大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第四編 飛花落葉(逸話)

家庭が極樂鄕

『主人が一町先を歸つて來られる。何か物思ひに沈みながら、平時の凛々しさは何處へやら、恰も魂の脱け殼のやう。恐らく路上に於てさへ事業上に種々肝膽(かんたん)を碎いてゐられるのでせう。無論門前を掃いてゐる私には氣が付かれない。漸く門前眞近に來て、初めて、又公そこにゐたのかといつた風。しかし一歩門を這入ると、ヤレヤレ極樂へでも着いたかのやうな面もちで、生氣潑刺たる日本晴の笑顏に變られる。私はこんなことを度々見受けました』とは、忠僕又さんの語り草である。事實故人は所謂「内入りのよい人」であつて、家庭に於ては何時もながら春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)、全く天眞爛漫の小兒に化して了(しま)ふのを常とした。奧さんや、子供さんや、下男女中に至るまでが故人の親愛な友人で、談話といはず、所作といはず、嘻々(きき)として笑ひ興ずるのを樂しみに、世智辛い浮世の風など何處を吹くかといつた樂天ぶり、眞に家庭は故人にとつて命の洗濯場で、至上至善の極樂郷であつた。實際主人たる身にとつて、家庭は、寢ようが、起きようが、怒らうが、笑はうが、誰人に遠慮の要もなく、虚飾も、僞善も、屈托もない赤裸々な思ふまゝの生活が營まれ得る所で、人間としての天眞の流露は多く家庭における一擧手一投足に窺はれ易いものである。故に全面的に故人を味はんと欲するならば、人間としての姿が最も露骨に反映される家庭生活を透して故人をよく觀察するの必要が起つて來る。公生活に於て如何に輝かしい業績を有つてゐても、家庭に於て傲慢、不平、貪慾、冷酷、憤怒、奢侈、淫蕩等の世界が展開してあつたなら、その人の人格は三文の價値もない筈だ。故人が家庭を極樂郷として、奔命に憊(つか)れた頭の洗濯場に充て、自ら小兒となつて爽快明朗の家庭を造つたことは、その奧ゆかしい人格を偲ばしめるものである。

故人は又常に『自分が世の中に生れて來た使命は、社會、國家への奉仕が主で、自己の榮達は從であらねばならぬ。もし社會、國家への奉仕が滿足に行つたなら、知らぬ間に自分も榮達するものだ。しかし、社會、國家への奉仕には必ず幾多の艱難(かんなん)苦惱がその反面に潜んでゐる。そして、もしその艱難苦惱にのみ始終するならば恐らく自己の生命が保てまい。だからその憊れを養ふ糧を孰(いず)れかに求める必要がある。その糧は、須臾(しゅゆ)の間でよいから何事も忘れて所謂浩然の氣を養ふことである。人に依つてはその爲に垂釣(すいちょう)も可、碁や將棋も可、茶や禪などもよいだらうが、自分としては全く小兒となつて馬鹿になることだ。そして世の中の總べての事物を樂しく愉快に觀ることだ』と言つてゐた。故に家庭に於ける故人は平常のこの主張を徹底したものであつて、數ある逸話中子供らしい稚氣滿々たるものは、かうした故人の意中をよく物語つてゐるのである。

婿選み

故人は三國一の娘婿の選定を技師長岡博士を通じて東大建築家敎授佐野博士に依賴した。佐野博士は愛弟子の中から適當な人物を愼重に物色した。白羽の矢は時の學生藤泉賢四郞氏に立てられ、佐野博士より藤泉氏に内交渉が開始された。ところが藤泉氏の返答が甚だ振つてゐて、『自分は次男の身だから何處へ行かうと差支はない。しかし先生が私をお氣に召しても、先方の大林氏が果して氣に入られるかどうか判らない。假りに先方が氣に入つたにしても、私自身が先方を氣に入るかどうか判らない。要は雙方(そうほう)相知つた上でなければ、假りに話が纒まつたにしても他日破鏡の嘆を招く虞れがないとも限らない。今遽(すみや)かに決定の必要がないのだから、先づ大林組に入社して、總べてを見られもし又見もした上のことにしたいと思ひます』といふのであつた。このことを聞いた故人は、まだ白面の一書生でありながら『先方が氣に入つても自分の方が氣に入るかどうか判らない』といつたあたりの氣骨稜々(りょうりょう)さに感服し、まだ見ぬ賢四郞氏に頗(すこぶ)る惚れ込んだ。賢四郞氏はかうした關係が動機となつて卒業後直ちに大林組に入つたのである。學生時代いつも肘の脱けた洋服で、腰に手拭をぶら下げ、破れ帽子に下駄履きで橫行した蠻(ばん)カラが、入社後もその片影を露はして相變(かわ)らずの素朴な風。宮本武藏のやうに風呂も餘り好まず、櫛(くしけず)ることもせず、襯衣(しゃつ)や褌は次々と新品を用ひて洗濯屋にも出さず、輿入りの際整理したらその汚れものが行李に一杯あつたといふ豪傑ぶり。煙草は拾圓紙幣で敷島幾箱かを購つて事務所の一隅に重ねてあり、たまには他人が一個位失敬してもお構ひなしといふ呑氣さ。それでゐて專攻の業務には徹底的に熱心で、傍ら史實の造詣に深く、俳句、俳畫、座談等は特に堂に入つたもの、遂に故人がまたとなき婿殿と惚れぬいたのも道理である。賢四郞氏の眼にも、豪宕不覊(ごうとうふき)な故人の姿と、才媛房子孃が惡く映ずる筈はない。そこで相互の意氣が投合して初めて三國一の婿殿が決定したのであつた。

賢四郞氏は、頭腦明敏、才智卓犖(たくらく)、伊藤哲郞氏の歿後副社長として白杉氏と共に社長を輔佐し、遂に今日の大林組を築き上げた殊勳者であつて、理智に長けてゐて人情味があり、業務に熱心なことゝ總べてに頑張の強かつたことは有名である。實に婿選みを愆(あやま)たなかつた故人の慧眼に今更ながら浩歎(こうたん)するものである。大林組内では、大林内閣を藤杉内閣(伊藤、白杉)といつてゐたが、伊藤氏の歿後、氏の執つてゐた業務を專ら賢四郞氏が踏襲し、賢四郞氏の舊姓(きゅうせい)が藤泉であるので、藤杉内閣は實に於ても名に於ても長く連續されたわけである。惜しいかな、この得難い賢四郞氏も、故人の生前に似て餘りにも自己の心身を業務に酷使した結果だらう、昭和十年三月三十一日、齡知命(ちめい)を過ぐる僅に一歳、前途爲すあるの身を以て不幸中道にして物故せられたのは痛惜の極みである。

(ついで)にいふが、氏は紳士俳壇の雄で泉郞と號し、遺句は三千に達した。松瀨靑々先生の如き『恐らく元祿、天明から明治にかけて、素人の餘技として泉郞氏ほどの名句を作つた人は過去にないと思はれる』とまで激賞されてゐる。下に靑々先生選中の數句を掲げて見よう。

松の花空のかぎりを霞みけり
春慶の色に棗(なつめ)のしぐれゐる
梅の座に蛤汁のうすにごり
うす紅の根をもち菖蒲葺かれある
蜆川(しじみ)ありしを語る夕涼み
雲の峰晝に露ある草野原
靑すだれ吊るに眉ずみ美しき
暖きねやとなりたる霜夜かな
萩の葉に玉虫を見る朝かな
猿廻し夜さの泊りはいづこかな
蛾の箔のつきしまゝなる團扇(うちわ)かな
口紅のやうに埋火見ゆるなり
はづかしきなりして蜷(にな)の轉(まろ)びけり
濱床に木の葉ふりこむ神の留守
うつくしき花鳥の世の涅槃かな

上の中最後の句は御影邸庭前の碑に刻まれて、氏の美しい生涯を寂しく語つてゐる。

鐵石の菊

故人は十津川擧兵の志士藤本鐵石筆の菊の大幅を愛藏してゐた。或る日、維新志士の遺墨と大和繪の蒐集では我が國の第一人者で、歌人でもあり能書家でもあり、神戸史談會の會長として令聞のある武岡豊太氏が來訪された時、故人は特にその鐵石の大幅を掲げて氏を遇した。筆致玄妙、氣品幽嚴、恐らく稀代の逸品であつて、氏はこれを見て激賞讃歎、盃を傾くる歡談數刻の間、盃を置く間さへ惜しいほど鑑賞に耽つて歸られた。故人は氏の去つた後、『自分は未だ曾て武岡氏のその日に於けるやうな熱狂的鑑賞の樣を見たことがない。この軸に對する憧憬は自分より武岡君の方が遙かに勝つてゐる。自分が所持するより武岡君が所持したなら更により以上の喜びだらう』とて、數日の後故人は惜氣もなくこれを武岡氏に贈つた。氏は無論狂喜した。そして故人は武岡氏の喜びを聞いて自分が所持してゐる以上に滿足したのであつた。その後武岡氏は折にふれてその軸を掲げ、幽嚴さを心ゆくまで味はひぬいたのである。まして 今上陛下御即位の大典を機に京都博物館に於て維新志士の遺墨展覽會が催された時、數多の出品中この畫幅が嶄然(ざんぜん)異彩を放つて第一位の榮冠を贏(か)ち得たさうである。武岡氏逝いて後、嗣子忠夫氏は『父はこの畫に依つて生涯限りない嗜樂を恣(ほしいまま)にすることを得た。これで故人の贈られた目的は完全に達せられたといふもの、今は父既に亡く、名幅は淋しく庫中に埋もれてある。もともとこれは大林家の品ゆへ元の大林家に藏せられるのが順當だらう』とて再び大林家に贈り返された。

藤本鐵石筆
藤本鐵石筆

誠忠蒙を啓く

桃山御陵造營中の或る日、途中御香の宮の鳥居下で、同地方の顏役とも覺しい十數人の一團が、道路一ぱいに椅子を列べて各自これにかけ、稚氣に類する通せんぼをして誰人かを待つものゝ如く、何んとなく殺氣さへ孕んでゐた。故人がそこに來かゝると、待つてゐたと言はんばかりに、その中での首領らしい中央の一人がヌツクと起ち上り、『君に用事がある』と迫つて形勢頗る不穩を示した。しかるに故人は凛然として眉一つ動かさない。『用事とは御陵工事のことですか。もしそれなら路上での用談は畏れ多い。用事があれば私方の事務所まで來て下さい』と、言下にその起つた男の空席の椅子を素早くよけて通り過ぎてしまつた。彼等はその泰然たる威容と敏捷な行動に啞然として見送るのみであつた。故人は彼等が道に自分を擁した眞意をよく理解してゐた。それは土地の請負人たる面目上幾分でも工事に參加させて貰ひたいといふことであつて、もし從順に出て來たなら望みを叶へてやらうといふ同情の念は豫(かね)てから故人の胸に浮んでゐた。だから『事務所に來て下さい』といふ意味深長な言葉を殘して去つたのである。しかるに彼等は同情ある故人の心中を察することが出來ず、翌日も亦前日と同じく通せんぼの否味を繰返し、今度は件の一人が故人の胸倉をとつて片手には匕首(あいくち)さへ擬し、『我々の地方に來て何等の念達もなく工事を進めるとは生意氣千萬だ』と、今にも斬りつけんばかりの凄い劍幕である。しかるに故人は相變らず、怖れもせず周章(あわ)てもせず、平然として『この度の御工事は畏くも 明治大帝の御陵工事である。普通の工事とはわけが違ふ。俺は微々たる請負人ではあるが、御奉公專一に日夜骨身を碎いてゐる。國民としても御工事の無事完成を祈つてゐない者は一人もあるまい。だから、私も國民だ、何か御手傳ひがしたい、とお前さん方から賴んで來るのが道ではあるまいか。それともお前さん方が、御上や國民に弓を引いてこの大事な工事にケチを付けようとするなら、この尊い淨域を喧嘩の血で穢さうとするなら、この大林を斬るなり斫るなり勝手にするがよい』と意氣軒昂、誠忠の氣魄が眉宇(びう)に漲(みなぎ)つてゐた。この言を聞いて、彼れ又日本男兒だ、思はず匕首を路上に捨て、『俺が惡かつた』と謝し、その後彼等は誠實に故人の工事を輔けたのであつた。

三ツの大望

或る時故人が『お金といふものは思ふやうに溜らぬものだな』と大息した。これを聞いた下男が『旦那、この上お金を溜めてどうなさいます』と反問したのに對して故人はかう言つた。『俺には三ツの大望がある。その大望を果すには少くとも千萬長者にならないと駄目だ。その大望の一ツは、世間には頭の良い利發な兒(こ)でありながら、家庭の貧乏から學問をさせられない者が澤山ある。これは國として大損失だ。だから貧民學校を建てゝさうした優良兒に學問をさせ、偉い有爲の人物を澤山拵(こしら)へることだ。次は施療病院を建てることで、病氣のときはお醫者が眞の神や佛なのである。お醫者に見放されてから神や佛にたよるといふのは大間違ひだ。我々などは感冒のやうな一寸した患ひでさへ、それ何博士を呼んで呉れなどと贅澤をいつてお醫者を無上の賴りにする。そしてそのお醫者といふ神や佛に縋(すが)つてこそ健康が回復されるのであつて、この意味からすると、貧乏の爲お醫者を迎へることの出來ない者は最初から神や佛に見捨てられたも同樣で、同じ人間に生れながらこれほど憐れなものはあるまい。最後の望みは少し大き過ぎるが軍艦を一隻献納したい。俺の性格は軍人に適したやうに思はれてならない。不幸環境に惠まれなかつた爲に請負者となつたが、もし昔の戰國時代に生れてゐたなら必ず槍を扱いて戰場を馳驅(ちく)したに相違ない。一朝事があつたとき献納の軍艦に便乘を許されて彈丸運びでもよいからやつて見たい』この述懷を聞いた者は獨り下男のみでなく親近者中にも少くない。實際故人は眞面目にこれを念願としてゐたもので、常に數人の給費生を蓄へ、且つ社員等の疾病時には必ず醫師を派遣したものである。だが哀れ壽(しゅう)に惠まれず、この大望を懷いたまゝ逝つたのは惜しまれてならない。

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