大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

十二 朝鮮の奉仕 四十一歳―四十四歳 2 軍用鐵道枕木その他製材工事

滔々(とうとう)たる鴨綠江の流れ、朝霧を衝いて下る筏の影も勇ましい。千年斧鉞を入れぬ江岸の大森林、初め露國の手によつて伐採が行はれてゐたが、我が軍が同地帶を占領するに及んで總べての利權を取得するに至つた。

猪突的命令

臨時軍用鐵道監部はこの豊富な資源を利用するに躊躇しなかつた。製材工場の建設と各種製材の命が大林組に下された。これも相當猪突的な命令で、製材工場の完成に僅か一ケ月の日子しか與へられなかつた。故人は性來の負けず魂からこのやうな急工事を成し遂げることに寧ろ興味を有ち、自ら進んで快くこれを拜受し、直ちに總べての計畫を樹立すると共に、迅雷耳を蔽ふに遑(いとま)あらずといふ敏速さで、蒸氣機關及直流發電機、その他精巧な新式製材機械を据付け、(その据付の任に當つたのは大西源吉氏で、現機械部次長大西源次郞氏の父君)相當大規模な製材工場が鴨綠江の河口たる新義州に設けられたのである。哀音長く引く機械鋸の異樣な音響は鴨綠江の水面を走つて傳はり、これが鮮境開發の魁をなす産聲であつた。かくして軍用鐵道の枕木の大部分並に軍事施設の各用材はこの製材工場より搬出せられ、鐵道敷設の速成は勿論、軍事上に多大の貢献をなしたのである。のみならず爾後鴨綠江材と相關聯して、この製材工場が如何に朝鮮及南滿地方の文明と經濟の開發に資したかは想像に餘りあるものである。これ亦故人が常に抱持する報國的大精神の現はれともいふべきであらう。

當時の新義州は朝鮮人家の藁葺屋根が數十戸點々した一寒村に過ぎなかつたが、製材工場の剩餘電力を電燈に利用して新義州驛にも供給したので、附近の住民はこの珍らしい電燈を見んものと數里の遠きを厭はず、例の長い煙管を銜(くわ)へて悠々と集り來つたといふのも當時の珍談である。

鴨綠江節

その後、同地開發の雄圖(ゆうと)を語る彼の鴨綠江節は全國を風靡し、新義州の目覺しい發展には今昔の感が深いものがある。製材工場は平和克復後朝鮮總督府木材廠の買收するところとなつたが、これが現在の總督府營林廠製材所の濫觴(らんしょう)となつたものである。又當時の製材所長であつた多田榮吉氏はその後引續き新義州に住して今日に及んでゐるが、同氏は新義州開發の大功勞者であつてその名聲は鷄林八道に轟いてゐる。多田氏も大林組の生んだ故人の股肱(ここう)であつた。

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