大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

十九 豐橋師團工事 四十五歳

日露戰後の軍備擴張工事たる豐橋第十五師團司令部、野戰砲兵聯隊及兵營、工兵大隊、歩兵第六十聯隊兵營、憲兵隊本部、兵器支廠(ししょう)、騎兵第二十五、二十六聯隊兵營等新設師團全部の工事は、當時大林組の請負工事中最大のものであつた。しかるに本工事の工費豫算は餘りにも少額であつた爲、再三の入札を行つたがその額は度毎に豫算を超過した。

中野大佐の懇囑

當局は策の施しようなく遂に故人の義俠に愬(うった)へるより外途なしといふことに一決し、當時の臨時建築部長工兵大佐中野廣氏は一日故人を迎へ、國家の爲献身的決斷を懇望されるに至つた。眞摯、熱誠の橫溢した中野大佐の言は故人を動かすに餘りがあつて、故人は遂に既定豫算額を以て請負を快諾するに至つたのである。

これより先明治三十九年の十月、時の舞鶴鎭守府司令長官日高直之亟大將が、中代經理部長を從へ、突如大阪に故人を訪問せられた。大正天皇未だ東宮にゐませる頃、山陰御行啓の御駐蹕所に充て參らすべく舞鶴に水交社を建設するの議が決せられた時である。

日高大將の知遇

しかるに鎭守府としては豫算餘りに少額で他に捻出の方法がなく、苦心慘憺(さんたん)の折柄、偶任俠故人の聲名を聞き、顯官の身を以てして道の遠きを厭はず、同大將自ら故人を訪ふてその義氣に賴られたのである。人一倍忠誠報國の念に燃える故人として、まして同大將の圖らざる知遇を辱(かたじけの)ふした面目からしても、故人は無論言下にこれを快諾した。しかもその快諾は痛快淋漓(りんり)なものがあつて、その建物の内容も、坪數も、豫算額さへも聞かずに承諾したのであつた。かうした任俠的の幾多歴史を有つてゐる故人だから、豐橋師團工事に於て、釋然(しゃくぜん)として中野大佐の懇囑に應へたのも道理である。そして又、舞鶴水交社工事の頃同鎭守府の海軍技手たりし富田義敬氏が、後大林組に入つて本豐橋師團工事の末期を擔當されたのも奇縁である。

而して故人が曾て砂崎家に修業時代、吉川氏に聘せられて當時名古屋師團の分營であつた豐橋兵營工事に材料事務を修得したのは二十三年前で、當時無名の一係員に過ぎなかつた故人が、その思出多い豐橋の地に、今や昔時に數十倍する大工事の總帥として自ら三軍を叱咜するのだから感慨無量、胸中の快想ふべしである。

稀有の急工事

本工事は明治四十一年二月七日に工を起し、同年十月三十日に至る僅か九箇月の間に竣功せしめねばならないもので、濱寺俘虜(ふりょ)收容所工事以來の急工事であつたから、故人を首(はじ)め幹部員は施工上少からざる苦心を拂つたのである。先づ現場總監督には濱寺俘虜收容所工事に於て名を成した加藤芳太郞氏を充て、その他優秀社員を嚴選して配置したのである。殊に運輸の便を考慮して牟婁港より三哩に亘る三線の私設軌道を建設したのを見ても、如何に設備の周到大規模であつたかゞ判る。

第一線に立つた故人

かく大規模且つ急工事であつたから、故人自ら陣頭に立つて叱咜號令するの要があつたのだが、折も折大林組は關西は勿論關東方面にまで業を進め、これが總括的統制の容易ならざる際、故人は寸時も本店を離れることが出來なかつたので、日々の工程報告により心のみ苛立つばかり、しかし後『豐橋危し』の感を深くし、中野大佐に對する然諾からしても遂にぢつとしてゐられなくなつて、籔から棒といふのだらう、全國的の統制は夫々他の幕僚に委ね、遽然(きょぜん)として自ら豐橋に赴いたのである。風のやうに現はれた故人を見た現場員は驚愕したが、しかし百萬の援軍を迎へたやうな心地もした。故人は工事場を一巡し、その夜現場員一同を集め、『本工事は十分の豫算が無いが、特に中野建築部長の囑望に應じ、國家的奉仕として損益を超越して引受けたものである。爲に萬一豫定期日に遲れるやうなことがあつたなら、大林は儲からぬ工事には冷淡だ、などと痛くもない腹を探られることは判りきつてゐる。さうなるとこの大林の男が立たぬ。今後は諸君と共に晝夜兼行工を進める考へだ。大林に職を奉ずる者は、四六時中大林の人間だといふ觀念の下に働いて貰ひたい。時間的觀念のあまりに強烈な腰辨(こしべん)根性は大嫌ひだ。諸君はこの點を深く諒解して一致協力事に當り、石に嚙り付いても期日までには竣功を遂げて貰ひたい』と熱誠を罩(こ)めて訓諭し、翌日からは自ら陣頭に立つて號令した。全員爲に生氣橫溢、作業能率は數倍の增進を見た。旦より夕、夕より旦へと、孜々(しし)として工を急いだ結果、さしもの急工事も期限たる十月三十日には見事完成を告げたのであつた。

本工事中に於ける故人の逸話は少くない。いまその四、五を記して見よう。

當時の第十五師團司令部
當時の第十五師團司令部

謙讓の德

後の監査役安井豐氏の談話だが、元官途に奉職してゐた氏は本豐橋師團工事の際入社し、赴任は故人の出陣より先だつこと數日に過ぎなかつた。氏は故人の出陣を機會に故人に從つて數箇所に點在する陸軍の監督事務所を歴訪挨拶した。氏は意氣軒昂の靑年時代でもあり、官途に就いてゐた關係上、頭を低く垂れるなどのことは如何にも馬鹿馬鹿しく且つ女々しくも感じてゐた際とて、或は主人たる故人に對いてさへ禮讓の徹底を缺いでゐたかも知れない。しかるに故人は事務所入口の一歩前に於て既に中腰の鄭重な姿勢に變じ、靜に戸を開いて室内に入ると惴々焉として恐懼(きょうく)措かざるの貌、給仕小使までにいと叮寧(ていねい)に挨拶を述べて廻る。この鄭重を極めた態度には相當地位ある係官にも寧ろ恐縮の樣がありありと讀まれたのであつた。翌日安井氏は所用あつて事務所を訪ふたところ、係官一同は安井氏に辭を極めて故人の謙讓を讃歎せられた。こゝに於て安井氏は、謙讓の德がかくまでに人心を支配するものかと大いに悟るところがあり、且つ故人が自分に對して範を示されたものゝやうにも思ひ當つて、爾後自省よく不遜の態度を一擲するに至つたといふことである。

名刺の辭令

慧眼人の肺腑をも洞視する故人の瞳は直ちに現場員勤怠の状を觀取し、偶努力奮鬪の顯著なる者に對しては『君はよく働く。勉強は出世の基だ。骨身を惜んで出世が出來るものでない。よし、君の勉強に對し出世の糸を俺が手繰つてやらう』と名刺の裏に昇給金額を書き、『これが辭令だ』と言つて渡された。(時には手帳の紙片を使はれたこともあつた)

輕裝の奬勵

故人は現場巡視の際は必ず脚胖草鞋の輕裝を常とした。故人が現場に着いた翌日、緊張味を缺いだズボンのまゝの一現場員を發見し『この大急場の監督をする身でその服裝は何たることだ。現場員は自ら仕事をするのではないが、諸職工の範をなすものだ。そんな服裝で緊張がとれると思ふか』と大喝した。

草鞋の紐

故人は草鞋の紐の關東結びを常に宣傳してゐた。關東結びは、釦のやうに紐の結び瘤を一方の紐の輪にはめるもので、履くにも亦脱ぎ捨てるにも非常に簡易で、一朝事のあつたとき甚だ便利であるからだ。故人はこんな些細な點にまで注意して多くの社員にこれを勸めたものである。

銀貨は踏むまい

或る日、一人の職工が泥草鞋のまゝ四分板を踏んで行つたのを目撃した故人は、直ちにその職工を呼び止め、『お前の足許にもし銀貨が落ちてゐたら踏んで通るか、まさか踏んでは通るまい。それにその高價な板を泥草鞋のまゝ踏み躪るとは何事だ。一枚の板でも瓦でも皆お金と同樣だ。馬鹿者め』と叱りつけた。

輓臼の帽子

又或る時は、現場員數名が無駄話に耽つてゐるのを見て『君等は輓臼の帽子を冠つてゐるやうなものだ。俺の前に頭の上る時があるか』と諷した。輓臼の帽子!、一語辛辣、その妙語は一生涯彼等の腦裡から去らなかつたであらう。

拾圓の毆られ賃

故人巡視の際進行遲々たる一丁場を發見した。そこは木屑、鉋屑(かんなくず)等散亂して山をなすの有樣、故人はいきなりその持場の親方Kの橫つ面を毆りつけ、『この有樣は何だ。この亂雜が工事を遲らすのだ。仕事を速めようとするには整頓が肝腎だ。三十分もかゝれば片付くではないか。それから緩つくり仕事にかゝれ』と大喝した。整理の濟んだ頃K親方は故人の面前に呼び出された。先刻の橫幕は何処へやら佛のやうに柔和な故人、掃除代といつて拾圓紙幣一枚を渡した。いはゞそれが毆られ賃である。一方に於て嚴肅(げんしゅく)な代り一方に於てかうした慈愛が付いて廻る。當時この毆られ賃は故人の赴く到る處の現場に實現されたものであつて、その相場は拾圓紙幣一枚ときまつてゐた。彼等は毆られると同時に『儲けた!、拾圓』と直感したといふことだが笑はせられる。勿論K親方の持場は整頓後非常な好成績で進捗を見るに至つた。

拾錢銀貨と汁粉

次に職工奬勵の方法としては、濱寺俘虜收容所工事に應用した拾錢銀貨の賞與であつて、奮鬪拔群の職工に惜しげもなく散じ與へたのであつた。その他壽司、饂飩(うどん)等の馳走も一再でなかつた。或る時故人が一杯の汁粉を啜つてその美味を賞し、使ひの丁稚に二十圓の注文を發した。丁稚は眼を圓くして走り歸つてこれを主人に告げた。當時一杯三錢の汁粉、約七百杯に當る。餘りに大袈裟な注文なので、主人は二圓の間違か、それとも揶揄はれたのだらうといつて自ら事務所を訪ねてその實否を糺(ただ)した。しかしそれは間違でも揶揄でもなかつた。汁粉屋は饀を造る、餅を搗(つ)くといつた大混雜。鍋や鉢を現場に搬び入れ、その夜職工等は時ならぬ馳走に舌皷を打ち、當時豐橋市では二十圓の汁粉といつて囃したてたものである。

一石二鳥の智略

陸軍中將 安滿欽一氏談

明治四十一年、私が豐橋第十五師團の參謀で、大林さんがその兵營工事を請負つてゐられた當時のことである。當初兵營工事の中には偕行社の新設工事も含まれてゐたが、契約の際大林さんから師團當局に對し『職工が手不足で兵營工事の方に支障を生じてはいけないから』とのことで『偕行社の工事は土地の請負人にやらしてやつてほしい。しかしこの工事は七千圓でやれ、とのお定めであるが、自分の見積では一萬二千圓はかゝる。結局五千圓は請負人の損になると思ふ。それでは氣の毒だから自分から五千圓を偕行社建築費の中に寄附したい』との申出があつた。ところが請負人から現金の寄附を受けることは穩當を缺くといふので、師團當局が時の陸軍大臣に相談した結果、大林さんからは兵營工事の剩餘材及古材を合せて五千圓分の寄附を受けることにして、偕行社工事は土地の請負人にやらしたものである。そこで竣功後大林さんに對して内山師團長から禮状と金盃を贈ることになり、私がそれを持つて豊橋の岡田屋旅館に大林さんを訪ねたのであるが、それが大林さんにお目にかゝつた最初であつた。この偕行社工事を土地の請負人にやらすといふことは、兵營工事の進行に支障を生ぜず且つ土地の請負人からは好感を有たれるといふ一石二鳥の腹藝で、大林さんは太ツ腹であると共に智略に優れた人だと感心した。又大林さんと話をしてゐると、世の中の實際について色々と苦心せられ又體驗せられた事柄が、若かつた當時の私の胸にひしひしとこたえて、大いに啓發されたことは今でもはつきりと憶えてゐる。

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