大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第一編 前期

五 故人の奉公時代

麴屋呉服店

故人は、十一歳の春、温かい母の懷から離れて他人の家に丁稚見習の身となつた。

故人が奉公時代の
麴屋又兵衛氏
故人が奉公時代の
麴屋又兵衛氏

所は西區問屋橋北詰を北へ入つた東側の麴屋又兵衛氏の呉服店である。麴屋又兵衛氏は、堀江六丁目の大呉服店麴屋太平氏の分家で、同業小橋屋などと肩を比べた盛大な店舖であつた。主人夫妻は世にも稀な好人物、故人は、名も由松と改め、角帶に前垂がけの小さな前髮姿で、十數人に餘る傭人の中に立ち混つて浮世の荒浪に揉まれて行くのであつた。

當時大阪の一般商家では、學問といへば詩や歌や俳句を作つたりする不生産的な仕事としか思つてゐず、奬學思想が甚だ缺けてゐた。このことは明治五年四月大阪府から年寄に發せられた敎育振興の諭告に見るも明らかで、文中「抑(そもそも)是迄學問の弊たる花月を翫(もてあそ)び詩歌に長じ候迄の事なれば父母も其子弟の書を讀むを嫌ふも理はりなり云々」とある。故に當時に於ける丁稚奉公は、現時の商業學校等に學ぶと同じやうな考の下に、孰(いず)れの家庭に於ても、子弟は物心のつく頃から他人の飯を食ふことを運命視して怪みもせず、寧ろ出世の門出なりと心得てゐたもので、故人も亦數人の傭人に坊ツちやん坊ツちやんと傅(かしず)かれてゐた身でありながら勇躍して丁稚修業の途にのぼつたのである。

嚴しい修業

而して當時大阪地方の習慣としては、相當大きな商店ほど丁稚修業は中々嚴格であつた。麴屋などもその例に漏れず、先づ見習の最初は掃除、雜巾かけ、風呂炊きから飯炊き、皿洗ひ、水汲み、豆腐屋や八百屋等への使ひ走りその他子守等に至るまで、主としてお三どんの助手とでもいふやうな仕事から始り、その嚴しい修業が一と通り終つてから初めて店頭に坐らされ、それからが呉服店としての本格的見習の門に入るのであつて、故人も一年ほどはその嚴しいお三どん式修業を積み、漸く翌年の春頃から店頭の人となつたのである。紺暖簾の影にきちんと坐りながら、一番頭の伊助氏や、二番頭の萬助氏などより、客に對する應接の方法から呉服物の種類名稱、寸尺の當り方、更に進んで裁ち方或は記帳整理等に至るまで、種々樣々の敎を受けて行つたのである。

負けぬ氣

負けぬ氣の故人は、『知らぬ』といふことが嫌ひであつたから例の究明癖も旺盛なわけ、丁稚修業の上にも遺憾なくその性格を發揮し、何事によらず自己のものとするまでは細大洩さず熱心に先輩の敎を乞ふたものである。まして頭腦明晰、記憶力も豐富な結果、『物覺えのよい子』といふ衆評の下に、寸時にして一人前の丁稚たるを得た。さうして獨り呉服上の智識のみならず、世上萬般の何事にてもあれ人一倍新智識の吸收に努めたものである。

微妙の閃き

殊に泰西の大工築物の繪本や刷物等に對しては特に多大の興味を有ち、驚きの眼を瞠(みは)つて飽くを知らないほど見入つたものであつた。無名の丁稚たる一少年の腦裡に一種微妙の閃きを生じ、後年土木建築界入りを決意するに至つた動機は、この丁稚時代に於て發芽したものゝやうにも思はれる。

呉服上の智識は三年を出でないで殆ど修め得た。體軀も一、二歳を超えたほどの大きさ、まして豪氣に富む氣性は長く平々凡々の一丁稚たるを許さず、遂に儕輩(さいはい)を壓(あっ)する事實上の棟梁株となつてしまつた。

棟梁の天才

時々朋輩を賑はす饅頭代が故人の貧弱な財布の底を叩いた潤ひであることも少くなかつた。さうなると丁稚の棟梁も難しい哉で、常に小使錢の窮乏に迫られ、自然母の援助を仰ぐより他に途がなく、時々母の許に強請に行つたものである。母堂はその度毎に諄々(じゅんじゅん)としてその不心得を諭したのであつたが、聞けば多少同情の價値もあり、三度に一度はその請を容れずにはゐられなかつた。上にたつものは下を潤すといふ棟梁哲學を、故人は他人より敎授せられたのでなく、自然の天才的性格から既に丁稚時代より發露したのであつた。故人の奉公時代と時を同うして堀江の麴屋本店で丁稚をして居られた岸田泰輔氏(爾後數十年間主家に忠勤を抽(ぬき)んでられた人)の懷舊談(かいきゅうだん)によると、『私等はよく支店の麴屋にお使に遣らされましたが、故人は、年下の者(岸田氏は故人より五歳下で七歳から奉公)に對しては、私のやうな本店の丁稚をまで愛想よく劬(いたわ)つて呉れられたもので、或る凍えさうな寒空の夜、何時ものやうにお使に參つたことがありました時、餘りの寒さに慄え上つて口上さへ滿足に述べられなかつた私の慘めな姿を見て、あゝ可哀想にと同情されたのでせう。故人は御自分でホコホコの燒芋を買つて來て、そつと私の脊中に入れて下さつた。その時の嬉しさは、今から約六十年も前のことですが、忘れようとしても忘れられません』と言つてゐられる。小さいことながらこの一事を觀ても、故人は、その先天的の慈愛心が自ら人心收攬の道に適ひ、既に少年時代から棟梁の才を具備してゐたことが察せられるのである。

太つ腹

のみならず故人は他の丁稚連中と全然その型を異にし、太つ腹の豪快な點はその當時から片鱗を現はしてゐた。居睡りは丁稚の專賣特許とさへいはれてゐるが、麴屋の店でも客の無い雨の夜の少しく更けて來た時など、數ある丁稚の中で一人や二人は必ずコクリコクリと胡蝶の夢を追ふ者が出て來る。さうした時には他の丁稚等はこゝぞとばかり居睡り丁稚の顏を墨で繪どつたり、或は觀世縒(かんぜより)を鼻の中にさし込んだり、種々樣々の惡戯を行ふのであつた。すると惡戯に驚いて居睡りから覺めた件の丁稚は、あわてゝ顏の墨を拭き取つたり、自分の罪を棚に上げて惡戯の下手人を詮索するなど、その狼狽振りや眞黑の顏で不平顏する滑稽さを店頭に於けるその夜の坐興として痛快がつたものである。故人は人一倍晝間の活動が激しかつた爲もあつて、居睡りは相當剛の者で、當初は惡戯の包圍に陷つたことも數回あつたが、覺めた時の故人の態度が頗(すこぶ)る平然たるもので、喫驚もせず、怒りもせず、笑ひもせず、顏の墨を拭き取らうともせず、無論下手人の詮索などもしない。その沈着振りには拍子拔して何等の興味も可笑しさも湧いて來ないので、遂には別者扱ひにされて、その後は惡戯の包圍を脱することが出來たとのことである。

矢立代の無心

當時母に無心を言つたことの中最もよく話題に殘つてゐるのは「矢立代の無心」である。或る日故人は矢立を購(あがな)ふ一圓を強請るべく母の許に戻つたことがあつた。母堂は驚いた。當時の一圓といへば矢立代としては相當の大金である。丁稚程度の使用する矢立なら二十錢前後で優に購ひ得られる筈。母堂は『お金を吝(おし)むのではない。身分不相應の品を持つことは御主人に對して申譯がない』と言つて種々樣々に諭したが、故人は頑として聞き入れない。請の容れられるまでは一歩も動くまいといふ固い決心の色、半日たつても動かない。母堂もほとほと困り果てゝゐた時、一番頭の伊助氏が來て、『一寸宅にといふお許しが餘り長くなるので、心配の餘り迎へに來ました』とのことであつた。母は地獄で佛の心地、前後の事情を語つて、『その内買つて進ぜよう』といふ約束の下に漸くにして主家に連れ歸つて貰つた。主人又兵衛氏はこれを聞き、『商賣人の矢立は武士の刀と同じこと、商賣に熱心なればこそ良い矢立も欲しくなるわけだ。私のをやらう』と言つて自分所持のものゝ中その一本を與へられたといふことである。

強記

又どこの呉服店でもさうだらうが、麴屋でも毎年一回の年中行事として、棚卸と稱し呉服物の大整理を行つたものである。幾百千といふ數ある品物の中には符牒の失はれたものが二十反や三十反は必ず出るもので、さうなると上は主人、番頭より下は丁稚の末に至るまであらん限りの記憶を辿つたり、或は帳簿と首つ引きに、仕入期、仕入先、値段等の發見に努力するのであつた。或る年の棚卸は深更に及んだ。その時疲れ果てた無心の故人は遂に例の居睡りを始めた。一方では主人その他が愈最後に取殘された符牒紛失品の調査に着手し、甲論乙駁(こうろんおつばく)、血眼になつて騷いでゐるが容易に埒が明かない。ふと故人の居睡りを發見した番頭の萬助氏が、二尺差で發止とばかり故人の頭部を叩いた。痛かつたのだらう。故人は何時もに似ず喫驚して眼を明いた。一座相顧みてドツとばかりこれを笑つた。覺めた個人が氣付いて見ると、あれでもない、これでもないと殘品照合の最中だ。故人はおもむろに傍より『その品は今年の春頃、どこどこより仕入れた品で、値段は確か何程であつたらう』と比較的明確に指摘する。仕入帳を繰つて見ると果してその通りだ。しかも故人は疑問の大部分を言ひ當て、照合はすらすらと片付いた。主人を首(はじ)め店中の者は故人の強記に舌を卷かざるなく、無論主人より驚歎的のお譽めさへあつて、故人は「鉢の木」の「はじめ笑ひしともがらも、これほどの御氣色さぞ羨しかるらん」に髣髴(ほうふつ)の面目を施した。

天稟(てんぴん)の魅力

而して故人は他の追從を許さない人を惹きつける天稟の魅力を有つてゐた。どことなくもの柔かな愛嬌はあつたが、別段お上手を言ふのでもなく、阿諛諂從(あゆてんしょう)、巧言令色といふやうなものは微塵もない。しかるに故人目標に寄り來る客は殆ど絶え間ないほどで、その人氣の素晴しさは多年の堂々たる番頭でさへ三舍を避けたものである。要するに故人の人氣を呼ぶ原因は、生れながらの人德が具(そな)つてゐたばかりでなく、虚言八百を並べることが大嫌ひで、至誠眞摯を自己の生命としたからであらう。

主人の又兵衛氏は、初め堀江本店で番頭をして居られた時、その堅氣と才腕とを主人太平氏に認められ、遂にお孃さんの婿養子として分家されたほどの人材であつただけに、故人の機智に富み、目先も利き、眞面目で、誠實で、人氣があり、朋輩間の氣受もよい非凡な才幹を見遁しはされなかつた。

番頭に昇格

「十九歳に至らざれば番頭たるを得ず」との本家より繼承された店則を破り、十七歳の故人をして早くも第三番頭に昇格せしめたのである。故人は名を德助と改め、主人より頂戴した羽織と煙草入に、商家として實にも凛々しい番頭姿で麴屋の店頭に光彩を放つのであつた。今日であつたなら商業學校を優等で卒業したやうなもの。ましてや雛のやうに美しい娘の養子にもと主人夫婦より密かに母刀自(とじ)の許へ懇望されるに至つたことは、母堂をして如何に驚喜せしめたか。母堂は良人在世の折『大林家を興す者は必ずこの子である』と言つた良人の豫言を想ひ浮べずにはゐられなかつた。

麴屋に意氣投合の福松といふ一つ歳下の丁稚があつた。後年大林組創立當初の四天王の一人として故人を佐けた福本源太郞氏その人である。よく店の休みに二人連立つて御靈の定席へ芝居見物に出かけたもので、そこの若手俳優榮太郞を贔負とした。

麴屋に奉公時代の故人(十七歳)
麴屋に奉公時代の故人(十七歳)

大俠木屋市と知る

榮太郞は元市川榮丸といつてゐたが、堀江扇太郞一座の女形として同席してから堀江榮太郞と稱し、相當の人氣を呼んでゐた。榮太郞は故人より一つ歳上、大阪近郊北野村(現北區堂山町)に於ける屈指の地主、木屋市兵衛氏の長子に生れながら、道樂半分、自ら好んで俳優の群に投じてゐたもので、所謂只の鼠ではなく、見かけによらぬ氣骨稜々(りょうりょう)たるものがあり、『お互に今のまゝで朽ち果てゝたまるものか。今の俳優生活は一時のなぐさみに過ぎない。男子一生の間には天下に勇飛する大ものにならねばならぬ』などと萬丈の氣焔を吐いてゐたのであつた。故人はこの俳優離れのした快男兒が好きでたまらず、靑雲の志を夢む二人の隱れた靑年が、その時兩々相許して未來を語り合つてゐたのは蓋(けだ)し奇縁とでもいふのであらう。果せる哉彼れ榮太郞は、その言のやうに、日本的の大顏役木屋市こと野口榮次郞親分として天下にその俠名を馳せるに至つた。

養子の計畫

その後麴屋に於ける養子の計畫は日を經るに隨(したが)つて次第に露骨となつて來た。偶故人が感冒で臥した時など、主人夫婦はお孃さんをして食膳の持ち運びまでにも當らしめる始末、その他は推して知るべしである。故人は主人の恩愛に對しては無論泣くほど嬉しかつたが、退いて冷靜に考へて見た。『若し今後主家より灑(そそ)がれる愛の絆に縛られたなら自分の行末はどうなるであらう。恐らく小賣呉服店で終るより外あるまい。父は臨終の際何と言つたか。頑是(がんぜ)ない幼時とはいへ今も猶耳の底に殘つてゐる。自分はどうしても大林家を興さねばならぬ。しかし小賣呉服屋では到底その望みは達しられない。この際思ひ切つてこの店を去ることが先決問題だ。さうして獨立營業をして多少の資力をつくつた上、更に雄飛の途を考へよう』と決心した。日夜肝膽(かんたん)を碎いてこの決意を得るまでには相當の時日を要した。忍ぶれど色に出にけりで、『德さん、この頃どうかなされたか』と問はれたほど悶えたのである。

宿下り

かく意を決したが最後矢も盾もたまらず、呉服店の獨立開業を母に謀つた。母堂は『今遽(すみや)かに麴屋主人の恩義を捨てるのは道ならぬこと、ましてや時期もまだ早い』と言つてこれを許さなかつたが、故人の熱烈なる懇請再三に及んで、平常より故人の性格を熟知してゐる母堂は到底飜意の望みなきを知り、遂にその請を容れるに至つた。かくて麴屋主人には淋しく老ひ行く母を養ふ爲と稱し、故人は十九歳の秋を一段落として麴屋から暇を取ることゝなつた。『今暫く辛抱しなさい。養子にする。それが嫌やなら分家もさす』といふ切なる主人の好意を振り切つて宿下りする故人に對し、憎しみの樣など露ほどもなく、恰も掌中の珠でも失ふかのやうに『今後も繁々出入しておくれ』と言つて別れを惜まれる主人夫婦の言葉、故人は餘りの慈愛に、涙と共に八年間住み馴れた思ひ出多き主家を去つたのである。

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