大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

五 堅陣 二十九歳

故人が大林組としての旗揚げをした明治二十五年當時は、未だ同業者間に「談合」、「談合取」、「繩張」等の惡弊が根強く蔓(はびこ)つてゐた時である。明治二十年前後官に於て俠客、博徒の輩をして正業に就かしむべくその取締を嚴にした結果、彼等の大部分は土木建築請負業に轉向し、かくて請負業者は雨後の筍の如く激增したのであつたが、彼等轉向者の多くは、その轉向の目的が官の監視を遁(のが)れようとする方便に過ぎず、素より請負工事を消化して行く手腕も力量もなかつたので、自然生活費にも追はれることゝなり、お手のものゝ殺伐な氣風と腕力を武器として濡れ手で粟の談合取や、舊來(きゅうらい)の勢力地域即ち繩張の内で他人が工事を進めんとするに際し多額の念達金を強要するなど、その跋扈(ばっこ)跳梁は言語に絶し、彼等の存在は請負業の發達を阻害した外何ものも齎(もた)らさなかつたのである。人一倍正義感に強かつた故人は、その旗揚げと同時に敢然としてこれ等の惡弊打破を叫び、殺伐極まる似て非な彼等請負業者を相手として戰を宣したのである。この戰鬪開始には刄の下をも潜る覺悟が必要なのは勿論だが、最も安全且つ有利な方策は堅牢不拔(ふばつ)の堅陣を布くことであつて、故人はこの堅陣をどのやうに築いたか、即ち大阪隨一の顏役木屋市野口榮次郞親分の手をかりてこれを築き上げたのである。

創業當時の故人
(三十歳)
創業當時の故人
(三十歳)
創業當時の舊本店
(裏側)
創業當時の舊本店
(裏側)

豪俠木屋市

木屋市親分と故人とは、關西鐵道工事の際邂逅して以來度々相會して肝膽(かんたん)相照し、親みは倍々深められて行つた。偶明治二十四年二月二十八日木屋市一家にとつて大事件が勃發した。それは木屋市一家と當時堂島に覇を稱へてゐた顏役「出店の又」との鬪爭である。出店の又は剛力非凡、宮角力(みやずもう)では綾勇と號し、その勇名は大阪地方一圓に轟き渡つてゐた。もと木屋市の乾兒であつたが、天與の剛力は市俠間に重きを加へ、その勢力は大阪の北部一圓を壓して次第に親分たる木屋市の繩張をも蠶食(さんしょく)するに至つた。もし彼が賢者であつたなら木屋市との鬪爭も起らなかつたであらうが、凡夫の淺ましさは自己權勢の伸張につれて遂に順逆の道を忘れ、親分木屋市をさへ蔑視し、その乾兒等をも侮辱する傍若無人の振舞が重なつた。

金臺寺の亂鬪

こゝに於て木屋市一統は怒髮天を衝き、『彼れ光秀屠(ほふ)らざるべからず』と窃かに機を狙つてゐた折柄、端なくも乾兒同志の喧嘩が導火線となり、金臺寺裏(現北區堂山町)の亂鬪を見るに至つたのである。木屋市一家の若者はこゝぞとばかり相結束して阿修羅の如く奮鬪し、流石の豪勇出店の又も憐れ二十數ケ所に刀瘡を受け、遂に露頭の露と消えたのである。凱歌は木屋市一家に揚つてその驍名(ぎょうめい)は全市を震駭せしめた。故人も報を聞いて駈けつけたのであつたが、事既に鎭つた後とて、たゞ木屋市の身の無事であつたのを祝つて歸宅した。無論木屋市は乾兒數名と共に殺人犯として檢擧されたが、素より木屋市自身手を下したのでないのだから、同年七月十日豫審免訴となつて出獄した。

地車

同年八月二十五日は木屋市が居村の鎭守綱敷天滿宮の夏祭であつたが、附近の若者は親分の無罪出獄を祝ふべく地車を出して狂喜亂舞した。しかるにこの事を聞き知つた各方面の顏役より、『かゝる目出たい地車、自分等の區内をも輓き廻したいから是非拜借が願ひたい』といふ申入。天滿では「小松山」、天神橋南では「山熊」、上町方面では「出齒定」といふやうに、次から次へと大阪全市の顏役がこれを輓き廻して遂に十日間に及んだのであつた。

顏役の連鎖

かくて木屋市は忽ちにして押しも押されもせぬ大阪顏役中の大御所たるに至り、軈て木屋市を中心とする顏役の連鎖が出來上つたのである。傳法の「伊之助」、幸町の「淡熊」、梅田の「難波福」、九條の「永福」、新町の「小常」等はその錚々(そうそう)たるもので、その勢力は全市に蔓(はびこ)つた。

先見の明

元來彼の町奴、火消などといふ者は、各地方部落の番又は棒などと稱した用心棒のやうに大賈(たいこ)富豪の護衛に當つたものが多かつた。豐公が曾て蜂須賀等の野武士を味方として武勳を建てた例もあり、故人は幸ひ木屋市とは多年の盟友、その他の顏役も木屋市を介して故人の有力な支持者となつたので、こゝに堅牢不拔の堅陣が構成されたのである。當時幾多の群小暴漢を敵として請負界革正の目的を達しようとするには恐らくこれ以上の良策はなかつたであらう。

果せる哉旌旗(せいき)堂々たる故人の堅陣を仰ぎ見た彼等群小輩は手も足も出ず、故人の前途は坦々として砥の如きものがあつたのである。かくの如き神算奇謀とも稱すべき策を採つた故人の叡智と、かく多數の大顏役をよく懷柔して長くその威に心服せしめた王者的才幹には全く讃歎の外はない。この靑天の霹靂ともいふべき故人の投じた革正の烽火は、無論業界を反省せしめるに餘りはあつたが、如何せん因襲久しきに彌つた積弊を遽に根絶し得なかつたことは遺憾であつた。しかし故人自身は、その生涯を通じて終始一貫、俯仰天地に愧ぢない淸く明るい道に精進することをせめてもの慰めとして自ら快としたのであつた。

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