大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

三十五 大阪倶樂部工事 五十歳―五十一歳

大林組は從來急造工事を得意とし、この方面に於ては他同業者の追從を許さぬものがあつたが、時代の進運はこのまゝの推移を許さない。

竣工當時の舊大阪倶樂部 外觀
竣工當時の舊大阪倶樂部 外觀
竣工當時の舊大阪倶樂部 食堂
竣工當時の舊大阪倶樂部 食堂
竣工當時の舊大阪倶樂部 娯樂室
竣工當時の舊大阪倶樂部 娯樂室

建築界の向上

明治四十年の頃より洋風高等建築の需要は日々に激增するばかりで、建築界の殷賑(いんしん)と大改革が促されるに至つた。素より機智に富む故人として眼をこゝに注がぬ筈がない。この時勢の動向に對處すべく、窃に建築技術の向上に對し種々な凖備工作を進め、就中(なかんずく)斬新有爲の技術員を續々招聘し始めたのである。その結果當時我が國の代表建築たる東京驛を首(はじ)め、曾根崎演舞場等の美術建築をも請負施工するに至り、今や方に鐵壁のやうな陣容が整へられたのである。故に故人としては大阪倶樂部程度の建築は他同業者に一籌(いっちゅう)を輸するものでないとの自信を有つてゐたものゝ、在來の大林組は主として工場、學校、兵營等の急設工事に手馴れてゐた爲、巷間やゝもすると大林組の眞價を認むるもの少く、遂に大阪倶樂部工事の指命入札者中に加へられなかつたのである。自信に滿ちた故人として何條默止することが出來よう、關係先に對し現在の陣容等を詳説して懇請するところあり、漸くにして指名入札者の選に入つたやうな始末、今日より當時を追想すると全く今昔の感に堪へないのである。

無敵の低札

こゝに於て故人は、大林組の技術的手腕を世に知らしむる絶好の機會であつたので、是非とも本工事を取得せんとの熱望から、入札に際して絶對無敵の低札を入れた結果、二番札とは格段の差を以て遂に初一念を貫徹するに至つたのである。

乾燥室

かくして大林組は、曩(さき)には和風の北陽演舞場、今又洋風の大阪倶樂部と、當時大阪に於ける雙璧とも稱し得る代表的の美術建築工事を取得し、所謂兩手に花の華やかさがあつたが、いざ施工に當つて見ると想像も及ばぬ辛酸を甞めたものであつて、大林組に對する施主側信任の稀薄さが何處までも祟つて、大林組は自己の製材工場に相當完備した乾燥室を有つてゐたのに、更に現場にこれを特設せしめられたが如き、その信任の程度を物語るものである。

誠意の披瀝

その他事々に冷酷な干渉的監督を受けながらも、期するところある大林組の固い決心は、如何なる壓迫(あっぱく)にも忍從して最後の美を飾るべく現場員には飽く迄從順主義で一貫せしめたのであつて、時には價格が約三倍にも當るチーク材を自ら進んで鹽地材(しおじざい)に代用したことなどは最もよく大林組の誠意を披瀝した一例であつて、その他故人の犧牲的精神が隨所に現はれ、施主方監督も豫期に反した餘りの誠實眞摯さと、技術的手腕の優良さを漸次認識するに至り、爾後兩々相協和して遂に終りを完ふしたのであつた。時の大林組現場員で後營業部長として圓滿無礙(えんまんむげ)の英才を揮つた故吉井長七氏の如き、この現場に於ける忍辱の試練が彼の玲瓏珠のやうな一代の風格を爲したのである。

かくして大正二年十月、着工以來滿一ケ年を經、幸に豫期以上の成績を以て竣成を告げるに至り、昨の謬見(びゅうけん)は今日の讃辭と化し、北陽演舞場と共に、高等建築にも大林組の卓越した手腕が大方に認められ、その絶讃は夥多(かた)の損失を償ひ得て餘りがあつた。

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