大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

編外 手向艸(たむけぐさ)(寄稿及談話)

算盤の桁外れ

河崎助太郞

私は岩下翁に比較的接近して居た關係で、岩下翁を通じて故人を識つたといふに過ぎない。從つて利害を共にするとか、仕事を一緖にするといつた事のなかつた爲、深く立入つて故人の事をいふのは差出がましいが、多年の交誼を辱うした知已として、故人に對する感想を卒直に述べさして頂くことにする。

故人は極めてイエス、ノーの明確な人で、不可なことは初めからきつぱりとその不可なるを極言して顧みないが、一且引受けたことは身命を賭して遂行に努められた。これは八方美人的に當り觸りのよい所謂ヨタを以て本領とし、これを一種の手腕の如く思惟して居る實業界に於て、特に光つて居られた點である。

イエス、ノーが明確であつたことは故人の果斷を物語るものである。一面からいへば、果斷なると同時にものに執着心が乏しかつたかも知れぬ。しかし機を見るに敏にして直ちにこれを實行しようとして勇往邁進せられた點は、私共の大いに學ぶべきことゝ思ふ。

艱難(かんなん)の中に長ぜられたので、餘り組織だつた學問はせられなかつたやうに聞いて居るが、しかも中々の理想家で、沈默寡言、所謂簡にして要を得るといふ方で、この沈重を以て事に衝り、平然として大きな仕事をされた。

大軌の生駒隧道工事に對する功績については既に世間周知のところであるが、そのやり方は算盤の桁を外した計畫で、何人も躊躇した難工事を引受け、百折不撓、遂に完成せしめられたが如き、實に想ひ半に過ぎるものがある。

故人は信義に敦く、如何なる場合でも信義に背くやうなことはなかつた。鴻池忠三郞氏は暫く故人に師事し、その指導援助を受けて今日の鴻池組の基礎を作られた人だが、今も尚故人の德を偲び感慨無量であるとよく語られてゐる。その他故人の信義と温情によつて、業を爲し、名を遂げた人も相當多いと聞いて居る。この信義を重んじ、部下を愛せられる親切により、總べての人達が宛かも慈父の如く敬慕したのである。今も尚大林家對社員間の情誼が蜜の如く濃やかなるを世間より羨望せられるのは、一にこれを故人の德望に歸すべきである。

談話の王

神戸萬太郞

故人が談話に巧みであつたことは衆評の一致するところだが、談話の範圍が實に廣汎(こうはん)なのにも敬服した。政治、經濟、敎育、宗敎、美術、社會、何でもござれである。殊に驚かされたのは、その範圍が廣いといふばかりでなく、頗(すこぶ)る深遠透徹してゐて、中には專門家さへ跣足(はだし)といふやうなのもあつた。故人は學問をした人ではないが、先天的に頭腦が明晳で、どんな難解の問題でも直ちに咀嚼して餘蘊なく、實に判りの速い人であつた。全く一を聞いて十を知るといふのは故人のやうな人を評するのだらう。偶何か面白い話の種子を攫むと、次回にはその話に必ず頭と尾が付いてゐて、完全なものに變つてゐるのを常とした。殊に私の專門とする法律問題などで、私が六法全書を首引きに種々研究を進めてゐると、故人は常識的に種々意見を述べられることがあつたが、それが理論的な堂々たるものであつて、小むつかしい法律問題然りだから、その他は推して知るべしで、この人にしてもし學問があつたならどんなに偉かつたであらうと、驚歎することが度々あつた。

故人と酒食を共にしたことがよくあつたが、故人には絃歌亂舞(げんからんぶ)といつたやうなことは一回もなく、行くときから歸るまで、世間話や調伏、洒落などで終始したものであつて、何事にてもあれ題材たらざるはなく、どんな貧弱な話題でも、故人の脚色によつて無限の興が湧き、眞に圓轉滑脱(えんてんかつだつ)、奇想天外より出でて思はず抱腹絶倒するなど、次から次と盡きるところがなかつた。殊に洒落などと來ると實に巧妙なもので、時には息をもつがせず連發といふ鮮かさ。犬養翁なども洒落は中々巧者であつたさうだが、一般に頭の鋭い氣轉の利く人はこれが上手なやうで、一時間も過ぎてから漸く洒落の意味を解し、突然ニヤリと笑ひ出す人を、犬養翁は『あれは一時間だよ』とその鈍さ加减を評され、眞面目一方全然洒落氣の無い愛婿芳澤謙吉氏が、翌日になつて漸く前日の洒落味を解し、ニヤリと笑ひ出したことを聞いた犬養翁は、芳澤氏に二十四時間といふ綽名(あだな)を與へた滑稽談を何かで見たことがあつたが、故人のは間髮を容れずといふのだから凄いものだ。故に故人の遊興は、故人が藝妓に遊ばせて貰つてゐるのか、藝妓が故人に遊ばせて貰つてゐるのか、主客顚倒(てんとう)の傾があつたのである。

面白い話題は澤山あるが、その内の一つを披露して見よう。或る時藝妓の一人が眼を赤くして痛みを故人に愬(うった)へた。故人は即座に『仰向に寢て、眼に庖刀を乘せると直ぐ治るよ』と敎へた。そんな治療法は誰一人として曾て聞いたこともない。その藝妓は不審さうに『それは呪禁ですか』と反問した。故人は自分の眼を指し『眼痛(まないた)に庖刀といふじやないか』と澄したもの。藝妓は『またやられた』と憤慨、一座抱腹、こんな例は數限りもない。

三ツの敎訓

吉崎龜之助

私は曾て大林故人から、生きた三つの敎訓を得たことを今に猶感謝してゐる。想ひ起す毎にその高德を敬慕して已まない。その敎訓とは、これを平易に言つたなら
一 故人が非常に世間慣れてゐられた點
二 故人が非常に恭謙(きょうけん)であつた點
三 故人が他人の喜びを衷心から自己の樂しみとせられた點
であつて、しからばどんな機會にその貴い敎訓を味ひ得たかといふに、判然とは記憶しないが、故人の生存中だから今より二十數年前のことであつたらう。私等夫妻が東上の折のことである。その時私どもの寢臺(しんだい)は四人の室で、向ひ側には一人の外人が乘り合せてゐたが、室を出たなり相當時間が經過しても戻つて來ない。初めの間はさまで意にも介しなかつたが、或は私ども夫妻に遠慮の結果でないかと心づき、私は起つて窃かに喫煙室を窺いて見ると、果してその外人が一人淋しく雜誌を繙(ひもと)いてゐる。私は餘りに氣の毒なので、懇(ねんごろ)に遠慮の無用を説いて歸室を勸めて自室に戻ると、偶同列車に故人が乘り合せてゐて、私と外人との談話に感づいたのでせう。私の室にやつて來て『先生に少しお願ひがあるのですが聽いては下さるまいか』と突然の申出、何事ならんと聞いて見ると、『實は私の寢臺は二人の室ですが、私一人では何となく淋しうございますので、室の交換が願はれませんでせうか』といふ譯。しかも慇懃(いんぎん)鄭重で、その言葉なり、態度なり、面ざしなりには、飾り氣も、衒氣(げんき)も、嫌氣も、蟠(わだかま)りもない明朗そのもので、誠意面に現はれて無限の親みが溢れてゐる。無論私は外人に對する氣の毒さもあるので喜んで故人の申出を甘受し、早速室の交換を行つたことがある。當時私と故人との交際は、左程親密といふ間柄でなく、各所の宴會等でのお顏馴染み程度に過ぎなかつたのだから、かうした場合『邪魔臭い、放つて置け』といふ位が普通の人情であり、又私の方としても『他人のことにいらざる干渉』と聞き流すのが普通であるかも知れない。しかるにその時の故人の温情は、恰も百年の知己にでも對するやうに、實に世故慣れた柔和さで、嫌氣など微塵もなく、恭謙の權化といつてよいその應對振りには、私は全く魅せられてしまつた。惟ふにそれは多年世故の辛酸を甞め、老熟しきつた精神修養の賜といつてよからう。そして故人は私どもの喜ぶ樣を見て『先生が喜んで下さつたので安心しました。難有うございました』とお禮まで言つて、私どもの喜びよりは故人の喜びの方が遙かに勝つてゐるやうに見えた。勿論外人の滿足はいふまでもない。斯の如きは所謂人の樂みを樂みとするもので、人に長たるものゝ正に備ふべき美德といはなければならない。蓋(けだ)しこれが故人の先天的美德であつたかも知れない。私はその時『これある哉』と直感した。故人の大を成した原因は數あるだらうが、就中(なかんずく)他人の喜びを無上の樂みとするその精神力が直ちに自己の營業上に反映して顧客の滿足を買つた結果に外ならないと思ふ。要するに故人は老熟恭謙、人の樂みを樂みとし、これを行ふに至誠を以てしたことは確かである。

序だから申述べることにするが、私は今日までかうした德を備へた偉人を故人の外に二人發見してゐる。尼崎伊三郞翁と馬越恭平男とである。尼崎翁は、自己所有船が航海を終へて歸港したときなど、自ら船長の手を執つて心からその勞を劬(いた)はり、船長等はその餘りの叮嚀(ていねい)懇切さに却つて恐縮するのを常とする。その他仲仕等の末に對してまで然りで、或る時支配人某が翁に向つて『餘りにも謙遜に過ぎるのは、彼等部下の意を驕らしめ、社長としての權威を失墜する虞がありませんか』と進言したことがあつたが、翁は『そんなことをお言ひでない。皆が私の爲に働いて下さるのだから』と答へたさうで、自分は社長である、社員以下の皆の者は自分が養つてやつてゐるのだ、などの傲然たる氣配は見たくともない。寧ろ自分の榮え行くのは彼等勤勞の賜なりとして衷心から感謝してゐるのである。故にその精神が謙讓親愛の象となつて流露し、上下戮力(りくりょく)、和氣靄々として一家團欒の風を作し、勞働爭議など起したくも起らないのである。馬越恭平男の謹謙遜讓も有名なもので、旅行先などで隨行の秘書が閉口されたのを聞いたことがある。この美風が幾百千の部下にまで浸透して一門一家の風を作したのである。某心理學者が『父母の動作は決してその場限りに消散するものでなく、一家全體の心に不識裡に殘留堆積するものだ』といつてゐるが、一家庭の父母のみでなく、移して以て凡(あら)ゆる長上の心得べき名言と思ふ。現に故人の嗣義雄氏が非常に謙遜なのも大林組が上下一團となつて倍々隆昌に趣きつゝあるのも、故人の美德が浸透した結果に外ならない。その大精神、大至誠の同化力又は牽引力の強烈さには今更ながら感歎させられる。古語に「英雄人を欺くのみ」といふことがあるが、それは結果から見た批判に過ぎない。英雄ともあらうものが他人を欺く筈はなく、又痴者でない限りは容易く他より欺かれもすまい。要するに至誠が人を動かすことを物語つたもので、至誠が無かつたなら眞の人心收攬が出來る筈はない。故人といひ、尼崎翁といひ、馬越男といひ、三者共に至誠の人であつて、さればこそこの三者を圍繞(いじょう)する幾多の郞黨(ろうとう)が、心からなる忠勤を勵みつゝあるのであつて、この事實に徴して觀るときは三者共に英雄たるを失はぬのである。

列車中の小さい出來事ではあつたが、故人の至誠には私も同化され、古語の筆法から言はせると私も欺かれた一人ではあるまいか。その他故人の德を頌する幾多の逸事に富むだらうが、私は生きた一つの實話を擧げてこゝに故人追慕の偲び草としたい。

噫君の音容

樂山 武岡豊太

故大林君は、滿身是膽、全行是義、嶄然(ざんぜん)として實業界に異彩を放てり。一見風流韻事を解せざる如くなりしも、何ぞ計らむ、橋本雅邦の畫格を歡び、その作品を收藏(ぞう)する二百點に達せむとは。又修養の志篤く、常に英傑興亡の蹟を討尋し、その興るや群雄の心を收攬し、その亡ぶや人心の離反に因るを察し、以て自ら鑑戒としたるものゝ如し。實學の人といふべし。

廣島電鐵會社を創めんとするや、予も創立委員となり、後監査役に加はる。屢(しばしば)君と共に彼地に往復をなす時、小閑の話題は多く歴史に入る。毛利元就が藝州吉田に起り、惡逆陶晴賢を宮島に討滅し、遂に彼の大を成せしに及ぶや、義の一字に基くを感得して言ふ、我をして戰國にあらしめば必ずや毛利氏たらむ、日本男兒は宜しく恥を知り義を重んずべきなりと。

或る時互に年齡を問ふ。偶然同庚なり。爲に交情の厚きを加へ、相見るや毎に要件を簡にして餘談に耽くるを喜びたり。曾て相約して夙川の邸を訪ふ。雅邦の秀作數十點を陳列し、一客一亭の待遇至れり盡せりといふべく、やがて土藏に伴なはる。軸物棚には雅邦猶百餘點あり。寓目の際各種書畫の中に、第百九十三號藤本鐵石の菊と題するものを發見し、請ふてこれを床上に懸く。筆致堂々實に一大傑作たり。予愛藏の意思を問ふ。君言ふ、鐵石は維新に於ける忠烈の士、仍而(よって)尊敬する所以なりと。而してその事蹟に就ては朦朧たるが如し。因て天誅組の義擧を説く。君慨然として義なる哉と。終にその幅を展せし儘晩餐を共にし、款談二更に及べり。數日の後白杉龜造氏來訪あり、曩日(のうじつ)夙川邸に於て歡ばれし鐵石の菊を主命に依り贈呈の爲來れりと。予意外の贈を受け、既に藏する數點の錦上更に花を添ふを謝し、大正四年の秋、御大典記念博覽會を京都帝室博物館に開かれし時、これを列品中に加へたり。

是より先大正三年二月九日君突如として言ふ、乾十郞の遺子大阪に在り、親の事蹟を釋ねつゝあり、君その事蹟を知れりやと。予曰く、乾十郞は大和五條の人にして、森田節齋の門人なり、天誅組に加はり、捕へられて京都の獄に殺さると。君言下に電話して一老婆を招く。名を大井まつといひ、時に歳五十九。まつ女感喜して、多年の心願を果せりと聲涙並び下る。予その孝心に感じ、遂に贈正五位乾十郞事蹟考を編述して全國の圖書館に寄贈し、且つ篆額を十郞の戰友男爵北畠治房翁、碑文を詞友木崎好尚氏に囑し、一大碑を四天王寺鏡の池畔に建つ。是君が常に節義を重んじたるに起因するものなり。

遡りて大正元年  明治天皇御陵の御造築を大林組に御下命あり。その九月の初、工事の竣成近づきしを聞き、君を訪ふてその勞を慰む。君言ふ、現下御陵銘の拓本を命ぜられしもその心得なく困窮せりと。予曰く、そは金石文と稱し、技巧を要する一事業なりと。然らば君能くするか、曰く能くす。奉仕せらるゝか、曰く諾矣。談忽ち熟す。直ちに伏見なる岡工學博士に電話し、大喪使山作部の允許を受く。同四日長男忠夫と共に所要の用具を携へ、寶壙(ほうこう)の御傍に參入し、謹みて拓本を製す。時に石工は積日晝夜の勤勞に疲れ、四圍(しい)嚴重なる小天幕裡の炎熱と鬪ひつゝあり。助手を得ること難し。因て翌五日は更に在中學の二兒を招致し父子四人、淋漓(りんり)なる流汗を一筋のタオルにて拭ひ、終日にして數葉を榻拓(とうたく)し奉る。

かくて御大喪の數日前大林組より電話あり。訪問せしに、來る十四日の夜御斂葬(れんそう)奉仕者に君を加へあり。心得べきは、苟(いやしく)も人語を發すべからざる事、御須屋へは必ず覆面し 入るべき事にして、その覆面の用紙を懷中し、破損あらば取換へ、敬意を失はぬやう注意せよと。予君の敎を諒とし、御當日禮服にて參入し、御制定の烏帽子狩衣を拜領し、塗靴を草鞋に換へ、玉襷(たすき)を掛けて御須屋に入り、寶壙の上に侍し、謹みて御斂葬に奉仕す。古來この御用に服するものを鳳鳥と稱し、人間にあらずとなす。後  昭憲皇太后東陵の御時も、亦その一員に加へられたり。予や、終夜土木の工匠に伍し、唯その敬意の緊張に努む。是君が皇室の御大事に對する周到なる用意を想はしむるものなり。

大正五年君遠逝の後、親故相謀り、繼嗣(よつぎ)をして專心本業に勵精(れいせい)せしむべく先づ夙川の別邸を廢し、次いで遺愛品を大阪美術倶樂部に於て賣立と決し札元の選定を予に一任せらる。即ち山中吉郞兵衛、林新助、春海敏等の各氏を指名し、又友人として永田仁助、片岡直輝、渡邊千代三郞、今西林三郞、谷口房藏の諸君とその目録に添書し、日を定めて入札を行ふ。時に舊友(きゅうゆう)等相語り、世の同情の下に十萬金を得ば可ならんと。しかるに開札の結果十三萬餘圓を計上せり。當時にありて特異の成績と稱せらる。而して雅邦作品中佛畫に屬するものは追善法要に用ひんが爲、豫め別除して家に保留す。その賣立品中に、七代淨益の瓢盡火鉢五對あり、二千金を豫想す。高札三千六百圓にして、以て一般の同情を知るに足る。後に至り大林組を株式組織となせし際、十一代淨益をしてこれを模せしめ、舊友に配贈せらる。予もその贈を受け、客室に使用して追慕の情を寓せり。

以上は君に對する懷舊(きゅう)の梗概に過ぎず。音容猶耳目にあり、感慨極まりなし。

事業界に盡した功績

高潔な心事

予が故人と親しくなつたのは、岩下淸周君が代議士選擧に立候補した時からで、引續いて三谷軌秀君が補缺選擧に立つた時、同志として共にこれを扶け、その後友人として交誼を續けて來たのである。しかし故人の事業に對する行き方が私の方面と違つて居たからでもあらうが、私とは事業上の接觸はなかつたが、故人の事に當つては徹頭徹尾これを貫かねば措かぬといつた烈火の如き性格は、三谷君の選擧時に遺憾なく發揮せられ、お義理一片の援助ではなく、自ら費用を支出して懸命の努力を拂ひ、しかも候補者に何等求むるところがないのみならず、その功を決して誇らない點は實に床しく、傍の見る眼も眞に氣持のよいものであつた。その男性的であり、一旦引受けた以上、我が事のやうに親身になつてこれに努力する高潔な人格は、想像もつかぬほど立派なものであつた。從つて隨分と人の爲に惜氣もなく金を散じ、一見如何にも締め括りがないやうに見えて居たが、實際はその反面に於て非常に綿密細心な頭で算盤を彈いて間違ひのない採算をたてることを忘れなかつた。世の中には、最初中々面白い人であつても、馴れるに從つて地金の出る者があるが、故人は、接すれば接する程人に好かれる、嚙みしめるほど味の出る人であつた。この點が長上先輩から愛せられ、又官邊民間の知己友人に信任せられて、その大をなした所以であると信じて居る。

大體仕事の性質と當時の四圍の情況からいへば、より以上の成功をしてゐなければならぬ人である。ところが「一旦引受けた以上徹底的にやり遂げる。假令(たとい)そこに無理が出來ても、如何なる犧牲を拂つてゞも、必ず目的を貫徹する」といつた責任感の強い、義俠的高潔な心事は、前記の如く社會の信用を博すると共に、一面屢大林組を窮地に立たしめた。即ち「必ずやり遂げる」といふ決意を遂行する爲には仕事にも困難が出來、軈て財政的にも無理の生ずることを免れない。從つて財界が順調な平衡を保つてゐるときは左程にもないが、一朝平衡を失して不況に陷らんか、忽ち打撃を蒙(こうむ)ることになる。これが故人を屢窮地に陷れた因を爲して居るものといつてよいと思ふ。

大軌と阪堺に現れた故人の功績

世人は大軌と阪堺の二電氣鐵道は、岩下、片岡等の先輩が社長となつて經營の衝に當り、今日の大を成したものと認めて居るやうである。成程これ等の人達の識見、手腕、人格が與つて力があつたには相違なからうが、一面この電氣鐵道に對する故人の盡した功績も決してこの兩翁の後に落ちるものではない。

大軌は故人の實行によつて初めて出來たものといつて敢て過言でない。先づ世間の注目の焦點となつた難工たる生駒の大隧道工事を、幾多の犧牲と莫大な資金を投じて見事に完成した點を見ても判る。當時大軌は殆ど財政的に行詰り、非難は更に非難を生んで囂々(ごうごう)たるものがあり、全く瀕死の危機にあつた。從つて故人が畢生(ひっせい)の努力を費したこの大工事に對しても工事代金の支拂が出來ない。そこで大林組獨力の經濟でこれを完成するの已むなきに至り、これが爲大林君自身も非常な窮地に陷つたにも拘らず、大軌を活かすことに專念した尊い犧牲的精神に至つては、眞に涙ぐましいものがある。もし大軌で岩下翁の記念碑を建てるやうなことがありとすれば、大軌にとつて起死回生の恩人である故人のものをも同時に建てねばならぬ筈である。

阪堺と故人との關係

阪堺電鐵は、創立の動機について種々の説があり、當時非難の聲が隨分高かつた。しかし故人はそれ等の動機に何等の關係なく、その獨特の信念の下に實行したのである。當時大阪財界に聲望並びなき片岡翁が社長として重きを爲して居たとはいへ、これ亦大軌と同じく、その財政方面なり經營方面なり總べての實行は故人獨りが脊負つてゐたもので、君が大半の株を有するに至らなかつたなら、到底創立に成功して居ないと共に、南海との合併も豫期通り運ばなかつたであらうと考へられる。

北銀問題と故人の義氣

北濱銀行の整理については、片岡、渡邊兩翁を首(はじ)め先輩の人達と共に私も東奔西走種々努力をしたのであるが、以前未拂込株式の辻褄を合はす爲に、それぞれ承諾の上で岩下翁の友人が名前を貸してあつたが、愈これが整理に着手するとなると、これ等の人達はその殆ど全部が責任を回避して顧るものがない有樣で、整理に一頓挫を來したのを見た故人は、現在自分自身が非常に苦しい危機にあるにも拘らず、一旦名前を承諾して貸した以上何處までも責任を負ふのが當然であると、無價値同樣の株式を引受けた。その義氣に感じた私も遂にこれを無條件で引受けたのであつた。

活動に終始した生涯

その他これに類した事實は相當多いのであるが、以上は我が事業界に盡した功勞であると同時に、故人を極度に苦しめた原因になつてゐる。これを要するに、生涯を通じて寸時も活動を休止したことなく、鮮かな手腕を縱橫に發揮し、その完成に近い人格と相俟つて事業を大成に導いたのである。當主義雄君がこの先代の長を採り短を捨て、白杉君を首め有力なる社員諸氏の支持を受けて今日の大をなしたのも、一に先代が造りあげた尊い體驗と實際的の敎訓に負ふものに外ならないと思ふのである。

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