二十六 上原元帥と相識る 四十七歳―四十九歳
現社長義雄氏の室尚子夫人は上原元帥の次女であつて、兩家の今日ある徑路は幾多傳ふべき佳話に富んでゐる。
明治四十三年十一月、北攝阿武野ケ原に於て、第四師團と第十六師團との對抗演習が乃木將軍統監の下に擧行せられ、第四師團長一戸兵衛中將は兵を六甲山麓に布き、淀川の線を北上して敵を掩撃(えんげき)せんとし、第十六師團長山中信義中將は軍を深草に起して西來の第四師團を鏖滅(おうめつ)せんと試みた。
譽の演習
二個師團の對抗に過ぎなかつたが、兩軍はその精銳を盡して攻防の新戰術を傾け、殊に當時大正天皇未だ東宮に在しまし、御見學の爲御觀戰遊ばされる譽の演習であつたので、特に一般から注視されたのであつた。
夙川邸の珍客
上原元帥は當時第七師團長として陪觀し、貴族院議員男爵山根武亮中將及小泉政保少將と共に宿舍に充てられた武庫郡夙川の大林別邸に投宿した。故人は日露戰役當時朝鮮に於ける軍用鐵道建設工事に參加した關係上、當時の統監であつた山根中將とは相知の間柄であり、圖らずも同將軍を迎ふることの懷しく又光榮でもあり、加ふるに聲名赫々(かくかく)たる上原將軍に接するを得て、故人の喜びは譬(たと)ふるにものなく、家を擧げて心からなる歡待をした。上原、小泉兩將軍は共に劣らぬ酒豪、主客の献酬頗(すこぶ)る盛んなもので、酒が廻る、興は湧く、談論風發、夜の更くるを知らなかつた。
元帥の述懷
後元帥は當時の盛興を語つて『實にあの時は愉快ぢやつた。俺も元氣旺盛だつたが小泉と來たら淋漓酣醉(りんりかんすい)の態だ。故人も負けずに飮む。我輩と故人とは全くの初對面であつたが、盃中蛇影なく、恰も百年の知已のやうであつた』と追懷(ついかい)せられた。
同四十五年四月西園寺内閣の石本陸軍大臣の卒後、元帥は第十四師團長より轉じてその後を襲ひ、廟中の張子房を以て自ら任じて畫策するところ頗る多く、頴脱(えいだつ)の才能を縱橫に發揮して軍國の爲に氣を吐くこと大なるものがあつたが、增師の主張閣議に容れられず、大正元年末遂に挂冠して飄然(ひょうぜん)故山都城市に歸臥するに至つた。
列車中の罹病
後大正二年三月、元帥は更に第三師團長に任ぜられ、その赴任の途上不幸列車中にて病魔に冒され、大阪眞近に到つて發熱殊に激しかつたので、已むなく大阪に下車して直ちに赤十字社大阪支部病院に入院し、前田松苗博士及京都大學中西博士の診察を受け、更に東京より畏くも 陛下の思召により差遣された靑山胤通博士が來診され、病名は肺壞疸と診斷されたのである。しかるに驚くべし、不治の病とさへ稱せられた難疾も、前田博士等の診療宜しきを得、入院後三箇月を經た七月には病漸く怠るに及んで愁眉を開いたのであつた。しかし談話好きな元帥は病の輕快と共に見舞客と盛んに談笑するので、前田博士は病氣の再發を惧れて閑地靜養を切りと勸めた。
恰もよし、一宵の交驩(こうかん)とはいひながら思出深い元帥の病床を時々見舞ひつゝあつた故人が閑地靜養の議を洩れ聞き、進んで自己所有の夙川別邸の起臥を献策した。元帥は感興忘れ難き夙川別邸を思ひ浮べ、殊にその邊りには舊知(きゅうち)菊地軍醫總監も在住し、風光明媚で便宜もよいといふので、眞心罩(こ)めた故人の好意に包まれながら遂にその同邸の人となつた。
夙川邸の風光
邸は、北に六甲の翠峯を指呼の間に仰ぎ、緩く流れた裾野の傾斜面は一眸(いちぼう)の平野となつて茅渟(ちぬ)の海を抱き、その間を點綴(てんてい)する村落は肅疎として松林の間に隱見し、茂林修竹を隔てゝ野趣愈深く、月の夕、花の旦、四季を通じて心を樂しましめざるはなく、又歌人猿丸太夫の遺墟、或は王朝の榮華を偲ぶ阿保親王の古跡等が程近き野邊に散在するなど、病將軍の病を養ふには最もふさはしい土地であつた。元帥が夙川邸起居の當初たる七月二十六日に奈良將軍に宛てられた書柬中に『風光も美に、季候も佳に、凉風は常に徐(おもむろ)に到り、松籟(しょうらい)耳に喧からず、結髮以來こんな閑生涯は初めにて候。時には病氣になるも亦風流を味ひ得るの妙ありといふ可き歟云々』といふ一節があり、元帥は餘程夙川の地を愛して居られたやうである。
故人の禪味
故人は日頃和洋二重生活の煩から逃れようとして洋館説を主唱する場合もあつたが、本來の性格は禪味を帶びた茶道的の澁い味を好んでゐた。もし故人が長壽を全ふし、功成り名遂げて後閑雲野鶴を友とする身ともなつたならば、必ず茶三昧に晩年を送つたであらうと信ぜられる幾多のものがある。今橋本邸の如き、庭園は茶道の巨擘(きょはく)嘉納宗匠の好みに成り、同じく茶道宗匠鎌田氏の邸宅であつたものを望んで讓り受けたものである。夙川別邸も亦同樣に淸恬瀟洒(しょうしゃ)の風が窺はれたもので、その一面には故人の豪壯な氣風もありありと象徴せられてゐたのである。就中(なかんずく)數ある飛石の中に苔寂びた八疊敷もある巨石が二個橫つてゐたが、これは德島の某家老邸にあつたものを船積にして搬び來つたもので、豐公の大阪城建設當時が偲ばれ、その巨大さには誰しも驚いたものであつた。その他繪畫然り、器物然りで、饒舌的な俗惡なものより禪的無言の味を愛したものである。何時も鳥打帽子に宗匠式袂の外套をはおるなど澁味たつぷりな上原元帥がかうした夙川邸を愛せられたのも故なきにあらずである。
元帥との交歡
元帥は夙川邸に起臥すること前後一年餘に及んだ。各將軍と主人公とはこの閑雅幽邃(かんがゆうすい)の樓上に於て、互に胸襟を披いて歡談するのが常であつた。元帥は我が國軍人中音に聞えた讀書家、その博覽強記には誰人も三舍を避けたものである。次から次へと談論盡くるところなき元帥と、元帥からは相去ること遠しとはいへこれ亦話題に富む故人とであつたから、感興は常に盡きるところを知らなかつた。時に曉の窓外に六甲連山の紫嵐を指し、時に靑燈の下多曲多趣な人生の妙諦を語り、何時とて隔てのない高笑ひ、膝を叩いて談笑するその光景は、今猶髣髴(ほうふつ)として見るがやうである。
故人は常に家人一堂に對し、心を碎いて病將軍を劬(いた)はるよう堅く命令し、自らは口癖のやうに『將軍は普通の人とは違つて我が國として無くてはならない人だ。國家の爲速く癒つて貰ひたい。私が引受た以上は如何なることがあつても全快させずにはおかぬ』と人毎に牢乎たる決意を語り、且つ朝夕神佛に祈願をこめてその全癒を待つこと切なるものがあつた。
情火の燻蒸
元帥も亦故人の至誠に對し『主人公の熱烈なる情火に燻蒸されては、どんな病氣も全滅するよ』と感激の辭を洩してゐた。
かくて兩者間の情誼は次第に濃度を加へ、雙心(そうしん)相照し、一代の知已を以て相許す仲となつた。後年故人の歿後、元帥は故人に對する感懷を述べて『曾て病臥一年、その間故人の手厚い看護を受けたが、これぞ君と刎頸(ふんけい)の交を結ぶ機縁となつた。もし病痾の我を窘むることがなかつたなら、或は路傍の人となり終つたかも知れない。「病は人と人とを親しましむ」との古人の言は我を欺かず、お蔭で故人の友情を味ふことが出來た。故人は一請負業者に過ぎなかつたが、人心を收攬する妙諦を解し、禪に所謂「直指人心」の心髓を心得てゐた。
一國一城の主
故人をして戰國時代に兵馬の間を馳驅(ちく)せしめたなら、優に一國一城の主たることが出來たであらう。しかるに生を治世に享(う)けて建築業者となつたが、天授の才幹は適くところに光彩を放つた』と語られた。
故人長逝の際は綿々たる思慕の情を寄せられ、特に遺嗣義雄氏を我が子のやうに慈み、兩家の交情は依然として渝(かわ)りなく、遂に堅き縁が結ばれたのである。