大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第三編 後記

一 病魔 五十二歳

故人の不治の大患は、何時頃から發生したか判明しないが、自身にそれと覺られたのは大正四年四月六日の夕暮、平常のやうに執務中ふと氣分の悒鬱(ゆううつ)を覺えられた時であらう。

發病

不幸にして病勢は漸次昂進するのみで、一切の治療もその効無く、遂に不歸の客となられたのである。故人の平常が頗(すこぶ)る頑健であつた爲、殆ど病氣など眼中になく、自然攝生(せっせい)を怠つて識らぬ間に保健上の缺陷を招き、遂に不治の病魔が襲い來つたものゝやうである。

殊に故人の健啖は有名なもので、飯茶碗は五郞八の大碗を用ひ、滿盤(まんばん)の肉林は忽ちに盡き大鉢の澤庵も底を拂つて殘さず、しかも斗酒辭せずといふ豪勢さで、常に傍人をして啞然たらしめたものであつた。四十五、六歳の頃糖尿病を患つたがそれも難なく掃蕩(そうとう)し、絶倫の體力にまかせて盛に活動を續けて來たが、流石頑健鐵の如き體軀も天壽は人力を以て左右し得ず、五十三歳を以てその壽(しゅう)を終つたのは返す返すも痛恨の外はない。

肺壞疽(はいえそ)

當時内科の權威たる幾多の名醫が交々その症状を診察し、中にも楠本、坪井、加藤、和田前田、中西、高安(主治醫)等の諸博士の如きは、最も熱心に病症の本體を捉えようと焦つたが、奇怪な體温の昇降状態と診斷を裏切る症状の激變等は、一時諸博士をして五里霧中に迷はしめるのみであつたが、遂に怖るべき肺壞疸であることが明白となつたのである。病名の診定されたときは死の宣告を下されたも同樣、一家並に社を擧げて震駭したのであつた。爾後全力を醫療に傾注して百方回復の道を講じたが、病魔は遠慮なくその暴威を逞ふし、苦惱状態は翌五月下旬に至るも依然として减退せず、無論若干の消長はあつたが病勢は次第に險惡に傾き、尋常人ならば到底その苦惱に耐え得ないほどのものであつた。しかし平素の頑健な體軀は持久戰に堅仭(じん)な戰鬪力を現はし、この致命的病症に對抗して勇敢な抵抗を持續したことは、關係名醫連を尠からず驚かしたのであつた。

この年十月 大正天皇御即位の大體を京都に行はせらるゝことゝなり、大禮使造營部から大林組に對して、二條離宮南御車寄、大宮御所内皇族御休所、仙洞御所内朝集所、その他各種新築工事施工の命が下つた。故人は病中に度重なる榮譽の御下命を拜し、唯々恐惶(きょうこう)謙抑身を床上に起して恭しく東天を伏し拜んだ。受命は六月二十日であつたが、施工に約三ケ月を要し、九月二十七日を以て無事竣功を告げた。その間故人は耐へ難い苦惱の間にも御工事の無事竣成を祈ること切なるものがあり、順調なる工程の報告を聞く度に病を忘れて笑み欣ぶを常とした。

御大典祝賀

しかるに故人の病状は依然として减退の印なく、愁雲倍々深きを思はせたが、不思議にも十月下旬から十一月にかけて徐々ながら輕快の状を呈するに至り、或は回春の期無きにあらずとの希望が萠え初めて、一家一族をして歡喜せしめたのであつた。時恰も 大正天皇の御即位御大典の折とて 陛下の萬々歳を壽(ことほ)ぐべく、國民の心からなる慶祝の露れは手の舞ひ足の踏む所を知らぬ抃舞(べんぶ)となつて、全國津々浦々に至るまで歡呼の海と化したのであつた。大阪市に於ても、緋縮緬の長襦袢に花笠とか、或は歌舞伎樣々の伊達姿とか、奇想天外の剽輕な粧ひとか、各自思ひ思ひの趣向を凝らし、十一月十六日より二十七日までの連日連夜、三味や太皷の囃しと歡呼のどよめきは天地を震撼するばかりであつた。病床にこのどよめきを聞いてゐた故人は、早速數人の看護婦と二、三の若者に對し『俺は殘念だが病氣の爲この目出度い奉祝の群に參加が出來ない。一夜だけは一人も居殘る必要がないから、俺に代つて思ふ存分奉祝の意を表して來なさい』と命じた。その命令は無論慰安の意も籠つてゐるのである。一同は嬉々として先づ扮粧の趣向を練つた結果、築港工事の落成式に用ひた寳船の扮ひを主題に假裝の一團が組織され、その將に繰出さんとする時故人は病床にこれを眺め、聲を放つて拍手し、自己の苦しみも忘れて 陛下の萬々歳を壽ぎ奉つたのである。

病勢激變

しかるに何んぞ圖らん、その發聲が患部に大刺戟を與へ、その夜より病状激變して愁雲は再び滿邸を鎖すに至り、十二月に入つて冱寒(ごかん)身に沁む頃には屢(しばしば)危篤に陷つた。その度毎に疲勞の度は益加はるばかり、今はたゞ人事を盡して天命を俟つより途はなくなつた。

しかして故人はかゝる重症にありながら、意識は頗る明瞭であつたので、少しく快よい折々など、伊藤、白杉氏等より、營業上の經過、一般經濟界の状態等を聽取して病中の徒然を慰めてゐた。

遣孤を託す

たゞ岩下翁の疑獄事件は尠からざる憂愁を故人に與へ、盲目千人の世を痛憤已まぬものがあり、故人の病を進めた一原因であつたかとも思はれる。その頃故人は再び起つ能はざるを覺悟せられ、一日片岡直輝翁及渡邊千代三郞氏を請じて後事を託された。兩氏の快諾を得たときはどれほど嬉しかつたか、潜然として涙を垂れ、痩せ衰へた手を伸べて翁の手を堅く握り、嗣子義雄氏を顧み、『我が亡き後は翁を父と御慕ひ申し、その敎訓に反くなよ』と懇々と諭された時には居並ぶ者泣かざるは無かつた。

訣別の辭

その後親戚縁者は勿論、上原元帥、佐々木伊兵衛、岩下淸周、今西林三郞、谷口房藏、天野利三郞、志方勢七、高倉藤平諸氏の見舞を受けたときは、それとはなしに訣別の意を表して身後の計を悃囑(こんしょく)し、殊に股肱(ここう)たる伊藤、白杉、岡の諸氏に對しては、後事を託すると共に經營上の方針に至るまで何くれとなく指示するところがあつた。故人が『最早何等思ひ殘すことはない。たゞ靜に天の命を待つのみだ。人間といふものは諦めが肝腎だ。御蔭で晴々した氣分になつた』との述懷を洩されたのは、大正四年も方に暮なんとする師走頃であつた。曾て菩提寺の僧河原秀孝師に佛道を聽き、その後幾多の試練を經て解脱の道に入るところがあつたとはいへ、人生最後の「死」は今目前に迫りつゝある。

偉人たる眞價

しかも生の執着から離れて胸中何等の不安なく泰然自若たる大悟徹底振りは、普通凡庸のよく企及し能はざるところで、先天的に諦めのよかつたその性格が得難き尊い佛果ともなつたのであつて、偉人の偉人たる眞價は死に直面したとの瞬時に於て遺憾なくその光芒が放たれたのであつた。

明くれば大正五年の新春、熈々(きき)たる麗光は洽(あまね)く病床をも見舞つて來た。病室の徒然を慰める床の間の寒梅は馥郁(ふくいく)たる芳香を室内に湛へ、福壽草の幽姿が初日を浴びて一陽來福の目出たさを謳つてゐる。願くばその病勢にも年と共に温和な春の訪づれ來るのを望まずにはゐられなかつた。

故人の性格の一面には禪的素質が多分に潜在してゐて、所謂バタ臭いことは餘り好まなかつたが、日常の生活から推して『今後日本人の生活は二重にも三重にもなつてその繁雜さに怺(こら)へぬ時代が來るだらう。そして遂には洋式生活に一新されるに相違ない』との見地から、自身も亦この繁雜な生活から逃れようとする意向を有つてゐた。故に周圍の人々は、故人の意中を忖度(そんたく)して、初め故人が病を獲た際、その靜養所に充てる目的で夙川別邸内に洋館を新築した。しかるに工事の進行と正比例して病勢彌(いよいよ)に增進し、軈て洋館の漸く落成した頃には既にその病軀を郊外に移動することの出來ない状態に至つてゐた。だが故人は洋館の落成を耳にし、是が非でも新館への移動を熱望して已まなかつた。殊に夙川の風光は豫(かね)てから故人の最も好愛するところ、白雲紫嵐、武庫山々の自然的情趣は今橋本邸に橫臥する故人の腦裡を往來して忘れ得ぬものがあつたので、家人近親もその心事に同情し、主治醫と協議の上病軀移動の冒險を決行することゝなつた。

病軀移動

一月二日午後五時、醫師、看護婦、家族親近が附添ひ、故人を乘せた擔架は今橋本邸を出て阪神電車の起點梅田に向ひ、莫逆(ばくげき)の友たる今西林三郞氏の斡旋によつて阪神電車は最徐行の電車を特發されたのである。しかしてこの日この時こそ、哀れ故人が思出多き大阪と永訣する最後であつたのだ。

木の香新しい夙川の新館に移つた故人は、案じられたほどの影響も受けず、淸新な室に興を催していと滿足氣に笑みさへ泛(うか)べるのであつた。家人その他はこの移動を劃期(かっき)として病魔驅逐の新生面を拓くべく治療に全力を傾倒したのであつたが、その念願は日々に泡沫と消え一月下旬に至つて更に病状の惡化を見、遂に危篤に陷つたのであつた。

舊主(きゅうしゅ)砂崎翁は故人の病中東京より態々(わざわざ)數回に亙(わた)つて慰問され、何時も子を懷ふやうな悶々の純情を注いでゐられた。臨終の數日前も病倍々篤きを聞き、急遽驅けつけて枕頭(まくらもと)に立たれた。故人は翁の姿を見るなり、さも慈父に嬌えるやう、『今はの際に會ひたう御座いましたよく來て下さつた』と抱きつかんばかりの面ざし、翁も亦涙を抑へていと懇(ねんごろ)に劬(く)り慰めるその樣は、親子も及ばぬ師弟の情が溢れてゐた。砂崎氏によつて初めて世に出た故人が今や砂崎氏と世を隔てんとする際、人情の極致で飾られた美しいその場面、無限の味が籠つてゐる翁は故人の切なる望みに任せ、そのまゝ夙川邸に滯留して朝夕枕頭を去らなかつた。

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