權威たる辰野金吾博士の設計に成り、同設計事務所に博士を佐けた葛西萬司博士及松井淸足氏(エレベーシヨンは松井氏の考案で、同氏は後、海軍技師より大林組に轉じ、取締役東京支店長を勤められた)の如きは現建築界の耆宿(きしゅく)である。鐵道省の監督としては金井彦三郞氏が總主任で、(氏は土木出身であつたので建築方面は主として私が擔當した)工事は大林組の請負であつた。何分當時としては稀有の大建築であつたから、技術者方面はいふまでもなく、社會一般からも注視の的となつてゐたので、各關係者は勿論私の責任も重且つ大で隨分と苦心させられたものであつた。コンクリート施工にミキサーやエレベーター、タワーを使用したことも恐らく我が國としての嚆矢(こうし)であり、ホール大天井のコンクリート打に、假枠(かりわく)の低下を氣付かずに徹底的に突き固めた爲、遂に假枠一部の低下を見、後已むなく低下部分だけを斫り取つたやうな失敗などもあり、或は鐵骨筋違の空隙部分には適度に切つた煉瓦を充積するといふ入念ぶりで、その他煉瓦の色を揃へ又は屋根のスレートの色合及厚さを一定する爲、一人の技術員がこれに附きゝつてゐたやうな譯、木材は木曾御料林の原木を現場にて製材するなど、今日から考へると實に馬鹿叮嚀(ていねい)なものであつた。かうした徹底的入念の施工であつたが、大林組では現場主任及掛員より一職工に至るまで、我々監督側の意思をその儘受け容れ、如何にせば強靭にしてしかも優秀な建物が出來るだらうかと、一意專心それのみに沒頭して工事が進められたのであつて、全く協心戮力(りくりょく)、異身同體となつて和氣靄々裡にこの大工事を終了したのであつた。私の多年の經驗からいつてもこの時ほど請負者側としつくり意思の合致した例は至つて鮮く、今から考へると胸の透くやうな心地がする。
かくして出來上つた東京ステーシヨンは、私としては我が國の代表的優良建築と自信してゐたのだが、彼の大正十二年九月の關東大震災時に、丸ノ内附近の高層建築物は殆ど損傷を被らざるはなく、就中(なかんずく)内外ビルの如きは鐵筋が飴のやうに屈曲して崩壞し、又東京會館は二階床の全部が墜落するなど、その他丸の内、郵船等の各ビルヂングの被害も相當大なるものであつたが、獨り興業銀行と我が東京ステーシヨンに至つては、些の損所も罅裂(かれつ)もなく、巍然(ぎぜん)としてその強靭を誇り得たのであつて、その時の私は我が眼を疑ふほど痛快淋漓(りんり)たるものがあつた。實に關東地方の大震災は、既成建築物の強弱を遺憾なく試驗したものであつて、將來の建築技術上に刺戟を與へたことの大なるはいふまでもないが、技術的の強度計算等は震災前と雖も相當研究もされ、既に東京ステーシヨンのやうな生きた實證が擧げられたのだから、今遽に強て技術問題を云爲(うんい)する必要はあるまい。寧ろ無形の施工心理といふやうな精神的方面の指導原理でも研究するのが優良建築物を得る上に於ての捷徑(しょうけい)ではあるまいか。
東京ステーシヨンはかくして強靭比類なき優良建築としての折紙がつけられた。これは前きに言つた上下協心戮力の精神的結合の賜に外ならない。これを要するに總帥たる大林芳五郞氏の大精神が、現場掛員より一職工に至るまで深刻に滲み込んでゐた結果に外ならないと思ふ。氏は音に聞えた豪邁(ごうまい)卒直、不正不義は爪の垢ほども持合せのないといふ人。まして東京へ進出の第一歩として東京ステーシヨンを請負つた關係上、全く利害に超然として本工事の完璧を衷心から期してゐたので、幾多模樣替等の場合でも、唯々諾々として何等の苦情もなく、何時もすらすらと工事が運んだのであつた。例へば鐵骨筋違内部への煉瓦積込みの如き、又は貴賓室入口の如きも、一朝有事の場合を虞つた宮内省よりの御注意により、取放しの出來る黑柿のベース上に柱を建て、兩側には篏殺しの窓を設けて何時たりとも入口を擴げ得らるゝ方法に模樣替をしたのであつたが、その後偶 明治天皇の崩御に際して御梓宮を桃山に遷し奉るとき、些の支障をも來さなかつたのはこの模樣替によるもので、かうした相當手間の込んだ變更に對しても、大林組は快く無償でこれを施工するなど、金錢上には頗(すこぶ)る恬淡(てんたん)無慾で、實にさつぱりしたものであつた。かうした點から見ても、大林氏の精神が那邊にあるかを窺はれるのである。因にいふが興業銀行も大林組の施工になつたものである。
聞けば大林氏は空手空拳からかの大をなした人だけあつて、普通人とは確かにその趣を異にしてゐた。氏は各所に相當の大工事を請負つてゐた關係で、東京ステーシヨン工事は、現東京方面の探題たる植村克巳氏や、その部下の伊藤順太郞氏や、野原太市郞氏等に一切を任せ、自身は隔月に一回位上京されて現場員を督勵してゐたやうに記憶してゐるが、上京の際監督事務所に見えた時は、必ず先づ『現場施工に不都合なことは御座いませんでしたか。ありましたら充分叱り付けますから御遠慮なく仰しやつて頂きたい』と至誠面に現はれ、如何にも懇切鄭重を極めてゐる。我々監督員側もさうした態度に少からず感激して、よしんば現場に多少不都合の廉(かど)があつたにしてもその儘は告げられもせず、我々は何時もたゞ好感を以て氏を迎へるのを常としてゐた。氏は餘り邊幅を飾らない謹嚴な人で、寧ろ部下社員中には氏以上の立派な洋服を着用してゐられる方を見受けたものだ。又氏は何時も小さな鉈豆の煙管を使用してゐられたことなどは、當時を想ひ起した際目に浮んで來る印象の一つで、今更ながら追懷(ついかい)綿々たらざるを得ない。