大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

三十九 北濱銀行の危機と岩下翁の失脚 五十一歳―五十二歳

北銀の取附

大正三年四月、大阪日々新聞は、岩下翁の社長たる大阪電氣軌道の增資失敗を非難し、更に鉾を轉じて北濱銀行の攻撃に移つた結果、北銀は遂に取附の厄に見舞はれた。無論裏面に策士の蠢動(しゅんどう)があつたことは事實らしいが、翁は平素から新聞記者に對し隨分な酷評をあびせ記者間の大反感を招いてゐた矢先であつたので、大阪の諸新聞は擧(こぞ)つて「北濱銀行取附!!!」の大見出の下に紙上を賑はしたのであつた。

救濟者

預金者に猶豫のあらばこそ、取附は頗(すこぶ)る猛烈を極めた。遂に日本銀行の救濟を仰ぐに至つたが、借入金の三百萬圓は僅に二日間を保つに過ぎなかつたといふ有樣、折も折、泣き面に蜂といはうか、金庫係熊谷某の十萬餘圓の費消、名古屋支店長中西某の百十萬餘圓の橫領、並に日本銀行の救濟は制限貸出に過ぎないとの祕密が暴露して預金者の神經を益敏感ならしめ、郷誠之助男、松方幸次郞、谷口房藏、永田仁助、片岡直輝、渡邊千代三郞の諸氏及故人、藤田男、大久保知事、藏相といふやうに救濟の登場人物は數々あつて、波亂曲折の間に凡(あら)ゆる手段が講ぜられ、遂に岩下翁の頭取辭任を條件に藤田男の積極的救濟へと進み、漸く更生の曙光を認めることが出來、六月二十八日、岩下翁以下時の重役は責を負ふて總辭職を行つたのである。

岩下翁の頭取辭任

翁としては十七年餘育み來れる牙城を一朝にして去るのだから、恐らく斷膓の感があつたであらう。

故人としては、一生涯を通じてこの時ほど眞劍味を帶びたことはあるまい。帷幄(いあく)の將白杉氏と共に策を籌(はか)らし、谷口氏等と共に血眼になつて日夜救濟に狂奔したのであつた。故人は心中『事こゝに至つたのは大軌關係が緖をなしてゐる。大軌關係では岩下翁と自分とは不可分の立場にあるので、北銀の難局は自分にも責任がある。そして大軌の興隆には一、二年の歳月を俟たなければならない。

故人の覺悟

その間は石に嚙りついても北銀の堡壘(ほうるい)を死守しなければならぬ』と痛切に考へたのみでなく、北銀よりの負債に對する強烈な責任感と岩下翁多年の恩顧に酬ゆる爲には自己の財産全部を投げ出しても敢て怨むところがないとまで堅く決意したのである。

或る日、故人は疲れた身を椅子に橫へ、悄然として白杉氏に眞意を打明けた。『阪堺や箕面電鐵等の例を以てしても、今開業早々の大軌に實績の花が咲く筈はないではないか。一、二年の歳月を與へてこそ花も咲き、實も結ふのである。この見易い道理が分明らないのだから世の盲目者流には呆れざるを得ない。この際北銀の堡壘は死力を盡して守らねばならぬ。ついては自分の財産が何程あるか計算して貰ひたい。

元の裸

畢竟岩下翁の恩顧によつて出來た財産だ。元の裸となつて更に出直すのも面白いだらう。この際財産全部を提供して翁の難を救ひたいと思ふが、君はどう考へるかね』といふのであつた。決心を示す相貌は凄味を帶びてゐる。白杉氏も無論男子の本懷としてかくあることを望むものではあるが、當時大林組としては數百の社員を擁し、相當責任ある請負工事も尠くない。猶且つ大林家と大林組とは異身同體の觀はあつても大林組として北銀に負ふものは少かつたのだから、大林組の浮沈に關するやうな無謀な行動は愼んでほしいと思つたものゝ、一度び意を決したが最後一歩も後に退かない故人の性格を熟知してゐるので一應の注意を喚起したに止め、これに賛成するの外途はなかつた。

大林家の財三百萬

急遽財産目録を作成したところ、その額は相當の餘裕を見ても優に三百萬圓を超過してゐた。熱情家である反面又冷靜な判斷を誤らない故人ではあるが、その時は餘程熱しきつてゐたと見え、即時財産目録を持參して岩下翁を訪ねたのである。その時の状景が岩下淸周傳中飯田精一氏の談話として記載してあるから、便宜下にこれを轉記することにした。

美しい一場面

元大阪株式取引所常務理事 飯田精一氏

或る人から『あまり深入りするな』といふ忠告があつたが、岩下翁は頓着なく世話を續けた。しかるに大林氏もえらくなるべき素質を有してゐたから、ズンズンえらくなつた。大林を見拔いた翁もえらかつたが、見拔かれた大林氏もえらい人物だつた。斯の如きを猩々(しょうじょう)猩々を識るといふのであらう。

北濱銀行が取付に遭つたときの事であつた。ある朝いつもの通り大阪への出がけに岩下翁の宅へ寄つて見た。すると大林氏が白襟紋付袴の禮裝で翁と對座して、その中間に數葉の書類と印形とが出してある。そして翁はブンブン怒つてゐる。その光景は甚だ穩かならぬやうだつたから、少からず驚いた。その時、翁は自分の姿をぢろりと見て、『君か、君ならよからう、まアはいりたまへ』といはれたから遠慮がちにその席へ入つた。ところが岩下翁の言はれるには『飯田君、まア聞いて呉れ。大林君が、昨夜もう親族會議もすんだのだと言つて、自分の全財産を僕に提供するといふ積りで、こゝへ財産全部の記録と委任状と實印とを持參したのだよ。大林君は、自分の今日あるは僕のお蔭だから、僕の困つてゐる際全財産を投げ出すのは當然だ、皆んな使つて呉れ、と強硬な談判に乘込んで歸らうと言はないから困るよ。成程僕は大林君の爲人(ひととなり)に惚れて、銀行から君に若干援助はしたが、銀行はたゞで金融をしたのでなく、利息を儲けさせてもらつてゐるのだから、大林君は銀行の大事なお客さんぢやないか。大林君にその譯を説明してもウンと承知して呉れないで、僕には大恩があると主張して、全財産を投げ出すといつて僕を屈服させやうとして動かうとしないから困るぢやないか。君は幸ひ僕等二人と懇意な仲だから、うまく大林君を説得して呉れ給へ』云々。その岩下翁の言が終るか終らぬに、今度は大林君から、『岩下さんは御自分に都合の好いやうな理屈ばかり言つてござるが、第三者の君なら正しい判斷が出來よう。私が今日北濱銀行のお困りになるのを、たゞぼんやり見てゐられるとあなたは思ひますか。大林の男を岩下さんはすてゝしまへとおつしやるやうだが、そんな無茶な、殘酷なことがありませうか。岩下さんは失禮ながら連日の御疲勞で神經がどうかしてゐるやうだから、あなた一ツうまく説明して下さい』と言はれる。自分は、兩君が共に義の爲に爭ふて一歩も讓らうとしない森嚴なる光景に接して、覺えず涙がポロポロと膝の上に落ちて來た。それで自分は、『御二方のお話はいづれも正しいから、第三者から立ち入つて判斷すべきものぢやない。たゞし、ものには時機といふものもあり、話は多少双方から讓り合はなくては纏るものぢやないから、今日のところは、岩下さんもさう頑固にいはぬがよろしい。又大林さんも今日に限らぬことだから、兎も角今日のところは一先づ預つた積りで持つて歸られた方がよろしい』と双方をうまく宥(なだ)め賺して、ようようそのことはそれでをさまつた。

後任頭取

後任頭取は、藤田系の杉村正太郞氏が就任した。辭任後とはいへ岩下翁は、北銀の更生を祈る眞心から病軀をも厭はず、各地方の華客廻りをしてその諒解を求めるなど、涙ぐましい努力を拂はれた結果、信用も次第に回復されて來て關係者一同は多少愁眉を開くに至つた。しかるに突如として更に新事件が持ち上つた。

再混亂

それは前きに引繼當時缺損見積額を法律顧問たる三谷軌秀氏に依託して調査した結果、壹百八十九萬圓といふことで、株主總會の承認を得たのであつたが、杉村氏の頭取たるに及んで驚くなかれ七百六拾五萬圓と査定され、しかも永田支配人にも、その關係要路にも秘して唐突的にこれを株主總會に發表したので、この報告が巷間に傳はると再び取附の大混亂を招き、九月より三ケ月餘に彌(わた)つて休業の已むなきに至り、杉村頭取もその混亂を收拾することが出來ず辭任してしまつた。如何に缺損額に對して見る所を異にしたとはいへ、貳百萬程度の缺損が七百萬圓と査定されたのだから驚くのも無理はない。しかしてこの發表は大混亂を招いた以外に何等得るところがなかつた。當時株主間などでは、杉村頭取が何の爲にこのやうな尨大な缺損額を發表したか、その眞意を知るに苦しんだのであつた。『何等か爲にせんとする手段でなければ、自已擁護を目的としたのに外ならない。銀行救濟の新頭取でなくで破綻の頭取である』とまで取沙汰されたのである。しかしさしもの混亂も、小山健三、片岡直輝、土井通夫、永田仁助、牧野元良等の諸氏の盡力により、新頭取高倉藤平氏の下に取引銀行に爲替尻決濟の猶豫を請ひ、預金一千圓以下の拂渡を開始し、資本金を六百萬圓に減少し、優先株參百萬圓發行の件を決議してこゝに更生を見るに至つた。

故人の苦痛

北銀がかくて小康を得るに至つたことは慶びに堪へないが、故人としてはその救濟に對して莫大の犧牲を拂つたので、その打撃は實に大なるものがあつた。殊に最も苦痛を感じたのは、大軌に對する債權の回收には相當の歳月を要さねばならないのに、北銀に對する債務の履行は急を告げてゐる。

帝國座の處分

もし大軌の株券をその當時直ちに處分せば額面の十分の一にも足るまいし、その他各種の提供財産を遽に處分しようとするのだから、有利な條件で解決を見ることは頗る困難で、まして債權者たる北銀當路者の冷血的な措置には隨分と惱まされたものであつて、就中(なかんずく)北濱五丁目にあつて五百坪の帝國座を、持主たる大林家に何等の相談もなく北銀と關西信託との間に於て拾八萬圓で賣買の契約が結ばれるなど、故人が如何に全財産を北銀に提供したとはいへ、所有者に一應の相談もなく、まして價格坪當り參百六拾圓といふ破天荒の廉價で處分したのだから呆れるの外なく、如何に安く見積つても當時あの邊りは坪當り五、六百圓を下らなかつたのである。かうした北銀の遣方には頗る憤慨したものゝ、債務者といふ弱い立場から遂に泣寢入りに終つたのであつたが、この亂暴な筆法からすると、杉村頭取査定の七百六十餘萬圓の缺損額は、或は當を得て居つたかも知れない。しかして大林家は帝國座の處分より、逐次新町九軒の七百三十坪、北濱に有する事務所の五百二十坪、神戸市郊外の五千坪、西宮夙川の五萬坪並に朝鮮その他に所有する地所建物、並に書畫骨董に至るまでを處分して急迫せる債務の辨濟に充てたのであつた。(殘餘は約に從つて大正七年の秋完濟したのである)

典型的な男性

元北濱銀行頭取 杉村正太郞氏談

最も相許した岩下翁が北濱銀行の破綻によつて失脚されたことは、故人にとつて大打撃たるを免れなかつた。私が岩下翁の後を襲ふて銳意整理に當つた際、自分の氣性として生暖いことは嫌で、從つて隨分酷烈に債務者から取立を要求したが、故人は、その貸借に關し事理極めて明白に、その處置も男らしく、哀訴嘆願といつたやうなことが一回もなかつたのには感じ入つた次第である。北濱銀行としても、故人の性格を深く信任してゐたのと、その債務の根本が大軌に關聯(かんれん)してのことであるから、大軌の整理さへ出來れば自ら解決するものと信じてゐたが、これが爲に動産不動産は申すに及ばず、愛藏品まで一切を提供して責任を果されたのは、故人の性格として當然の事とはいへ、洵に立派な態度であつた。

かういふ性格の人であつたから人の爲に迷惑を受けられたことは隨分あつたらうが、他人に對しては極力責任感を持して、絶對に無責任な言行はなかつた。かうした點に於ても普通の事業家と類を異にし、利害よりも意氣を尊んだところに故人の面目があつた。

私慾にあらず

後、幾許もなくして岩下翁は幾多刑事問題の爲に縲紲(るいせつ)の辱を受くる身となられた。しかし後、その刑事問題が洗はれて見ると實に同情の感なき能はずで、私利私慾を目的とした破廉恥的行爲でなかつたことが大審院の公判始末書を拔抄すると自ら分明するのである。

國家の損失

同始末書には「案ずるに、被告の所爲は全く私腹を肥さん爲に出でたるものにあらずと認め得たり。從て一審以來漸次その刑期を遞減せられ居る次第なれば被告は敢て無罪を願望するにあらず、更に減刑の上執行猶豫の恩典に浴したき希望を有するに過ぎざるものと思はる。故に犯行當時より幾多の歳月を經、犯行は全く拭ひ去られたりといふべき今日にありては、萬一原判決に擬律の錯誤ありて、破毀の上自判せらるゝ場合は其の刑を減じ、懲役二年に處し、執行猶豫を與ふるを相當なりと思料す」
とあり、全く善意の虚僞登記程度の罪状の爲に、國家的有爲の材を一農園に埋めさせたことは、如何に法律とはいへ、融通の利かない琴に膠したのも同然、國家の爲の大損失であつたといふべきである。

老西郷は皇軍に反抗したが逆賊と罵る者はあるまい。大石良雄は天下の法度を破つたが無賴漢と貶す者はあるまい。岩下翁をして老西郷や、大石良雄に比べることは出來ないが、大大阪の事業界に盡したその功績を思ふとき、餘りに小さな問題の爲に彼の全貌を抹殺することの如何に殘酷であるかを切言せざるを得ない。

事を共にすること十年、未だ共に志を成さず、翁の入監により中道にして先驅者を失つた故人、寂寞の感なくして過されようぞ。日々快々として樂まず、たゞ翁の罪の輕かれと祈るのみであつた。

故人病む

故人は人生の無常に心を傷めたのであらう、その頃から病床に淋しく呻吟(しんぎん)する身とはなつた。噫(ああ)

北濱銀行の支拂停止と大軌電車及大林組の整理改革の經緯

元大阪瓦斯會社々長 渡邊千代三郞氏

大正三年二月の頃と記憶しますが、大阪日々新聞經濟記者故金子德申氏は、北濱銀行の經營放慢に失し内容紊亂(びんらん)の旨を陳じ、幾日にも亙りて誇大の記事を連載されましたところ、實際その記事には虚實混淆(きょじつこんこう)ありしも、全然無稽妄誕(むけいもうたん)として排斥し難き事實もあり、旁(かたわら)世人は疑心暗鬼、遂に恐怖心を生じ、三月中旬には遂に取附を見るに至りました。尤もこの際の取附は昨年に於ける銀行取附騷の如く零碎(れいさい)なる預金者が銀行店頭に雲集して喧々囂々(ごうごう)預金の引出を爲せしとは趣を異に致しまして、當時北濱銀行は各地方の銀行等より比較的纏りたる資金を今日の所謂コールローンにて聚集(しゅうしゅう)運用して居りましたから、表面の騷は左程でありませんでしたが、蹉跌を生ぜし數日前に於きましては、手形交換所を通じて日々巨額の引出をされまして、非常なる困却をした次第でありました。片岡直輝翁はこの情勢を探知されまして、予に緩和策なきやを相談ありましたから、予は、時の大久保知事に懇談し先づ新聞記事の中止を講ずるを先決問題と考ふる旨を答へましたところ、翁は予の大久保知事と學友たるを承知して居られましたから、親しく知事を訪問して、その方法を講ぜよと申されました。予は賴まれもせぬに出しやばりは不穩當なりと答へました。翁は友人の岩下は東京に在りて實状を知らざるべきも、今數日を看過すれば單に岩下の急難となるのみならず、大阪財界の混亂を釀すことゝなるべければこの際奮つてその衝に當るべし、事後に於て萬一非難の言を爲す者出でんには、自己に於て全責任を負ふべしとの事なりしと、之に前後して北濱銀行專務取締役及支配人等より援助の申出もありましたから、その夜大久保知事に面會し、愚案を陳じ大久保知事に語りましたのは、大阪日々新聞の主宰者吉弘茂義氏は威壓(いあつ)などを加へられて容易にその初志を抂ぐる人でありませんから丁寧に同氏を招致し、同新聞の記事の虚實を云爲(うんい)するにあらざるも、この際一歩を誤れば關西財界の混亂を生ずるにつき、一先づ記事停止ありたし、何かの行懸もあるべけれど、銀行當事者に於ても擔當記者に對し暴言を發したることを今更悔悟(かいご)し居る由なれば、その上は寬恕(ゆる)するやう致されたし、貴下を紳士として懇談する次第なりと申さるれば、吉弘氏も武士氣質のある人なれば、一概に對手の苦痛を見て愉快とする程の無情漢に非ずと信ずる旨を以てしましたところ、大久保知事は予の談を諒とし、翌日吉弘氏を招き懇談を交へられましたが、温厚なる大久保君のことですから、丁寧な言辭を以て吉弘氏に接せられし爲、知事の誠意に感じ、その勸告に應ずることに決心されました。これが片岡翁の北濱銀行破綻事件に關與されし始めであります。これと前後して岩下君は招電に接して急遽歸阪、自ら新聞社に吉弘氏を訪(とぶら)ひ、記事停止の了解を得られました。しかるにこの交渉の成立は兩三日時期を後れたとでも申しませうか、その翌日は北濱銀行の急迫甚だしきに至り、百計盡きて一時支拂猶豫を求むるに至りました。こゝに於て北濱銀行關係の諸氏は重役たりし藤田彦三郞、松方幸次郞、加藤恒忠諸氏を首(はじ)めとし、直接間接に同銀行に關係ありし藤田男爵、谷口房藏、大林芳五郞、志方勢七、小林一三等の諸氏鳩首善後策を講ぜらるゝことゝなりましたから、岩下君と親交ある翁及予も走りてその席に加はりまして、翁と予は先づ藤田男爵自らその衝に當りて極力援助を與へられんことを慫慂(しょうよう)致しましたところ、男爵は先考の遺言により藤田組は進んで銀行に關係するを得ずと固く兩人の懇談を拒絶されました。こゝに於て予は翁と協議し、時の日本銀行支店長麻生二郞君の許に走り、北濱銀行の實状を述べ救濟方法につき種々懇談を交へましたところ、同君は厚意を以てその旨を本店に傳達されましたのと、大阪手形交換所は二十四日俄に委員會を開きてその决議を以て大藏大臣及日銀總裁に陳情書を提出あり、且つ大久保知事よりも至急救濟の必要ある旨を主務省に電報ありし等の爲、同日日本銀行本店に於て特別融通を爲して北濱銀行を救濟の議、決せし好音に接し、一時愁眉を開くことになりましたが、遺憾なりしは日銀本店にて何人かゞこの特別融通は三百萬圓を限度とする旨を洩されし由にて、僅か二三日にして更に支拂猶豫を乞はざるべからざるの悲運に陷りました。こゝに於て再び夜を徹し應急善後の策を講ずる必要を生じまして更に日銀へ種々懇談せしところ、時の日銀總裁三島子爵は若槻大藏大臣と協議ありて、藤田男爵家を始め關係重役諸氏に於て責任を負擔さるゝに於ては特に必要の資金を融通するに内議決定ありし旨或る筋より漏聞しましたから、予は翁及岩下氏と内議し、特に藤田男爵に信用最も厚き谷口房藏氏を勞して、男爵の奮發救援の途に出で、關西財界の恐慌鎭撫(ちんぶ)を講ぜらるゝやう懇請することに致しましたところ、谷口氏は夜を徹して藤田男爵並に時の藤田組總支配人池原鹿之助氏と懇談、曉に至り漸く藤田男爵家の承諾を得ることになりまして、二十九日より支拂を開始するに至りました。かくなりました爲岩下氏は責任を負ひて頭取を辭せざるべからざることゝなり、適當なる後任者を物色することになりまして、翁及予は當時閑散の身で居られました故永田仁助君の奮發就任を請ふことを最も時宜に適すと考へ、岩下君へ交渉しましたところ、同君も永田君にして就任を承諾致し呉るれば銀行の爲無上の幸福なりと申され、翁及予は永田君へこの儀につき懇談を試みましたところ、容易に應諾の意を表せられず、數日熟考の餘地を與へよとのことにて、飄然(ひょうぜん)高野山參詣の旅行をされました。しかるに一方岩下君を全然北濱銀行より驅逐せんとする連中ありて、新顏の人々にて重役會を組織せんとさるゝに至りまして、永田君の歸阪を俟たず杉村正太郞君を頭取とすることに決定しました。かくて北濱銀行は新重役にて經營することゝなりましたが、その後幾ばくならずして同行名古屋支店に於ける支店長中西某の約一百萬圓の私消事件暴露し、その結果同年八月臨時總會の席上、杉村頭取は進んで北濱銀行が事業繼續(けいぞく)の見込立たざるの理由を以て臨時休業を發表し、辭任を申出でられました。この際もし何人も救濟の策を講ぜざらんには、銀行を破産に陷らしめ一般商工者に容易ならざる惡影響を及ぼす趨勢でありましたから、翁は北濱銀行關係者の懇請により、又々考慮を費されましたが、適當な銀行者の來りてその衝に當る人なきは己むを得ざることにて、容易にその人を得ることが出來ませんでした。しかるに十一月に至り株式市場にて成功されし高倉藤平氏は株式取引所派に推され頭取となるに至られました。その際翁は專務取締役推擧の依賴を受けられまして、予に卑見を徴されましたから相談の結果北濱銀行員法學士納富陳平氏を推擧することになりました。翁がかく長日月に亘り北濱銀行の爲盡力されましたのは、北濱銀行に關係ありしが爲に非ずして、銀行の存否如何によりまして、株式、米殼及三品取引所等財界必要の機關に容易ならざる惡影響を生ずることゝ、大軌會社及友人大林芳五郞氏一家の運命に關する次第でありましたから、特に勞を厭はずして世話されし次第であります。

北濱銀行をしてこの如き窮地に陷らしめました一大近因は、岩下頭取が大阪電氣軌道會社の建設工事に無謀放膽(ほうたん)なる貸出を爲したりとの非難攻撃を招きたるにありましたから、北濱銀行の善後策を講ずるには大軌電車を改革整理して堅實なる會社とならしむるの必要ありしことは論を俟ちませんでした。のみならずその建設工事を引受けたる大林芳五郞氏は、殆ど現金の支拂を受けず、融通性なき大軌會社の約束手形の交付を受け居りしことでしたから、大林家の安泰を圖るにも大軌電車の改革刷新を必要と致しました。從つて北濱銀行の整理と大林家の救濟に盡力致し居られし翁が、求めずして大軌電車の改革に最大の發言權を有せらるゝことは當然至極でありまして、大軌電車の多數株主よりも翁に起つてその勞を執られんことを懇請するに至りました。大軌電車の窮乏は極度に達して居りましたから債權者は實に多數でありましたが、巨額の債權者は北濱銀行、大林芳五郞氏を除きては三井物産會社でありましたから、翁は先づ三井物産會社當事者と談合して改革案を案出することに致されましたが、これに先だち債權者並に大軌關係の代表者より、大軌會社將來の經營を託する社長を始め取締役、監査役等全體の推薦指名を委囑するに至りましたにつき、翁は大槻龍治氏が嘗て大阪を去られし際、阪地に戀々(れんれん)の情を遺し、何れの時か機會もあらば再び阪地の人となるやう高配を煩はしたしと述べられしことを想起し、予に向ひ同氏がかく窮乏の極に達したる會社の社長たるを承諾すると考ふるや否やを談ぜられましたにつき、予より大槻君へ打電して上阪を促しました。これはこの當時まで翁は大槻氏に面識はありましたが、親友と申す間柄でありませんでしたから、三十年來の學友たる予を介して交渉を試みられた譯であります。大槻氏は當時閑散の身で熊本に起居して居られ、この頃大藏省より年收約二萬圓にて漢冶萍財務官の職に就かるゝやうの内交渉に接し居られましたが、直ちに來阪、翁及予に面會大軌會社の事情を聽取り、この難職に當り報酬は當分年額三千圓の外あらざるを知りしに拘はらず、深思熟考の末就任承諾を致されましたから、大軌會社の幹部は大槻氏を中心として新に成立しましたが、かゝる次第でありますから、重役一同の懇請により翁は自ら相談役となり、會社の刷新改良引續き事業の擴張等につき一方ならぬ後援を與へられ、尚大正十年及十一年に亘り兩度社員の株券僞造の事件暴露せし際の如き、多數金融業者に損害を蒙(こうむ)らせし金額八十數萬圓に上り世上の大問題とならんと致しましたのを見て、翁は予をしてその關係ある多數銀行者間を奔走し、損害賠償額を約五分の一にて示談承諾の懇請を爲さしめ、且つ同時に重役諸氏に苦言を呈して、その賠償金を負擔せしむる交渉の衝に當らしめられましたが、幸にこの計畫成功し流石の難問題も圓滿に解決を見るに至りました。これ畢竟翁の德望の賜と申すより外ありません。

北濱銀行の信用失墜の爲非常なる苦境に陷りました他の一人は、大林芳五郞氏でありましたことは上述の經過を見れば何人も推察し得るところであります。日露戰爭後より大正の初めに亘りては大林氏の隆昌の際でありまして、信用も頗る厚くありましたが、大軌會社の工事を引受けられしに、會社悲境の爲、工事代金は殆ど現金を以て支拂はれざるに至り、漸く世上より疑惑の目を以て注視され、殊に北濱銀行破綻の影響を受けて、氏の大阪銀行者間に於ける信用は殆ど全滅せりといへる慘況を呈しました。從來擔保品を提供し借受け居られし借金の如きも、擔保品價額の多寡に拘はらず、銀行者はその回收を迫ることゝなり、且つ大林氏が當時大軌會社より受領し居られし百萬圓以上の約束手形の如き一時無價値の觀を呈しましたから、大林氏の悲境は同情に堪へざる次第でありました。翁及予は大林氏のこの災厄を見て深き同情心を起しまして、何とかしてその救濟策を講じたきものと、東西に於ける十數銀行の間を奔走し事情を述べ、且つ擔保品は兩人に於て希望通りの額まで調達提供せしむべきにつき、大林氏の難關を無事經過せしめられたしと交渉致しましたが、大林氏の爲使用する資金の貸出は擔保品の有無に拘らず貸出を承諾し難しと謝絶されしなど、今日より當時を追憶すれば實に寒心の至りに堪へません。しかるに大正四年秋に至りまして二十數萬圓の資金を調達せざれば、三四の銀行は強制處分の途に出でんとするに至りましたから、予は更に上京して友人岸博士の義俠心に訴へ、數萬圓の恩借を乞ふと同時に、三井銀行當局者に哀願し(自分の爲にではありませんが、世の中に哀願といふことあればこの時の懇請を申すべきか)擔保價額約七掛の有價證券を提供なし、且つ翁及岸博士と予と三名の連帶債務とするを條件とし、約二十萬圓の資金を六ケ月間大林氏に對し融通せしむるの途を開き、眞の焦眉の急を救ひたることがありました。翁及予がこの以前より交際ありしことは、既に記述せし通りでありますが、この頃より大林氏は翁及予を深く信賴するに至られまして、その家政整理につきましては細大となく相談あるやうになり、大正四年の暮病の爲復た起つべからざるを自覺するや、予をその枕頭(まくらもと)に招き、大林家の後事を翁及予に於て善處されんことを流涕して懇請されましたから、翁はその後大林組が株式會社として面目を新にするに當り、その相談役たるを承諾し大なる後援を與へらるゝに至りました。大林組が今日の隆昌を見るは同社當局者粒々辛苦の功績に基因するはいふまでもなきことながら、翁の勞決して少からずと存じます。

以上北濱銀行事件より大軌電車及大林組の整理改革の經緯の大略を陳述し終りまして、過去十數年の變遷を追懷(ついかい)致しまするに、北濱銀行はその本體を變じて三十四銀行に合併されましたから、今日その存在を見ざるも、大阪電氣軌道會社は恐慌當時には拂込濟の株券市價十圓以下に下りしのみならず、翁が整理の第一着手として八朱の優先株を募集せしめんとされし際、世人はその前途を狐疑し容易に引受けを申込まざりし有樣なりしに、今や同社の株式市價は拂込金の倍額以上にも上り、曾ては蕭條(しょうじょう)たりし上本町の起點には雲を衝くの高樓新に成り、社運日に月に隆盛に向ひ、同社の社債は幾百千萬圓の巨額に上るも、資本家は進んで應募するの幸運を見るに至りしことを始め、大林組の一時は僅少の資金融通にすら困難を感じたるに拘はらず、今や本邦土木建築業者中の白眉として信用益高きを見れば、實に桑田碧海(そうでんへきかい)、古今變遷の偉大なるに驚かざるを得ません。これは全く翁が遺德の片鱗なりと、兩會社の隆昌を聞く毎に欣喜雀躍(きんきじゃくやく)する所以であります。

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