家庭が極樂鄕
『主人が一町先を歸つて來られる。何か物思ひに沈みながら、平時の凛々しさは何處へやら、恰も魂の脱け殼のやう。恐らく路上に於てさへ事業上に種々肝膽(かんたん)を碎いてゐられるのでせう。無論門前を掃いてゐる私には氣が付かれない。漸く門前眞近に來て、初めて、又公そこにゐたのかといつた風。しかし一歩門を這入ると、ヤレヤレ極樂へでも着いたかのやうな面もちで、生氣潑刺たる日本晴の笑顏に變られる。私はこんなことを度々見受けました』とは、忠僕又さんの語り草である。事實故人は所謂「内入りのよい人」であつて、家庭に於ては何時もながら春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)、全く天眞爛漫の小兒に化して了(しま)ふのを常とした。奧さんや、子供さんや、下男女中に至るまでが故人の親愛な友人で、談話といはず、所作といはず、嘻々(きき)として笑ひ興ずるのを樂しみに、世智辛い浮世の風など何處を吹くかといつた樂天ぶり、眞に家庭は故人にとつて命の洗濯場で、至上至善の極樂郷であつた。實際主人たる身にとつて、家庭は、寢ようが、起きようが、怒らうが、笑はうが、誰人に遠慮の要もなく、虚飾も、僞善も、屈托もない赤裸々な思ふまゝの生活が營まれ得る所で、人間としての天眞の流露は多く家庭における一擧手一投足に窺はれ易いものである。故に全面的に故人を味はんと欲するならば、人間としての姿が最も露骨に反映される家庭生活を透して故人をよく觀察するの必要が起つて來る。公生活に於て如何に輝かしい業績を有つてゐても、家庭に於て傲慢、不平、貪慾、冷酷、憤怒、奢侈、淫蕩等の世界が展開してあつたなら、その人の人格は三文の價値もない筈だ。故人が家庭を極樂郷として、奔命に憊(つか)れた頭の洗濯場に充て、自ら小兒となつて爽快明朗の家庭を造つたことは、その奧ゆかしい人格を偲ばしめるものである。
故人は又常に『自分が世の中に生れて來た使命は、社會、國家への奉仕が主で、自己の榮達は從であらねばならぬ。もし社會、國家への奉仕が滿足に行つたなら、知らぬ間に自分も榮達するものだ。しかし、社會、國家への奉仕には必ず幾多の艱難(かんなん)苦惱がその反面に潜んでゐる。そして、もしその艱難苦惱にのみ始終するならば恐らく自己の生命が保てまい。だからその憊れを養ふ糧を孰(いず)れかに求める必要がある。その糧は、須臾(しゅゆ)の間でよいから何事も忘れて所謂浩然の氣を養ふことである。人に依つてはその爲に垂釣(すいちょう)も可、碁や將棋も可、茶や禪などもよいだらうが、自分としては全く小兒となつて馬鹿になることだ。そして世の中の總べての事物を樂しく愉快に觀ることだ』と言つてゐた。故に家庭に於ける故人は平常のこの主張を徹底したものであつて、數ある逸話中子供らしい稚氣滿々たるものは、かうした故人の意中をよく物語つてゐるのである。