大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第一編 前期

七 故人の修業時代 -東上-

東上

明治十六年七月十三日、御靈社の神輿洗の當日、川口出帆の蒸汽船は當年正に二十歳の血氣に滿ちた靑年をその大自在の翼に載せて運命開拓の行路に就かしめた。住み馴れた故郷大阪を後に萬斛(ばんこく)の涙を包んだ甲板上の故人を、母堂と姉妹は涙ながらに飽かず見送つたのである。潮吹く風に靡(なび)く黑煙は懷しい靱の空へ淡く一線を引いた。

初めて乘つた蒸汽船、幸ひ凪ぎた海面は油を流したやう、たゞ外輪車の蹴る白波が長く線を描くのみ、小舟や帆船を次ぎ次ぎと追ひ越し、櫛比(しっぴ)せる大阪の白堊、茂れる住吉の森など瞬く間にはや靄に隱れ、武庫、生駒の山々まで次第に淡くなつて行く。無限の感慨に沈んだ故人は、後日艫の人となつて飽かず大阪の空を望み、人知れず懷しの母を拜んだ。茜さす頃紀淡海峽を橫ぎり、波濤漸く高きに及んで船室の人となつた。その夜は熱蒸の惡臭、聞き馴れぬ機關の響、胸躍る興奮に寐もやらず、種々の感想が浮んで來る。

見ぬ人の想像

中にもかうした場合、訪ねる人に對する憧れや想像は誰しも湧いて來るもの。『自分の訪ねる美馬さんとはどんな人だらう。その主人の砂崎さんとはどんな人だらう。額に向ふ傷があり、鬚深い赤ら顏で、仁王さんのやうな人ではあるまいか。大戸を潛つた大廣間には倶利伽羅紋々の鬼をも拉(ひし)ぐ若者がゐて、仁義とかいふものを言ひ損ねたが最後、袋叩きにするといふ凄い處ではあるまいか』など、故人は一流の請負業者がそんなものでないことを朧げながら聞き知つてはゐたものゝ、いざとなると妙な恐怖心さへ起つて來たのであつた。それから何日目であつたか、故人はふと蒸氣機關の響に興を催し、窃かに階段を降りて機關室を覘いて見た。中は灼熱のやうな熱さ、四、五人の屈竟な若者が素裸になつて働いてゐる。油や石炭で染つた身體は顏から足の先まで眞黑で、滲み出る膏汗(あぶらあせ)が頰を傳つてゐるのに、元氣よく端唄など口吟んで、大洋の中に身を置いてゐる氣色さへ見えぬ。故人はその眞黑な汗じみた勇敢な若者に對し、いづれ自分もといふ心の衝動からむらむらと尊敬の念を起したのである。その中に親切な一人の船員がゐて、珍らしげにピストンの動きなどに見入つてゐた故人に對して蒸汽機關のあらましを説明して呉れ、樂しい航海の一日を過した。他日故人が優良工事機械の應用に人一倍關心を持つてゐたのも、こんな動機に胚胎したのかも知れない。

かくて初旅の航海は一路平安、五日目の朝橫濱に着いた。正味四日間を要したわけである。直ちに汽車で新橋に着き、目的の麹町區平河町の砂崎邸を訪づれた。

砂崎庄次郞翁と夫人
砂崎庄次郞翁と夫人

砂崎氏邸

砂崎邸は武家風の立派な門構、屋敷も廣々とした一劃で、玄關を避けて怖々勝手口より這入ると、そこに帳場があつて、温厚らしい五十歳前後の半老人が事務を執つてゐた。しかもその半老人が頗(すこぶ)る叮嚀(ていねい)なので故人はやつと安心をした。幸ひ宛名の美馬氏が來邸中であつたので、直ちに紹介状を出して來意を告げた。初めて會つた美馬氏は、色こそ黑いがこれ亦至つて叮嚀、『自分とて砂崎さんに雇はれてゐる身分故、一應主人に相談して見ませう』と言つて奧へ行つたが、暫くして故人は奧まつた一室に通された。簾越しに見る庭園には綠に繁る古木が鬱蒼として蟬さへ鳴いてゐる。黑ずんで寂びた飛石、苔蒸せる石の燈籠、茶室めいた離屋の丸窓、袖垣に咲く夏菊、何の音も聞えぬ實に閑雅幽邃(かんがゆうすい)の境。

裏切られた想像

そこへ三十過ぎの痩せ型の瀟洒な若紳士が現はれた。これが宮内省出入の請負人砂崎庄次郞氏その人であつた。故人はこんな優しい人でも請負人たることが出來るのかと訝(いぶか)りもし、船中に於ける幾多の想像など根底から碎かれてしまつた。砂崎氏は老西郷を若くしたやうな故人の太い眉、烱々(けいけい)たる大きな眼、一文字に締つた口許、巨大な體軀等を一瞥し、「將來有爲の好靑年」たるを直感せられたやうであつて、『どうして請負業を望むか。呉服屋の方がよいではないか』などと慇懃(いんぎん)に質問せられた。故人はこれに對して赤誠以て自己の希望を忌憚なく披瀝した。聞き終つて砂崎氏は、『多數の人を手足のやうに使つて見たいとの希望は面白いが、それまでになるには餘程の苦心がいりますよ。その辛抱さへ出來れば私が仕込んで上げませう』と快よく承諾せられた。こゝに於て故人はいよいよ登龍門に一歩を踏み入れることゝなつたのである。

砂崎家

砂崎家は永野屋と稱し、桓武天皇の御宇より累世皇室に奉仕して禁裏作事の御用を勤め、中祖安兵衛氏は諱(いみな)を義章といひ、加茂川及高瀨川の水利工事を企圖し、運上奉行角倉氏に從つて高瀨川疏水開鑿(かいさく)の衝に當り、遂にこれを竣成した當年の大土木業者であつた。その後、先代安兵衛氏は慶應三年 孝明天皇の御陵城築造工事を完成し、更に庄次郞氏は明治三十年 英照皇太后泉山御陵の作業を拜命したほどの由緖ある業界の長者である。東京御遷都後も引續き宮内省その他各宮家の命を拜し、土木建築一切の御用を勤めてゐられた。故人東上の折は宮城西丸及山里の地形工事を命ぜられ、高地の鋤取に着手して間もない時であつた。

氏は寡慾恬淡(かよくてんたん)、恭謙(きょうけん)謹直、人に接して親和、殊に徒弟職人を愛撫するの情は慈父の如きものがあつた。幼にして學を好み、多趣多藝、詩歌俳諧に長じ、茶は裏千家の蘊奧(うんおう)を極め、畫は畑仙齡氏に就て齡玉と號し、技は將に玄人の域に達してゐられた。

砂崎庄次郞(齡玉)翁筆
砂崎庄次郞(齡玉)翁筆

砂崎氏の薫陶

故人が砂崎氏の膝下に師事した前後四年の間、砂崎氏は故人に何ものを與へたであらうか。獨り技術的方面の智能とか、工事現場に於ての精神的訓練ばかりではない。一面人間としての思想的大薰陶を施されたのである。この薰陶は故人が他日志を成す上に於ての貴重な糧となつたことはいふまでもない。殊に砂崎氏の薫陶は殆ど實踐躬行(きゅうこう)的のものであり、特に尊王愛國の大義の如きは最もよく訓(おし)へられた一つであつて、その他日常茶飯事に至るまで誘掖(ゆうえき)指導至らざるなしといふ有樣。氏はいつも『當今の所謂請負師といふ奴は柄が惡くて困つたものだ。人一倍刺靑をせぬと親方になれぬと心得たり、禮儀作法も辨(わきま)えず、脅迫はお手のもの、博奕する、喧嘩する、飮む、遊ぶといふ有樣。それでは一浮浪人と選ぶところがないではないか。請負業者は荒くれた人間を使用するまでゞあつて、衣裳を請負つて仕立をする呉服屋と何等異る點がないのである』と言つて故人を誡められたこともあり、故人は登龍門の第一歩よりかうした偉大なる人格者に育て上げられたのだから、當時の所謂請負師とは全然その型を異にした紳士的故人が出來上つたものとも見られるのである。さうして故人は 明治大帝並に 照憲皇太后の桃山御陵造營の任を全うし、更に現社長義雄氏も 大正天皇多摩御陵造營の御寵命を拜するなど、請負業者の身としてこれに越した榮譽はあるまい。

傳統的精神

尊き御陵造營の御工事が師弟の間たる砂崎氏より大林組に繼承せられたるその奇しき因縁は、神の業には相違あるまいが、炳乎(へいこ)たる大精神が砂崎氏より故人に傳はり、更に故人の一擧一動が傳統的精神となつて今日の大林組に橫溢してゐる結果に外ならない。

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