大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

十三 旅順口閉塞船 四十一歳

旅順口閉塞の壯擧は、日露戰史中最大の異彩を放つた奇兵戰術で、世界戰史を通じて類例のない最大神謀として萬世に燿々たる新事績を遺したものである。既に孫子が『善く奇を出す者は窮まり無きこと天地の如く、竭きざること江河の如し』といつて奇兵戰術の妙を讃へてゐるが、夜討、朝驅等實際これを應用した戰史は我が國に最も多く、恐らく世界に冠たるものであらう。元來數十萬の大兵を動かすことの至難な山嶽地帶の小島國たる我が國の地勢的關係と、剽悍(ひょうかん)無比な國民性とがかくあらしめたもので、多年の實驗によつて錬え上げられたその戰術は、我が國獨得のものといつてよいほど發達したものである。

この旅順港口閉塞の策戰は、當時聯合艦隊の參謀たりし有馬良橘中佐(後大將)の提案にかゝり、開戰前より有馬案と稱して我が海軍の最高幹部に於て攻究が進められてゐたものである。その方法は、汽船に石材を滿載して旅順港口の狹隘な水道にこれを爆沈し、敵艦隊を港内に蟄伏せしめんとするものであつて、夜間とはいへ幾多探海燈の照射を潜つて砲彈雨飛の敵砲臺下に突入するのだから、萬死を賭した一大冒險であつて、この壯擧が約一ケ月を隔てゝ三回に亙り決行されたのである。

第一回の閉塞

第一回は、發案者たる有馬參謀總指揮の下に、明治三十七年二月二十四日の午前四時、殘月既に西山に沒してあや目も判かぬ海面を肅々として進み、遂に探海燈の爲に發見されて彈丸の洗禮を受けたのであつたが、目的を達して悠々と引揚げたのであつて、閉塞船は天津丸報國丸、仁川丸、武陽丸、武州丸の五隻であつた。

第二回の閉塞

第二回は、同三月二十七日午前三時に行はれ、總指揮官は同じく有馬參謀であつて、探海燈の光は電閃のやう、人目を眩して明らかに港口を認めることが出來なかつたが、沈勇よくその任を果したのである。爆沈船は千代丸、福井丸、彌彦丸、米山丸の四隻であつて、彼の有名な軍神廣瀨中佐が三度び爆沈船に部下の杉野兵曹長を索(もと)め、遂に敵砲彈の爲一肉塊を殘したのみの壯烈な戰死を遂げられたのはその時である。

第三回の閉塞

第三回は、同五月三日午前三時に行はれたもので、總指揮官は林三子雄中佐(後黄海戰に於て戰死)で、新發田丸、小倉丸、朝顏丸、三河丸、遠江丸、釜山丸、江戸丸、長門丸、小樽丸、佐倉丸、相模丸、愛國丸の十二隻の大規模なものであつた。しかるに決行の前夜十時頃より南風俄に起り、波濤狂奔して序列全く紊(みだ)れ、掩護艦艇も閉塞船隊と分離せるものが多く、林總指揮官は徒に多數の人命を失はんことを虞れ、當夜の行動を中止せんと決意して後續船にこれを傳へようと針路を反へしたのであつたが、風力は益加つて怒濤は上甲板を超える凄じさ、諸船分離して令を傳へ得たのは二番船小倉丸と六番船釜山丸、八番船長門丸のみで、他の八隻は何事も知らずに壯擧を決行するに至つたのである。

犧牲者

第一回より第二回、第二回より第三回と、敵の防禦方法は次第に巧妙化され、探照、防材、水雷、砲撃等遺憾なくその威力を發揮したのであつて、しかも波高く收容意の如くならず、百五十八名中生還したのは僅かに六十三名(内二十名は負傷)に過ぎなかつた。第一回第二回共にその犧牲者は總人員の一割を出でなかつたことより見て、如何に第三回の閉塞が困難を極めたかゞ察せられる。

敵方の記録

平和克復後、敵方將校等の記録により、下のやうな事實が判明した。

○第二回閉塞時に於ける露國某將校の記事中……這般(しゃはん)の敵の作戰は驚嘆すべき巧妙と豪勇と熟練とを以て遂行せり云々。

○同回露語新聞關東報の記事中……閉塞船の船橋に露語にて下記題詞を記せるものあり 『尊敬すべき露國海軍々人諸君、請ふ余が名を記せ、余は日本の海軍少佐廣瀨武夫なり。既に二回爰(ここ)に來りその第一回は報國丸を以てせり。更に復た幾回か來らんとす』

○第三回閉塞時に於てブーブノフ大佐の記事中……初め敵驅逐艦のみ現はれしが、次で全速内港に向つて驀進する一隻の汽船を認め、それより二隻三隻續々現はれたり。吾人はこれより先き、敵が二十隻の閉塞船を準備しあるの風説を聞き居りしを以て、これ等の汽船を見ると同時に萬事休せりとの感を起したり。この夜は波浪甚だ高かりしを以て、彼等は遂に沖合に出づる能はず、却て岸に打寄せられたるもの多し。我が海軍監視哨は射撃を止めて彼等の上陸を待受けたるに、敵は却て我が哨處に向ひ小銃及拳銃を發ち、我の彼を殲滅(せんめつ)するまで射撃を續けて止まざりき。

一隻の敵艇は虎尾半島に打揚げられ、我が陸兵はその上陸に際しこれを捕へんと近寄りたるに、敵兵の互に刎(は)ねつゝある状を見て思はず戰慄せり。

又他に負傷して人事不省に陷れる敵の士官二名下士卒三十名を捕虜とせしが、その蘇生するや怒りて我が兵に衝きかゝり、急に鎭靜せず、その内十三名は幾もなく瞑目せり。

イワノフ中佐その他の士官は、擱岸(かくがん)せる閉塞船の一隻に到りしに、同船より射撃起りしが甲板には人影なく、唯船艙内に人聲ありしを以て遂に外方に避けたるに、忽ち轟然たる爆發起れり。

○露國新聞ルツスコエ、スロヴオ通信員の通信中……敵は猛火を冐し死地に向ひて驀進し、たゞ驚くべきは、敵の沈着なる態度にして、その從容として目的を達せんとするの状誠に感嘆するの價あり。幾もなくその一船は撃沈せられ、その船首に集れる船員は進みて死地に就かんとするものゝ如く、一同大聲を發しながら消へ失せたり。蓋(けだ)し萬歳を叫びしならん。

以上のやうな記事は、平和克復後に於て初めて知ることが出來たので、餘り人口に膾炙(かいしゃ)してゐないが、壯烈無比、眞に皇國軍人の精華である。

閉塞の効果

而して閉塞作業は直接に大効果を收むることは至難であつたが、間接的に黄海大海戰の因を作つた効果は實に大なるものである。「閉塞」といふことが、如何に敵をして焦慮煩悶せしめたかは、我が艦隊が如何に誘致しても砲臺掩護區域外に一歩も出なかつた敵艦隊が、遂に居たまらず浦鹽(ウラジオストク)艦隊に合するの目的を以て、八月十日窃かに旅順を黄海に出たことを見ても判るが、そこを我が艦隊の爲に足腰起たぬまでに粉碎されたのである。再び旅順に遁(のが)れ歸つた半數の艦艇は全く軍艦としての威力を失ひ、その他は芝罘、膠州灣、上海、柴棍等に遁鼠(とんきゅう)して武裝解除又は撃沈、拿捕されるなど、旅順艦隊は全滅するに至つたもので、こゝに於て始めて閉塞の目的が達せられたといつてよく、この戰勝の結果は我が制海權が確保され、陸兵、軍需品の輸送を安全化し、婆羅艦隊の東航を滿を持して待つのみとなつたのである。

閉塞艤裝の作業

しからばこの閉塞船の石材積込の秘密作業は、何處で、何人が行つたかといふことになると世上多くこれを知る人はあるまい。當時日本の内地、殊に東京、京阪神、橫濱等の主要地には露探が頻(しき)りに出沒して、隼のやうな眼で我が國の軍事行動を探つてゐた折柄、萬一これ等閉塞艤裝の行動が敵側に漏洩すると、敵は直ちに邀撃の準備をなして我が機先を制するのは想像に難くない。故に身を賭しても秘密を嚴守しなければならず、且つ豫定の艤裝期間は寸時たりとも遲延を許されない。砲煙彈雨の中に身を挺して萬死の境に出入する譽れこそないが、その艤裝作業の大任たるはいふまでもない。この大命は實に大林組に下つたのである。

大阪灣上の作業

當時大林組は、幸ひ大阪築港工事を請負ひ、多量の沈下石材を港内に集めつゝあつた折柄とて、使命を果す上には好都合であつたが、何分港内は衆目環視ともいふべき場所であつたから、人目を避ける爲に一定の區劃(くかく)を定め、官の手を借りて漁船その他船舶の附近通行又は區劃内への立入を禁止したのである。他所眼からは相當の汽船に石材を投げ入れるなどとは思ひも寄らず、まして作業に從事してゐる人夫等とて立派な船室に何故石材を投げ入れるかは知るよしもない。戰地に於て石の堡壘(ほうるい)でも築く位にしか思つてゐなかつた。その後幾干もなく旅順口閉塞の快擧が新聞紙上にて報ぜられ、從業者は成程と胸を打つたのである。

このやうにして故人は第一回の使命を無事に果すことが出來たが、續いて第二回の大命を拜した。故人は心配でならぬ。閉塞船の快擧が既に公表されたからである。

秘密嚴守

よつて故人は晝夜の作業でもあり、積込み終了まで從業人夫を船内に宿らせ、終了後も一定の場所に罐詰として監視を嚴にすると共に、皇國海軍の爲秘密嚴守の要を懇々と諭したのである。しかし故人は第二回閉塞の報を得るまでは氣が氣でない。無論妻子にさへ悟られぬやう心を使つて夜さへ滿足に寢もやらず、朝夕神佛にその成功を祈りつゝ心窃かに新聞號外を待ちあぐんだのである。數日後、號外は第二回閉塞の成功を報じた。故人は飛びたつばかりの喜びを胸に秘め、感慨無量、全く氣脱けしたやう。『人夫等の末に至るまで矢張り日本人だ。國の御大事は辨(わきま)へてゐる。よくも我が意を汲んで秘密を守つて呉れた』と感謝の念を禁じ得なかつたのである。同時に廣瀨中佐の悲壯な戰死に對しては一入の同情を捧げて已まなかつた。

次で第三回の用命を拜した。時は露探の出沒一層甚だしく秘密命令は更に大秘の裡に手交された。かう度重つては衆目に觸れ易い築港海上の積込は非常に危險でもあり且つ心痛に堪へぬ。まして閉塞船の數は第一、第二回に倍加する十二隻である。

眞浦港の作業

そこで故人は、白杉氏に旨を授け、海軍當局と凝議して瀨戸内海に好適の場所を物色した結果、家島の眞浦港が理想的の場所たるを發見するに至り、自ら社員四十名、人夫三百名を引卒して眞浦港に急行したのである。

眞浦港は江渚灣入し、老杉古松枝を交へて日を遮り、加ふるに瀨戸内海に背を見せて通航の視界を脱した屈強の秘密港であつた。故人は上陸するや直ちに全員を集めて激勵した。

我等の戰爭

『我が軍は到る所で大捷(たいしょう)を博してゐるが、最後の勝利を獲るのはこれからだ。硝煙彈雨の中に身を曝し、萬死以て君國に盡す我が忠勇の將兵各位を思ふとき、我等國民は寸時も安閑としてゐられない。幸ひ我が大林組は軍略上重大な御用命を蒙(こうむ)ること三回に及んだ。我等の御奉公はこの機を逸してまたと得られない。我等の戰爭はこの十日間だ。よく指揮者の命に從ひ粉骨碎身、皇恩に報ひ奉らんことを期して貰ひたい』

烈々の氣魄は全身に漲(みなぎ)つて言々火を吐くがやう、これを聽く者感激せざるなく、悉(ことごと)く勇躍して即時任務に就いた。堅甲利兵の粒揃ひ、壁立千仭(じん)何者ぞと皷噪して軍を進めるやう。谷谷を喚び、山山に應へ、指揮する者、畚(ふご)する者、曳く者、押す者、山上山下相呼應してたゞ驀地(まっしぐら)に奮鬪を續けたのである。この時の指揮の重任に當つたのは白杉氏で、その言によれば『一同家島に立籠り、夜分は間諜の眼を遁れる爲一切の燈火を消して僅かに豆電燈の光を賴りに、目の廻るやうな急速力で積材に努力した。沈める船とはいへいづれも相當な大商船のことゝて一切の備品も完備し、室内裝飾も、椅子卓子などもそのまゝの綺麗さで、如何にも惜しいやうな感じがしたが、仔細構はずどしどしと石材を投げ入れ、積込が終ると順次目的地に向つて拔錨したのである。故人が第一線に立つて叱咜されたその威容はもの凄いほどであつた。爲に各員 緊張はその極に達し、豫定期間の十日が僅か七日間で終了したのであつた』といふことである。

その後又數日にして第三回閉塞の決行が報ぜられ、故人は心中快哉を叫ばずにはゐられなかつた。しかし不幸にして暴風の爲所期の目的を達することが出來なかつたのは遺憾に堪へなかつたのである。

石のやうな緘默(かんもく)

前後三回に亙(わた)る閉塞船艤裝に關して故人が拂つた絶大な努力と苦心に鑑み、特に敬服に堪へないことは、故人が一生涯を通じて談の一回たりともこの事に及んだことの無かつた一事で、白杉氏やその他關係社員を除いては數ある當時の社員さへこの事績を知らなかつたほどで、まして世間に知れ渡るよすがも無く今日に及んだのである。それは秘密嚴守の惰力がさうした結果を生んだのでもあらうが、自己の功績を針小棒大に誇り易い世の中に、かうした故人の心事を知るとき、覺えず畏敬の念が湧いて來るのである。

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