大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

十六 岩下翁との連繫 四十二歳

今西氏の好意

故人に刎頸(ふんけい)の友今西林三郞氏がある。肝膽(かんたん)相照し交情日に濃かであつた。今西氏は當時の大阪に於て二人の偉丈夫を發見してゐた。一人は財界の豪岩下淸周翁で、他の一人は請負界の雄即ち故人である。兩者はもとよりその爲人(ひととなり)も、經歴も、職業も、社會的地位も自ら異るものがあつたが、その豪邁不覊(ごうまいふき)の點に於て一脈相通ずるものゝあるを夙(つと)に認めてゐた今西氏は、もしこの兩雄が相連繫して事業界に雄飛したなら、必ずや、一大風雲を捲き起して不滅の偉績を擧げるに相違ないと信じ、且つ友を思ふ熱情から、當時故人が業務大發展の過程にあつて殺到する新注文消化の資金調達に多大の酸苦を嘗めつゝある現状に同情し、岩下翁との連繫は少くともこの方面の苦衷を緩和するに力あるものと看取し、こゝに岩下翁と故人との連繫を畫されるに至つた。即ち今西氏は豫(かね)てから岩下翁とも好い。折に觸れそれとなく翁に對して故人の才幹を推賞し、翁の故人に對する一顧が事業界の貢獻に徒爾(とじ)ならざることを進言されたのである。この今西氏の進言は當時好評嘖々たる故人に對する有力な裏書といつてよく、翁の食指が稍動きかけたことは事實であつたが、機未だ熟せず、兩者會見までには猶相當の距離があつた。

今西林三郞翁
今西林三郞翁
岩下淸周翁
岩下淸周翁

池田氏の入社

しかるにその後幾干ならずして、偶然にも今西氏の進言が實現せらるべき機縁が生れて來た。それは岩下翁と相識の間柄であつた池田源十郞氏が大林組に支配人として新に入社したことである。池田氏は曩(さき)に唐津鐵道の支配人當時、故人はその大株主であり、後、同鐵道が九州鐵道に合併されたとき池田氏はその淸算人であつた關係から、屢(しばしば)故人と折衝した縁故もあり、特に今西氏の推擧によつて入社されたのである。

池田氏は、就任後の或る日、岩下翁を訪づれて大林組入社の挨拶を述べた。その時岩下翁は怪訝な眼を瞠(みは)つたさうである。それも道理で、いかに今西氏の言により故人に對して多少食指が動きかけた矢先にもせよ、翁としては未だ全幅の信任を故人に拂ふまでには達してゐなかつたその折に、自己の信ずる知友池田氏が故人の傘下に走つたといふのだから訝(いぶか)るのも無理はなかつたのである。さりながら池田氏が故人の傘下に走せたといふ一事は何を暗示するであらうか。俊敏な岩下翁はこの一事によつて既に今西氏の言を信ぜずにはゐられなくなつて來た。まして池田氏より故人の性格及才幹、潑剌たる大林組の營業状態、新注文の殺到と豐富なその發展性、故人統制下の上下社員の戮力(りくりょく)振り等の詳細を聽くに及んで、こゝに初めて故人及大林組の全貌が明瞭となるに至り、人一倍事業愛に熱烈な翁のことゝて、忽ち『大林君が膽力、才能、任俠等非凡の人材であることは豫てより聞いてゐたが左程とは思つてゐなかつた。今君の言を聞いて初めて了解した。舊友(きゅうゆう)の君が主人と賴む大林君は吾輩にも友人たるべき因縁が出來たわけだから、是非一度同行して來給へ。胸襟を開いて大に語つて見たくなつたよ』と故人との會見を望まれるに至つたのである。

岩下翁と初對面

その後數日を經て濱寺俘虜(ふりょ)收容所の急工事の終つた直後、故人は池田氏を伴なつて岩下翁を訪ふたのである。所謂靈機一閃、兩雄は恰も十年の知已の如く何ものを以てしても斷つことの出來ない堅い連鎖がこの初對面に於て出來上つたのである。故人としてこの岩下翁の知を得たことは全く百萬の援軍を迎へたにも等しく、前途の光明は百萬燭光にも勝るものがあつたに相違ない。しかるに面白い話題が殘つてゐる。抑も今西氏が岩下翁に故人を推擧した眞意は、前段に述べた通り、躍進を續けてゐる故人に潤澤な資金を與へ、以てその才腕を縱橫に發揮せしめて遣りたいといふ點であつたのだが、翁と連繫後日ならずして北濱銀行と取引を開始した故人が、資金關係で岩下翁に負ふところのあつたのはその後約七ケ年を經過した大阪電氣軌道會社の生駒隧道掘鑿(くっさく)を請負つた以降で、それ以前には極めて少かつたのである。

岩下翁に負ふもの

却つて取引開始第一年の三十八年末の如きは四十餘萬圓の預金尻を殘したほどで、「負ふたら抱かれろ」的でなく、故人の高潔躍如たるものがあり、岩下翁並に今西氏をして讃歎せしめたのであつた。要するに故人は生駒隧道掘鑿當時に至るまで、翁に求めたものは資金よりも寧ろ該博深遠な翁の新智識に基く指導と當時關西財界に飛ぶ鳥も墜す翁の推輓(すいばん)とで、就中(なかんずく)廣島電軌及廣島瓦斯、阪堺電車その他の事業に馬を陣頭に進めたのも、殆ど翁の勸説(かんせつ)によつたものである。たゞ恨むらくは翁に北濱銀行の蹉跌がなく、故人に藉(か)すに猶幾春秋を以てせば兩雄掉尾(ちょうび)の活躍を見得られたらうに、人生の宿命とはいひながらいかにも惜まれてならない。

辯舌の武器

尚こゝに附記して置きたいのは、いかに相互の意氣が投合したとはいへ、初對面から潔癖傲岸ともいふべき岩下翁を動かしたことは一種の驚異であつて、幼少から洗練琢磨された汲めども盡きぬ故人の人間味が翁の胸底を深刻に衝いた爲でもあるが、その他に一般には餘り多くを知られてゐない故人の有つ有力な武器を見遁すことは出來ない。それは故人の率直眞摯な辯(ことば)である。故人は親近、朋輩等と相會したときは、材料豐富、圓轉滑脱(えんてんかつだつ)、頗(すこぶ)る座談に長けてゐたが、一度び先輩、顧客等に對した場合は寧ろ寡言沈默勝ちの人であつて、その謹嚴でしかも物柔かにポツリポツリと出る簡明率直の言は、言葉數こそ少いが悉(ことごと)く目的の核心に觸れ、對手方の肯綮(こうけい)に當つたものである。故人は人を動かすに有力なこの武器を先天的に有つてゐた。岩下翁が初め故人を眺めて『一請負人何者ぞ』と見縊(みくび)つてゐた憶測を一朝にして根底から覆へしたのも、この率直な辯に負ふところが頗る多大であつたことを想はせる。

かくて日を經るに隨(したが)つて翁と故人との交情は益固く、遂に膠膝(こうしつ)の誼が結ばれたのである。不幸にして故人早世、交誼僅かに十年に過ぎなかつたが、その間隨分夥多(かた)の話題に富んでゐる。曾て岩下淸周傳に寄せられた大林社長並に白杉氏の述懷が最もよくその間の消息を傳へてゐるので、下にこれを轉載し、本項は單に兩者の連繫に就てのみ物語ることにした。

感激の事ども

大林義雄

翁と父との交誼については、私の口から申上げるまでもなく、翁に識られてから後の父の事業には、影の形に添ふが如く必ず翁の助力を受け、翁の計畫された仕事には必ず父が一臂(いっぴ)の力を致したと聞いて居ります。その豪放な性格は父も聊か相似た點があり、私交上にも極めて相許した間柄でありました。

大林として、翁の眷顧(けんこ)に俟つた幾多の感激は私共の永久に忘れることの出來ないものであります。たゞ私と致しましては、翁が關西に於ける財界の大立物として盛んに活躍して居られた時は年齒(ねんし)もまだ若かつたので多くの事柄は承知して居りませんし、且つこれ等については多くの先輩諸氏が述べられるであらうと思ひますので、私は翁が私自身に灑(そそ)がれた盡きせぬその恩愛の一、二を申上げ敢て蛇足を加へたいと存じます。

私の今日あるは翁の賜

私は男としては父の一人兒であつて、所謂かけ代へのない意味でその寵を一身に集めて居りましたが、十四歳の時猩紅熱(しょうこうねつ)を患つて一時は危篤に陷り、元來蒲柳(ほりゅう)の質であつた私の健康上に非常な打撃となり、父は非常に心配されまして、その後何事にも先づ健康第一主義を採り、夙川の別邸内に私の爲に千坪ばかりの農園を設け、二人の園丁と共にかうした事に從事させることに致されました。隨つて將來に對應すべき敎育といつたことは、全然父の頭には考へられてゐなかつたのであります。かくして一ケ年を過ぎた時には健康も餘程回復致しました。

當時私の宅と翁の邸とは隣り同志でしたが、私が追々と健康と回復して來るのを見られた翁は一日父に向つて『健康も勿論大事には相違ないが、將來に備ふる爲には學問が必要であることはいふまでもない。あの儘成長させてしまつては面白くない』と説かれましたが、父は何よりも私の健康を氣遣つてゐたので、目前の愛に惹かされてどうしても決斷が出來なかつたが、翁は機會ある毎に「子供の將來」といふ立場から諄々(じゅんじゅん)と説かれたので、流石の父もその非を悟つて翁の勸説に從ひ、私は東京の曉星學校に入學し、次いで早稻田大學に學ぶことが出來ました。

かうした翁の温情ある勸告と鞭撻がなかつたならば、健康のみに捉はれた父の盲目的な愛の爲、今日の如く不肖ながら大林組を背負つて立つことが出來たか否かは疑問とせねばなりませぬ。この見地から私の今日あるは全く翁の賜と申すべきであります。

感激に堪へぬ温情

翁の訃を聞いて裾野に駈けつけました時も、集られた多くの人達の思出話は語るも涙、聞くも涙、今更ながらその性格閲歴と萬人に勝れた温情とを思つて感激の涙に咽(むせ)んだのでありましたが、座に偶某會社の社長があつて『大林君、今更いふではないが君は故人には感謝せなくてはならぬ』といふことでした。勿論私共としては感謝と報恩の辭もないほどでありますから、寧ろ今更かうした言葉を改めて受けることに不滿を感じたほどでありましたが、次いで同社長が『實は僕の社が現在やつて貰つてゐる仕事は、故人が是非大林組にやらしてやつて呉れ、大林組の仕事一切に關しては僕が全責任を負ふから、と熱心に勸説されたので君の方に賴んだ次第である』といはれるに及んで、私はハツといひ知れぬ敬虔な感激に打たれたのでありました。當時大林組は某社數年間の繼續(けいぞく)的大建築を一手に引受けて銳意工を進めてゐたが、これはかなり秘密の多い工場であり、極めてデリケートな箇所が多く、なかなか難かしい建築で、普通の請負業者には困難である。隨つて嘗て他社の某工場を建築した經驗を有つ大林組を特に指名されたものであらうと、いはゞ頗る手前勝手な自惚の鼻を高くしてゐたのであります。勿論これが普通の人ならば『かうしたことを賴んで置いたよ』とか『君、あれは僕が口添へしたんだよ』とか、相手方に自分の行爲を知らすのが當然であります。しかし翁は一言もこれに及ばずして、全くの好意から大林組を扶けられたのでありまして、所謂尊い陰德としてのその厚き温情については全く涙無しでは語られぬのであります。

岩下翁と我が先主大林芳五郞

白杉龜造

初對面

太ツ腹、豪邁(ごうまい)、果斷、直行、任俠などの點に於て頗る酷似せる性格の持主であつた翁と先主との連衝は必ず大きな何ものかを齎(もたら)すに相違なく、翁の伴侶としては大林が好適である、と觀て取つた故今西林三郞翁は、先主の爲人を賞して翁にその會見を慫慂(しょうよう)せられたやうでありましたが、偶明治三十八年二月、翁と先主との初對面が行はれたのであります。

意氣投合

古史を繙(ひもと)いて見ても、豪(えら)い人物の心裏は凡人の忖度(そんたく)を許さぬものがありますが、丁度翁と先主とが如何に性格上幾多共通點が多かつたにもせよ、單なる一會見が動機となつて忽ち肝膽相照す莫逆(ばくげき)の友となられたことは、私などの想ひも及ばぬことでありました。その第一次の會見は簡單な儀禮的のものに過ぎなかつたのでありますが、しかも靈機一閃といはうか、斷つことも裂くことも出來ない楔が出來上つたのであります。

日を經るに隨つて親交倍々深く、爾後幾干もなく翁は先主の別墅(べっしょ)夙川の風光を激賞されてその南隣に居を構ふるなど、管仲鮑叔(かんちゅうほうしゅく)の交も啻(ただ)ならざるほどに達しました。兩者の心境に牆壁(しょうへき)のなかつたばかりでなく、相互邸宅の境界にも全然牆壁の設けなく、交通自在の一庭園を隔つるに過ぎなかつた如きは、その濃かな交を語る一例であります。

翁の達識

翁は夙に最高の學叢を出られ、多年歐米先進國の風物に親しまれた炯眼(けいがん)達識の士でありまして、歸朝後夙に歐米の文化や制度を我が國に扶植することに努められた先覺者であり、翁の關係された各種事業は常に十年二十年の將來を見透して計畫されましたもので、その卓見眞に世を蓋ふの概があつたのであります。一方我が先主は、別にこれといつて規則立つた學問の經歴こそありませんでしたが、天性透明な頭腦を持つた俊英闊達の士でありましたので、翁の卓見を充分理解し、翁の好伴侶として互に純白雪の如き淸い眞情を吐露し合つたものであります。翁の諄々として盡くるなき深遠該博なる大抱負は常に先主の前に披瀝されたものでありまして、翁は先主を見てこの人物ならば必ず何事かを成し遂げ得べしと信じもされ、又容易に得べからざる賴もしき伴侶とも思はれたやうであります。一方先主としては、熾烈な向上心も手傳つてゐたのでありますが、心の底から翁の抱負を傾聽讃美した一人でありまして、翁に對しては自巳を導く先覺者として心服もし尊敬も拂つてゐたのであります。かくの如く相互に信賴し合つた眞情の結合が水魚の交となつて現はれたのでありまして、私はこの純潔なる交情に對して常に無限の敬意を拂つてゐたのであります。

大林組の指導者

當時の土木建築界は、頭數こそ多いが、數百萬圓の請負工事を消化し得るものは關東に於ては大倉組、淸水組、關西に於ては僅かに新進の我が大林組位のものでありました。大林組が幸に一流請負業者たることを得たにもせよ、その組織、制度、設備、機關等に至つては、今日より見れば小規模且つ不完全なものでありまして、漸く靑年期に達したといふに過ぎず、本當の仕事は愈これからといふ時期でありましたから、翁の如き明敏達識の指導者を得ましたことは洵に力強い限りでありました。 即ち組織制度を革(あらた)めますと同時に、幾多の人材を聘し、機械力の應用、新工法の實施等新時代の要求に順應せんが爲畢生(ひっせい)の努力を拂つて内容の充實を圖つたのであります。この向上新進の意氣に燃えた眞面目な方策は、益江湖(こうこ)の信用を博するに至り、日露戰後各師團の增設、民間企業の勃興に伴なふ諸般の工事は陸續(りくぞく)として群り來つて非常な盛况を呈したのであります。

當時翁より北銀堂島支店、寶塚温泉浴場の設計及實施を託されたのを始めとし、翁の斡旋推輓によつて得たる各方面の工事は多大なものでありました。猶業務擴張に伴なふ財力も翁の北銀に負ふところ尠くなかつたのでありまして、翁の指導聲援は大林組として永遠に忘れることの出來ない一大恩惠であります。

翁の伴奏者

翁一夕先主に向つて、一土木建築界に跼蹐(きょくせき)せず、一般事業界への乘り出しを勸められたことがありました。當時企業熱の旺盛を極めつゝあつた折も折、常に遠大の志望を懷いて鬱勃(うつぼつ)たりし先主は、恰も薪に油を注がれたも同樣、驀地(まっしぐら)に馬を事業界の陣頭に進めることになつたのであります。爾來翁の帷幕(いばく)には必ず先主の參加を見、又先主の計畫には必ず翁が背景となつて居られたのであります。

自分が一度かうと信じたことは、世間の毀譽褒貶(きよほうへん)等に頓着なく、徹頭徹尾やり遂げねば氣の濟まない翁に配するに、これ亦翁に讓らない太ツ腹の先主を以てしたのですから、當時の事業界をかなり賑はしたことは既に周知の事實であります。

翁の高風

翁の豪膽なる事業振に對しては世上兎角の評もありましたが、眞に翁の心事を解剖したならば、その兎角の評も「高山に登らざれば天の高きを知る能はざるなり」で、全く皮相の觀察に過ぎないことが判るのであります。

翁に日本醤油釀造や才賀電氣商會救濟の失敗はあつたにしても、その間些の私心も挿まれてゐなかつたことが翁の翁たる所以でありまして、日本醤油釀造の如き、翁の薀蓄(うんちく)よりして、科學の發達した現代に於て二ケ月間で醤油の短期釀造が可能なりと認識されたことに無理はなく、且つこの短期釀造の發見は延(ひい)て邦家の福利を增進するのみならず、一面一種の社會的救濟事業なりと思惟せられたことでせう。又才賀電氣商會の救濟の如きも、一才賀藤吉氏を愛するの目的でなく、電氣事業が國家富源の根源をなすものであるとの見地からやられた仕事に相違ないのであります。見やうによつては隨分豪放な遣り方のやうにも思はれますが、寧ろ國利民福を圖ることに餘りに熱烈であつた結果、細節を顧みる遑(いとま)がなかつたものとしか信じられぬのであります。

先主が日本醤油釀造の後始末に畢生の努力を拂ひ、逐鹿場裡(ちくろくじょうり)には翁の參謀として狂奔し、又翁の重役たる大阪電氣軌道の生駒隧道の完成に渾身の力を注ぎ、更に才賀電氣商會の救濟と日本興業會社の創立、竝に翁の牙城たる北濱銀行の破綻から翁の失脚に際し、死力を盡してこれが救濟に奮鬪したことなども、たゞ單に翁の顧遇に酬ゆるといふ一片の義理合から出たばかりでなく、常に翁の高明な心事に心醉した結果に外ならないのであります。

棺を蓋ふて論定まる、と申しますが、翁の失脚後、翁を包んでゐた幾多の疑惑が日を經るに隨つて雲散霧消するに至りましたことは洵に慶ばしき限りであります。今や電氣事業の旺盛は停止するところを知らざる有樣で、翁の遺業たる彼の阪急、大軌等の隆盛は事業界羨望の的となつてゐるのでありますが、翁は敢て誇らず、富士山麓の一農園の主人公に甘んじて、悠々自適、風月に親しまれたその奧床しい高風は、眼前古聖賢を見るやうな心地が致しました。

大正十五年の夏、華城某家との多年の懸案解決致しまして、翁は裾野の草蘆を出でて大阪を訪はれました。その時の翁は、曾て大阪財界を左右した昔日の俤(おもかげ)もなく、たゞ一農園の好々爺であつたのですが、私は寧ろ昔日の翁を見るよりも遙かに光彩陸離たる凱旋將軍を仰ぐやうな感に打たれました。その時は大阪財界の諸名士は勿論、大軌、阪急の沿道民に至るまで擧(こぞ)つて翁を迎へたのであります。もし翁にして高風廉潔の士でなかつたなら敢て顧るものもない筈であります。

友の靈に泣いた翁

翁と先主との親交期間は比較的短日月であつたのでありますが、その關係が總べての事業の發足期とも稱すべき初期時代であつた爲、大半は惡戰苦鬪の歴史で充たされて居ります。苦を共にした友ほど懷しいものはなく、北銀破綻と殆ど時を同うして病を得た先主の枕邊(ちんべん)に、保釋中の翁が訪ねて見えた時などは相見て慟哭されたのであります。

先主が遂に不歸の客となられました時、翁は熱誠こめた哀悼の意を表され、何くれとなくお世話下さいました。その時は他所目にもお氣の毒なほど打萎れて居られたのであります。翁に北銀破綻の恨事もなく、又先主に今少し齡を藉(か)したなら、より以上の偉績を擧げられたであらうと、私は當時を追想する度毎に思はず愚痴が湧いて來るのであります。

先主逝いて三年の後、大林組の基礎も漸く安定しましたので、社長と私とはこれが報告の爲不二農園に翁を訪ねたことがありましたが、その時翁は『大林君が生きて居つたらね』と幾度となく繰返し、筆紙に盡し難い心からの喜びを表されました。

大正十五年翁の大阪訪問の時、駕(が)を我が大林組に抂(ま)げられて新築の屋上を徘徊せられ『大林君が生きてゐたらどんなに喜ばれるだらうね』といはれ、そゞろ莫逆の友を追懷(ついかい)して涙を浮べられたのであります。九ケ年の交情、多くは苦しみを共にし、花も實も結ばぬ内に永く訣れた友を偲ばれた時、翁の胸は張り裂けるやうであつたらうと思はれます。もしこれが利害得失によつて交情を二三にした間柄でありましたなら、恐らくこのやうに美しい光景を見ることは出來ない筈でありまして、翁の偉大なる性格が今更に想ひ出されるのであります。

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