大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

三十二 才賀電氣商會の破綻と友情 四十九歳

明治四十五年六月、桂公は西比利亞を經て歐洲に旅せられた。この旅行は桂公が捲土重來の意氣を藏して再び我が政界に飛躍すべき伏線であつた。

岩下翁の外遊

岩下翁も豫(かね)て再外遊の志があつたので、公の一行に加はつて出發せられた。

この年八月、名古屋に三井物産手形事件なるものが突發し、續いて大阪に才賀電氣商會の破綻問題が起つた。才賀電氣商會の經營者才賀藤吉氏は、當時電氣業界の權威として各方面より重用せられ、隨分奮鬪的の經歴に富んだ努力家であつて且つ才幹機畧(きりゃく)もあり、日露戰後企業熱の勃興に乘じて全國各地に支店を置き、その關係せる會社は八十有餘を數へ、資本總額實に三千萬圓と稱せられ、これが後援は岩下翁に俟つところが多かつた。

才賀商會破綻の影響

しかるに明治四十四年末以降、一般金融界の緊縮は各銀行をして手形の割引を差控へしめた結果、從來金融の好調に乘じて數百萬圓を遣り繰りしてゐた才賀商會は忽ちにして窮地に陷り、遂に破綻の避くべからざるに至つたのである。才賀の破綻は關係事業會社にも大影響を及ぼすことは勿論で、ましてその關係會社が八十餘にも渉つてゐただけに、延(ひい)ては一般財界の波瀾さへ免れ難かつたのである。この意味からして才賀商會の救濟は即ち財界の救濟であるといふことに歸するのであつて、眞に財界の混亂を憂ふる者はこれを對岸の火災視することは出來なかつたのである。

故人の蹶起(けっき)

故人は、翁の外遊不在中、財界不安定の險惡な徴候を少からず憂慮してゐたが、故人の銳敏な直覺は、才賀商會の窮境が導火線となつて北銀にも波及する低氣壓の陰翳(いんえい)を豫感し、是非共速かに才賀救濟の策を講ずるの必要を痛感すると共に、翁に對する情誼から故人は蹶然(けつぜん)起つて自らその衝に當らんことを決意し、先づ片岡直輝翁に縋(すが)つてその援助を請ひ、更に東奔西走して窮状の打解を策し、無論北銀側に對しても救濟の要を力説したのであつたが、世を觀るに鈍感な沒分暁漢(わからずや)もあつてその不必要をさへ唱へ、議は容易に纒まらず、結局は岩下翁の意見に俟つの外はないといふことになつて、双方から電報で翁の意見を叩いたのであつた。一方故人は才賀商會に對する有力な債權者たる古河電氣の荻野支店長と圖り、既に同商會の貸借關係を調査してゐたのである。果せる哉翁よりは『才賀救濟には先づ貸借對照の内容を調査すべし』との返電があり、北銀側は遽に倉皇として才賀商會の内容調査機關を設けるなど遲れ走せながら漸くにして救濟の幕が切つて下されたのである。調査の結果同商會の債務總額は實に六百五十萬圓といふ尨大さで、一電氣商會の債務としては稀有のものたることが確められ、北銀側は今更ながら驚きの眼を瞠るばかりで策の施しようもなかつたのである。故人はこの間に處して單獨に大奔走を試み、日本生命社長の片岡直温氏や、藤本ビルブローカー銀行の平賀敏氏等の同情を求め、岩下翁の歸朝に至るまでの期間、兎も角彌縫(びほう)を續け得たその努力と手腕は賞するに餘りあるものであつた。

日本興業會社の出現

その後岩下翁の歸朝を見るや、その救濟策は本格的に發展し、遂に大正二年四月、資本金三百萬圓の日本興業會社が設立せられ、岩下翁を社長に、速水太郞氏を專務に擧げ、故人及志方勢七、郷誠之助、片岡直輝等の諸氏がこれに參加したのである。總會の決議に基いて才賀商會の資産及負債の全部を繼承し、株式の拂込は一時發起人に於て立替拂込をなし、又別に百萬圓、年利六朱の社債を發行し、債權者には新株券又は社債券を交附し、これに應じない向に對しては從來の擔保品を處分して決濟したのである。そして同商會の營業全部を興業會社に移し、才賀藤吉氏は一社員として業務に從事することゝなり、曲りなりにも救濟の一段落を告げたのである。

影の形に添ふやうに、岩下翁關係の事業には必ず故人が參加して居り、前きに資本金五百萬圓の電氣信託會社創立に際しても岩下翁、福澤桃助、郷誠之助、志方勢七、山本条太郞、松方幸次郞の諸氏と共に主腦部の一員として活躍するなど、廣島瓦斯及電軌會社設立以來殆ど翁と事業を共にして事業界の一權威者たるに至つたことは、翁の推輓(すいばん)にもよるものであるが、一面に於て故人にもその才幹が充分備つてゐたことを物語るものである。

管鮑(かんぼう)の交

而して故人の出處進退は何時の場合も堂々たるものであり、殊に岩下翁に向けられた管鮑の交りにも比すべき友情は隨所に發揮されていかにも美しく、まして才賀商會の破綻が我が國電氣工業界の前途に暗影を投じ、國家の一大損失たるべきを痛感してその強烈な報國的精神を發揮した如きは、見遁すことの出來ない故人の美點である。

才賀の崩壞より整理まで

元古河電氣大阪支店長 荻野元太郞氏談

私は當時古河電氣の大阪支店長であつた關係上、才賀商會へ電機用品を販賣してゐた。ところで才賀商會の危機を看破したのは、才賀藤吉氏が支拂期日を延期すべく、手形の書換を求められた時であつた。故人及片岡直温氏(當時日本生命社長)等を通じて延期の相談があつたが、古河は物品販賣を主とする事業の性質上、金融機關たる銀行等とはその趣を異にし、手形の割引や書換によつて期限を伸縮することは一切出來ない立場にあり、私も血氣壯な時代であつたからお氣の毒ではあつたが素氣なくお斷りしたのであつた。

故人の來訪を受けた時、私は前後の關係及各方面よりの情報等より推し、才賀商會が危機に瀕してゐることをお話したところ、故人は『解りました。しかし困つたなア』といつて嘆息されたが、急遽片岡日生社長と圖り、私は故人及片岡氏と鼎座してその善後策を講ずることゝなつた。蓋(けだ)し才賀破綻の最初のことであつたと思ふ。そこで故人及片岡氏の委囑により才賀商會の帳簿を内閲したが、三晝夜を要した。調査の結果、才賀商會窮迫の原因は、その遣り口が餘りに突進的で事業を擴げ過ぎた放漫の罪に歸着したが、他の事業又は思惑等に資金を流用したといふやうな惡質のものでなく、大に恕(ゆる)すべき點のあるきことが判明するに至り、同商會救濟に同情を喚ぶ有利な材料となつたのである。偶外遊中の岩下翁から、同商會の内容調査を故人等に要求して來たので、私のこの辛勞が多少お役に立つたわけである。

才賀商會救濟の一策は、同商會より北濱銀行へ擔保に入れてある有利株券の整理であつたが、素より巨額の缺陷を埋むるに擔保整理のみを以てしては到底根本的の救濟とはならないので、故人等の依囑もあつて私もその整理に盡力したのであつた。勿論日本興業會社の手によつて、一時同商會の危殆を救ふことゝなつたが、大厦(たいか)の覆へる一木の能く支ふるところに非ずで、電氣界の巨人才賀藤吉氏も遂に業界から沒落してしまつた。これも天なる哉、命なる哉で、しかも財界の嶮潮(けんちょう)は岩下翁の大手腕を以てしても抗するに術なく、遂にその本城を捨つるの已むなきに至らしめた。哀れ才賀商會は華城財界の桐一葉となつたのである。

こゝに故人と私との間にのみ極秘の一挿話がある。故人は『これは内證ですよ』といふ場合、よく『これは親展話だが』といふ癖がある。即ち才賀商會の財産として攝津電氣會社の株が北濱銀行に擔保となつてゐたが、才賀整理のためその株を京阪電鐵に讓渡すべく私が交渉してゐた時、故人はそれを聞き込んで私に向ひ『あの株を京阪に讓渡するのは實に酷い。全く敵に兵糧を送るやうなものです。現に岩下翁の關係せる箕面電鐵といふものがある以上、商賣敵を利益せしむるには及ばんではないか』と頗(すこぶ)る強硬な意見を持ち込んで來られた。私は『その御意見は岩下さんへの義理として當然考へられるのであるが、それは小義です。この際一錢でも高く肩代りをして才賀の急を救ふのが岩下翁の志ではなからうか。攝津電氣は本社を吹田に有する關係上京阪の事業下に置くのが自然で、京阪もそれを認めてゐる爲法外の値段を奮發してゐるのです。箕面電鐵が岩下翁の關係だからといつて、それに拘泥して才賀の持株を空しく安く處分するのは結局岩下さんにいらぬ負擔を加へるわけでありませんか』と申すと、故人は釋然(しゃくぜん)として『成程又やられましたな。しかし私と岩下さんとの關係上、さう思ふのも無理は無いでせう』といつて呵々大笑(かかたいしょう)された。後徐(おもむろ)に手を振つて『この一件はお互に親展話にしませう』とのことであつた。故人の『親展話』は獨特の用語で、一寸もじつた滑稽味さへあつて面白かつた。それで今日まで眞に『親展話』として封印してゐたが、話の序(ついで)にこれも故人の面目の一端を偲ぶ材料にもとつけ加へたのである。

渾身これ信

元藤本ビルブロカー銀行會長 平賀 敏氏

故人とは、才賀商會救濟の際、電氣信託會社を岩下翁等と設立することになつて、三度ばかり共に徹夜したことがあつた。

才賀藤吉君は我が水力電氣の開祖ともいふべき人で、我が電氣界に貢獻した點も頗る大きかつた。餘りに手を擴げ過ぎた結果、經濟界の變調と同時に非常な窮境に陷つたものである。故人は才賀君とは直接相許した仲ではないが、才賀商會の破綻は岩下翁に累を及ぼすので、いはゞ岩下翁の爲に東奔西走したのであつて、片岡直輝翁にこれが整理を持込んだのも故人であつた。直輝翁は夙(つと)に故人の任俠的な爲人(ひととなり)を絶對的に信任してゐたので、これを引受けると共に當時藤本ビルブローカー銀行にゐた私に相談があつた。勿論私としても從來からの取引關係上、才賀の救濟には異議がある筈はなく、出來るだけの援助を約し、直輝翁と共に日本生命に片岡直温氏を訪ね、尚これが救援方を依賴したのであつた。その頃は事業資金として融通するのは保險會社が主なるもので、隨(したが)つて保險會社はビルブローカー銀行にとつて最上の顧客であつたのである。かくて日本生命から才賀商會の有する株式や手形の中で確實なものに對して相當融通を受けたが、遂に手形の不渡となり、最早姑息な彌縫(びほう)策では收拾することが出來ず、根本整理を爲さゞるを得ないことゝなつてしまつた。その間直輝、直温兩翁の間に感情の行違があつたが、誠意熱心な涙ぐましい故人の斡旋と努力とによつて、兩翁間の感情的支障も氷解するに至つた。そして岩下翁等の努力によつて電氣信託會社が生れたが、これも不幸にして北濱銀行事件による翁の蹉跌が原因をなし、所期の目的を果すことの出來ない結末を見るに至つたのは遺憾であつた。兎に角、日本興業會社といひ、電氣信託會社といひ、故人が一意專心この難關突破の爲に日夜勞苦を重ねたことが、たとひ時利あらず、才賀救濟を全うし得なかつたにしろ、財界諸名士の共鳴を得て或る程度迄それに成功したことは、故人でなければ出來ぬ人格的努力の賜といはねばならぬ。

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