大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

編外 手向艸(たむけぐさ)(寄稿及談話)

苦鬪の俤(おもかげ)

宗像半之助

大林さんと私とは、少年時からの環境がとてもよく似てゐて、共に艱難(かんなん)苦楚を嘗めて來た幾多共通のものがあつた爲でせうが、各商賣こそ違つてゐても、所謂同聲相應じ同氣相求むでよく氣の合つた異身同體の、兩者の間には秘密といふものゝない親密な仲でありました。大林さんが二十九歳で大林組を創業された時、私は二十四歳でセメント及石炭の販賣を營んでゐましたが、共に腕一本臑一本、その後の十年ほどは、全く血と汗の奮鬪史といつてよい苦戰を續けたのでありました。しかし共に血氣旺んな靑年時のことですから、氣魄天を呑むの概とでもいふのでせう。七難八苦どんな奴でもやつて來いといふ獅子奮迅の意氣、心に前途の大望を描いて相互相勵まし、疲馬ながら轡(くつわ)を並べて大阪業界の戰場を馳驅(ちく)したものです。その時でした。大林さんが振出して私が裏書した手形が、數萬圓にも達したことがあり、他の友人から『君は隨分突飛な行動を採るものだ。如何に肝膽(かんたん)相照す仲とはいひながら、全く無證文の信用づくで大金の裏書をするとは、自分手に墓穴を堀るやうなものではないか』と度々注意を與へられたこともあつたが、その都度私は『御忠告は洵にありがたいしかし大林といふ人はそんなつまらない男ではない。自分は、彼の一言は證文より堅いことを信じてゐる。もし大林が「諾し」と一度び胸を叩いたが最後、それは一枚の證文どころか金鐵より固い約束で、男子の一諾は死以てこれを守る古武士の俤があり、尋常一樣の人間を以て律することの出來ない人物だ。だから私は手形といふ紙への裏書でなく、大林といふ人物へ裏書するのだよ』と言つて、徹頭徹尾大林さんを信じたのであります。この一事ですら當時の苦鬪と相互の親密さを物語るに足ります。その後の大林さんは、旭日冲天の勢を以て業務の隆昌を見、遂に大成功を遂げられたのでありましたが、堅忍不拔(ふばつ)、剛毅(ごうき)濶達な大林さんとしては、その成功は當然のことであるにしても、大林さんに對する私の鑑識が誤たなかつたことは、私として心窃かに快感を覺えたものであります。幸ひに私も驥尾(きび)に附してどうやら石炭商として多少世に知られるやうになつたのも、大林さんとの提携に負ふところが尠くありません。當時の親交を追懷(ついかい)する度に、意氣軒昂たる大林さんの容貌が髣髴(ほうふつ)として眼に浮んで參ります。大林さんを讃へる美德とか、性格とか、偉績とかを擧げようとするなら數限りもありませんでせう。しかし私は餘り多くを知られてゐない古い創業時の二、三の實話を述べて追慕の意を表したいと思ひます。

大林さんが創業の第一歩に請負はれた阿部製紙工場の工事は、入札前既に金川新助氏が請負ふことに同業者間の談合が決定してゐたさうですが、豫(かね)てより談合を罪惡視して來た大林さんが、突如橫合から飛び出して取得したのでありまして、金川氏としては無念骨髓に徹したことでせう。その請負決定を見た夕暮でした。大林さんは喜色滿面私方を訪ねられ、『この大林も長い間燻つてゐたが、やつと世に出 機運が向いて來た。さアお祝ひだ』と言つて誘はれるまゝ、江戸橋の槌田樓で水入らずの二人で祝杯を擧げてゐると、大林さんの幕僚たる菱谷宗太郞氏が慌しくやつて來て、『旦那大變なことです。只今、金川の依賴を受けた何處かの若い者が八人、匕首(あいくち)や仕込杖を携へて店に押し寄せ、大林の首を貰ひに來た、大林を出せ、と怒鳴り散らし、如何に宥(なだ)め賺しても立ち去らうとしません。危險ですから今夜は他にお泊り下さい』といふ報告でした。私は他人事ながら喫驚して醉も一時に醒めたやうに靑くなりました。しかし大林さんは泰然自若として事もなげに、『じや歸らう』と反對のことを言ひ出し、私を顧みて『あんたも一緖に行つて見なさい』との勸め。話を聞いてさへ既に身慄ひするほどなのに、一緖に行かうといふのだから私も面喰はざるを得ない。私は『滅相もない』と言下に斷つた。大林さんは私の怖がりに吹き出して、『他人の命を取つたら監獄に行きますわい。要するに仕事が欲しいか、お金が欲しいか、二つの内の一つですよ。まア一緖に行つて御覽』と頻(しき)りに勸められるので、成程と多少度胸も出來、怖わ怖わながら後から隨いて行きました。岡崎橋の店近くへ參りますと、胡散臭い屈強の奴が二、三見張つてゐる。その中を大林さんは平氣で通り脱け、しかも威勢よく『今歸つたよ』と潜戸を開けて這入るなり殺氣充滿せる店の間の兇漢八人の眞只中にドツカと坐り、爛々たる眼光で彼等をグルリと見廻した。すると今迄大胡座(あぐら)をかいて虚勢を張つてゐた者などは居ずまいを正したり、これ見よがしに前に橫たへてゐた匕首や仕込杖を後方に隱して見たり、蛇に睨まれた蛙のやうに全く大林さんに威壓(いあつ)されてしまつた。大林さんは徐(おもむろ)に口を開き『何處樣の若い衆か知らないが金川さんに賴まれて俺の首を貰ひに來たさうだが、こんなやくざ首でもお好みとあれば差上げもしよう。しかし理窟がたゝなければ只は上げられない。それとも實際は仕事が欲しいのか、又はお金が欲しいのか。その邊のところをはつきり言つて貰いたい。お前さん達が何人來ようとこの大林はビクともする男でない。さあ何が欲しいのだ、つまるところはお金だらう』と疊みかけた。既に氣を呑まれてゐる彼等、しかも圖星を指されて動きがとれず、俄に媚を面に浮べて頭搔き搔き『旦那、お察しの通です』と尻込みするばかり。その可笑しさはまたと見られない圖でした。大林さんはこゝぞとばかり、『金川さんへは永福が念達に行く手筈になつてゐるから、そのことをよく傳へて貰ひたい。又お前さん達は何の恨みもない俺の首をすき好んで貰ひに來たのではあるまい。考へて見ると他人の犧牲にならうといふお前さん達が可哀想だ。さ、これで一杯飮んでお歸り』と百圓札一枚を投げ與へた。彼等は、當時有名な永福親分が念達に出かけるといふのが意外、大林さんの人品骨柄が昔の豪傑を見るやうなのも意外、(當時大林さんは彼等の間に多くを知られてゐなかつた)生れてから握つたこともない百圓札の酒代にありついたのも意外、全く狐につまゝれたやう、『こんな偉い旦那とは知らずに參りました。もう二度とは參りません。どうか勘辨(かんべん)なすつておくんなさい』と平謝り、這々の體(ほうほうのてい)で逃げ歸る樣は實に痛快淋漓(りんり)たるものがありました。しかし無秩序に加ふるに殺伐な當時の請負界を飛翔するには、まるで生死の境を彷徨する苦心の要ることを目撃し、大林さんのやうな太つ腹の人でなければ到底やり遂げられない至難の業と私は熟々感心させられました。(故人はその後金川氏とは莫逆(ばくげき)の友となられた)

次に大林さんは才氣渙發の頓智(とんち)に長けた人でした。小さい出來事ではあるが、同じく阿部製紙工場建築中の或る時、かなりの強震があつて、埋設土管の所々に龜裂を生じ、水が噴水のやうに吹き出して大騷ぎを演じたことがありました。偶朝日橋の袂で大林さんが俥で驅けつけられるのに遇ひ、私も現場に行つて見ました。ところが中々の水量で、土管が全く破裂でもしますと場内は水浸しとなる始末、無論水を他に流出せしめて土管を替へさへすれば頗(すこぶ)る簡單な方法ではあるが、咄嗟の場合疏け口がない。大林さんは寸時考へてゐられたが、よしと頷いて何か確信を得たものゝ如く、直ちに俥夫を天滿市場に走らせ、厚い巾廣の昆布を俥に一荷買ひ取らせました。そしてその昆布で龜裂の部分を卷かせ、又繼ぎ目にも昆布を詰めさせ、稍待つこと暫時、昆布が漸く水に膨れた頃噴水がピタリと止まつた。かくして臨機應變の處置に成功し、ドツトばかりの歡聲が揚つたのであつた。これは一些事の一例に過ぎないが、一事が萬事商賣上の大局からする才腕は、機略縱橫更に目覺しいものがあり、遂にかの大成を爲すに至つたのであります。

大林さんは人並勝れて豪邁(ごうまい)果敢な人でしたが、半面又人並勝れて優しい人情味の持主でした。朋友知人等に對する情誼は勿論ですが、とりわけ祖先崇拜の念に篤かつたことゝ、非常な子煩惱であつたことなどは美點中の最たるものと存じます。日外も二、三回に亙(わた)つて嚴肅(げんしゅく)崇嚴な父母の法要を營まれたことがあり、且つ平常抱壞する神佛尊崇の念は極めて深く特に目立つてゐました。かの荒くれた商賣に携つてゐる人とは思はれぬほど、かうした堅固な信仰に生き、優にやさしく奧ゆかしい心根は想像の出來ないほど美しいものがありました。現社長の義雄さんが生れた時でした。『出來た、出來た、男だ、男だ』と叫んで私方へ驅け込んで來られたことがありましたが、その時の歡び方は、世界中の富を一時に我が物としたよりも嬉しさうな恰好でした。そして『君、名を何とつけようか。僕は昔の偉い人物の名に肖(あやか)らせたいと思ふがどうだ』といふことでしたので、私は『正成の成と芳五郞の芳とを合はせて芳成とつけたらどうか』と一案を提供したが、それは固た過ぎて現代式でないといふから更に『大石良雄の良雄をそつくり貰つたらどうだ』と發案したら、大林さんは、大石良雄と大林良雄とを數回繰返して口ずさみ、『これだ、これだ』と言つて手を拍ち、現社長さんの名が出來上つたのであつて、いはゞ私が現社長さんの名つけ親ともいふのですかね。但し良と義とを異にされたのは、大林さんの故意であつたか又間違ひであつたかは存じません。子供さんの命名にさへ、かく古聖賢や古英雄を慕はれる大林さんの胸底は、何處までも歴史に活きて名を辱しめないといふ大精神から出發したものであつて、實に立派なその胸懷に惚れ惚れさせられました。その後何時大林さん方を訪づれましても、子供さんの集會所のやうに賑かであつた點からして、如何に大林さんが子煩惱であつたかゞ察しられます。そして現社長の義雄さんがよく父上の素志を繼ぎ、倍々大をなしてその名を辱しめない現状を觀る私は、當時を追想して感慨無量であります。

事業に活きた人

上田 寧

故人とは、明治三十六年大阪で開かれた第五回内國勸業博覽會當時から相識つて居たが、豪放にして且つ細心な點、所謂請負業者らしき請負業者として感服してゐた。その後明治四十一年から二年へかけて、阪急電鐵箕面線の工事を請負はれることゝなつたが、故人の熱烈な意氣と、任俠的な情誼と、眞摯な努力の氣風は、現場監督員は勿論土工人夫に至るまでをも感化し、彼等は絶對信用を目標として働いてゐた。しかも全工事については、如何なる場合も決して罪を部下に嫁することなく、責を一身に負ひ、責任を回避するが如き事は斷じてなかつた。

大林組の大をなしたのは、勿論片岡、岩下、志方、渡邊(千代三郞)諸氏の如き有力な先輩知己の庇護に負ふ所大であつたには違ひないが、故人 眞摯な努力と、比類なき勇氣が、これ等の先輩知己に認められた結果に外ならない。殊に片岡翁の如きは、故人歿後と雖も大林組の顧問として萬般の指導に努められたと聞いてゐる。これ全く故人の偉大な德の現れといふべきである。

故人の完成した事業は、一としてその努力と勇氣の結晶ならざるはないが、その中でも大軌の生駒隧道工事と、濱寺の俘虜(ふりょ)收容所の建設の如き、一切の打算を離れて幾多の困難と鬪ひ、多大の犧牲を忍んで遂にこれを完成せしめたところに故人の面目躍如たるものがある。

かやうに利益を度外視して、一度び請負つた以上飽くまでその責任を果す一面、又ビジネスとしての成功を收め得べく細心周到な商才に富んで居た。即ち自身の名を揚げると共に、事業主にも充分な滿足を與へるといつた點は、到底尋常一樣の比ではなかつた。今日でこそ百貨店あたりで、所謂特價品提供と稱して、それを呼び物に客を引き、その品での損失は他の品物の賣場によつて補ふといふやり方をやつて居るが、その當時に於て、早くもこの邊の呼吸をチヤンと呑み込んで居たことは感服の外ない。私はこの「損して得とれ」といふことと「何糞ツ!」といふ徹底した努力主義が、故人の風格そのまゝに、大林組の特長として後世に傳へられんことを切望して己まない。このスペシアリテイが軈て大林組の生命であると信ずる。

德の人、力の人

上畠益三郞

私は故人と事業を共にしたこともなく、從つて深い交誼があつたといふ譯ではないが、故人が靱の人であり、私の父祖は同樣靱の住人で、殊に私の父は、嘗て志方勢七氏の支配人を勤めてゐたことがあり、私も亦志方氏には隨分と引立てられて恩顧を蒙(こうむ)つたので、志方氏と膠漆(こうしつ)も只ならぬ交りのあつた故人と、自然相會ふ機會が多く、私の方では格別の親しみを感じてゐた。

故人を簡單に評すれば、近世得難い德の人であり、同時に力の人であつて、實に賴み甲斐のある人であつた。事の大小に拘らず約束を重んじ、利害得失乃至は自己の榮達などによつて所信を左右されるやうなことは斷じてなく、その一言は實に金鐵の如きものがあつた。鞏固(きょうこ)な意志と並びなき義俠心は、各方面から、『大林は間違ひのない男、賴母しい男』として絶對の信任を博した。大林組今日の大をなしたのは、決して偶然ではないと信ずる。

百圓札物語

楠本長三郞

私は福岡大學から明治三十八年五月大阪に移つて來た。以前大阪はたゞ旅行途中の通りがかりといつたものに過ぎなかつた爲、從つて大阪には深い知人とてもなかつたが、三十九年の正月、その頃靱に居られた故人が病氣で是非往診をして呉れとのことであつた。

當時はさう大して往診があるといふわけでもなく、殊に正月で閑な時であつたから早速往診した。病氣は大したものでなかつたが、その時に私の受けた第一印象は、病人が極めて剛毅濶達な愉快な人だといふことであつた。勿論大阪で故人がどうした位置にある人やら、乃至はどんな商賣をやつてゐる人やら全然知らなかつた。兎に角大阪に知人を有たない私としては喜んで故人に接したのである。二、三回も續けて往診をしたが、その後一、二年を過ぐる間に、いつか忘れるともなく私の腦裡から故人といふものが去つてゐた。その年の四月大阪醫學校から在外研究員として獨逸に留學して、四十年六月ブラツセルに居つた時のことである。福岡大學から同じく留學に來た友人が訪れて、『先日伯林で水尾君に會つたが、同君から必ず傳へて呉れといふ傳言を有つて居る』と冐頭して、『或る人から君に對し、非常によい土産を日本から託されて、水尾君が持參してゐる。しかしそれは水尾君の手から間違なく君に渡して呉れといふ條件が附せられて居るから、人に託するわけには行かない。暇が出來たら伯林にやつて來いといつてゐた』といふので、『一體誰から託されて來たのだい』と聞いたが、『それは會つてから話す。君本人でなければならない』と言つてどうしても聞かして呉れない。私も種々と考へて見たが一向に見當がつかず、そのまゝその日は別れて、間もなく所用もあつたので、伯林に赴き水尾君と會つたのである。水尾君は東大出身で、學生時代からの親友である。同君は、私の留學中の明治四十一年、同じく大阪醫學校から留學を命ぜられ、愈出發の際、友人と二人で汽車に乘り、頻りと洋行の話に興を湧かしてゐた折柄、傍らに長幹肥大の紳士が乘り合はせ、二人の話を微笑を浮べながら聞いてゐたが、軈て『貴下等は獨逸に留學されるのですか』との問である。『さうです』と答へると、『學校からの留學費で小遣に不自由するやうなことはないか』といふことだつたので、『イヤどうも十分でないので困つてゐる』と答へると、『貴君は楠本君を知つて居られるか。同君は小遣に不自由を感じて居りはしないであらうか』と温情を面に現はして尋ねられたので、『楠本君は大學時代からの親友である。同君も十分の凖備といつてはないのだから、定めて不自由をしてゐることであらう』『貴下は獨逸で楠本君に會はれるか』『多分會見するであらう』紳士と二人との間の問答はかうであつたが、その紳士は『それではまことに恐縮だが楠本君に土産をことづかつては貰へまいか』といはれた。何分初めて會つた人であり、それが如何な人であるかも知らぬので躊躇はしたが、見たところ立派な紳士なので、『餘り荷物にならぬものなら……』といふと、その紳士は鞄の中からかなり多い札束を取り出し、その中から百圓紙幣を一枚拔き取り、紙に包んで、『まことに濟まないが楠本君に會はれたならばこれを一つ手渡して頂きたい』と如何にも無雜作差し出されたのには、水尾君もすつかり面喰つた。双方共未知であり、それにその頃の百圓といへばかなりの大金であつたので、突飛過ぎるその依賴に流石の水尾君も返事に困り、『自分は多分楠本君に會ふ積りではあるが、或はその機會がないかも知れない。殊に楠本君は最早いつ歸朝するかも知れないから』と婉曲に斷らうとすると、『私は大阪の大林芳五郞といふ者であるが、貴下を信じてこれを託さうとするのである。既に貴下を立派な人と信じてお願する以上抂(ま)げて承知して貰ひたい。もし貴下のいはれる如く楠本君と會見の機がなかつたら、その金は貴下に使つて貰ひたい。楠本君に會見されたら必ず貴下の手から手渡して下さい』と誠實を面に現はしていはれたので、水尾君も『承知しました。貴意の如く確かに手渡しをする』といふことでそのまゝ別れたさうだが、『君は大林といふ人を知つてゐるか』といふわけ、私には一向思ひ出せないので、人相などを種々尋ねた結果、忘れるともなく忘れてゐたいつかの往診の際受けた印象がハツキリと頭に描き出され、當の私が忘れてしまつてゐたにも拘らず、小遣が充分であるか否かを確めて、不自由であらうと聞くや、未知の友人に金を託されたその情誼と太つ腹には實に感激措く能はなかつたのである。

そこで私は水尾君に、『君が信用されて託されて來たのであつて、君といふ者が介在しなかつたら、如何に情誼に厚い大林氏もかうして僕にこれを贈る方法がなかつたであらう。この意味に於て、この金は兩人均霑して大林氏の意志に背かないやう有意義な事に使はう』といふことで、兩人でその好意を厚く感謝したのであつた。

かうしたことから、歸朝後懇意に願つて交誼を深うすればするほどその人格を敬慕する念も深くなつた。一日この百圓札の話が出て、『貴下も隨分思ひ切つた方ですね。全然未知の水尾君に突然金を託されるとは』といふと、『私はあの人を立派な間違ひのない人と見たから賴んだので、決して突拍子もないことをしたわけではない。多年の體驗で、一目見ればその人の性格は大抵見得る積りである。又大抵の場合その判斷に間違ひはない』と呵々大笑(かかたいしょう)せられた。

おもいで

大隆院仁譽義孝芳壽居士(大林組先代社長大林芳五郞氏の法名)は實業家としてはまだ若いといふてよい五十三歳で、大正五年歿せられた。

私が居士(以下大隆院のことを單に居士と呼ぶ)を初めてお知りしたのは、今から四十餘年も前の日淸戰爭直後のことで、當時居士は三十歳あまりの若盛り、私は二十四五歳の小僧であつた。それから引續いて永々色々とお世話になり又一方ならぬ御厄介をかけたのである。

初めてお知合になつた時分から十年ほどは殆ど毎日居士と會ふて色々敎へられ又その御用も勤めた。その時分の居士は無一物から出發して相當手廣く土木建築の事業に從事せられてゐたが、今の大林組から見れば全く微々たるものであつた。

居士の歿せられた大正五年頃にしても、その前と較べて相當發展してゐたとはいふものゝ今に較べると問題にならぬ位の規模であつた。私はズツト續いて居士の知遇を得、居士なき後も現社長義雄氏首(はじ)め大林組の幹部の方々に厚誼を受けて居る。

近時大林組の發展はとても素晴しいもので、最早日本の大林組でなく、東洋の大林組となつた。今一息で世界の大林組となるであらう。

大林組のこの大發展は現社長義雄氏以下各位の奮勵努力によることは無論であるが、昔のことを知つてゐる私から見ると、居士の遺された効果も中々に大きなものがあると思ふ。

居士が大林組を創立し、その二葉を育て上げるのにいひ知れぬ苦心と辛勞をされたことは今思ひ出してもゾツトするほどである。少しばかりの雨や風に又しても倒れさうなその若木の大林組、霜除けもせねばならぬし、雪も拂はねばならぬ。こんな直接の努力奮鬪と同時に、居士はその若木にさまざまの肥料を施された。その肥料たるや普通にやるような若木の周圍に置くのではなく、とても根も枝も屆かぬ遠方、一見無効とより思はれぬところへ、なかなか多分の肥料を與へられた。この到る處に置かれた肥料は、大林組の發達に伴なつて隨所に役立つた。その巨木が太れば太るほど、根を張れば張るほど、多々益役に立つた。この因、この果、相依り相扶けて今日の大を成す基となつたことゝつくづく考へられる。

己を捨てゝ人に盡す居士の俠氣、相手が自己の利害に關係があらうがなからうが、敢然難に赴くその意氣、その義心、廣く遠く普く行はれたその奉仕は、今に至つて猶時と所を問はずこの巨木の肥料となつて居る。

居士は體軀偉大、白晳豐滿(はくせきほうまん)、堂々たるその態度は今猶目前に見るが如くである。延せば繪に畫いた關羽より見事と思はれる頰髯の剃りあと靑く、廣き額、臥蠶(がさん)の眉、鬼をも挫ぐかと見える風丯(ふうぼう)、しかも口許常に微笑を浮べて、上を敬ひ下を憐む温顏、まことに親しむべきものがあつた。

殊に部下を愛して指導宜しきを得、機を見るに敏にしてしかも容易に動かず、靜かなる時は林の如く、速き時は風の如く、時に或は黑雲天の一方に漲(みなぎ)り疾風地を捲くと見るや、奔雷迅雨、眼を閉ぢ耳を掩(おお)ふに暇あらず、電撃一閃、百雷一時に落ちることあるも、忽ちにして雨霽(は)れ風收り、慈光普く照して恩澤(おんたく)至らざるなしといつた如くであつた。居士が遺された色々の功績、縁者知友への友情、さてはさまざまの逸事や笑話、これ等は數限りなくそれぞれの方々によつて傳へられることゝ思ふ。私はたゞその思ひ出のまゝを記して故人を偲ぶ一助とする。

OBAYASHI CHRONICLE 1892─2014 / Copyright©. OBAYASHI CORPORATION. All rights reserved.
  
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