大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第三編 後記

四 大林組の更生

故人の光が餘りに大きかつた爲、故人の死は期せずして大林家及大林組の信用に大なる不安を投げ、殊に最大の債權者たる北銀の追求は實に辛辣を極めるに至つた。そこで先づ北銀と故人との關係を説かなければならないが、これは既に北銀破綻の項や、岩下翁との關係に於て詳記してあるから、こゝではその繁を避け、最も手つ取り早く簡單に説明すると、

北銀との關係

  • ○岩下翁失脚當時北銀に對する故人の負債は約參百萬圓に達してゐた。無論擔保はあつた。それは大軌の株券又は手形が大部分を占めてゐた。
  • ○當時大軌の株價は僅に額面の五分の一程度のものであつたから、故人は北銀の整理に際し全財産を提供して負債の辨濟に充てた。
  • ○當時窮迫せる北銀は、無論現金回收が主たる目的であつたから、故人の死後、提供財産の處分は勿論、二束三文に見積つた大軌の株に對し、增擔保を要求して已まなかつた。

北銀との關係は以上の通りであつて、大林家は大軌に對し約二百萬圓の債權を有してゐたのだから、もし幸ひにその債權さへ滿足に回收が出來得れば、當時に於ける大林家の資産状態からして整理上左程困難ではなかつたのである。しかるに大軌は片岡翁の盡瘁(じんすい)によつて整理が漸く緖に就いたといふに過ぎない折であつて、せめて二ケ年位の歳月はどうしても待たなければならず、結局大林家は追求頗(すこぶ)る急な北銀の債務だけを四苦八苦の裡に果さなければならない窮地に陷らざるを得なかつた。

王者の風

元來故人は、債務の履行に對しては人一倍義理堅かつたが、債權に對してはこれと反對に寬大な王者の風があり、そこが故人の故人たる任俠的美點ではあつたが、かうした場合かゝる美風を自ら誇つてゐられるものでなく、伊藤、白杉兩氏は、非常な不利な立場を忍んで、遂に潔く提供財産の處分を斷行するの已むなきに至つたのであつた。

その時のことだが、面白い逸話が殘つてゐる。北銀側は『秀麗を誇る夙川の別邸だけはまさか手放さぬであらう』と密に語らつてゐたが、何ぞ圖らん、大林家に於ては夙川邸の賣却と珍器名畫の賣立を眞先に決行したのである。

誠意の整理

こゝに於て北銀側は初めて大林家の誠意を知るに至り、寧ろその立派な行動に對して一片の敬意をさへ拂ふに至つたのである。これ全く伊藤、白杉兩氏の方寸に出でたもので、大林家中にも反對論者があつたが、兩氏は先づ第一に最も愛惜するものより處分しよう、これが債務者の誠意を表する唯一の方法でもあり且つ債權者の追求を柔ぐ上乘の策であるとなし、普通人には出來得ないことを敢行したのである。果せる哉、この意表に出でた誠意の流露は、北銀側は勿論大林家を支援する人々にまで多大の感動を與へ、同時に勃然として起つた同情によつてさしも困難を極めた債務辨濟の整理がその後順調に進捗したのであつた。

かくして大林家としての難關は或る程度まで突破し得たが、猶大林家と最も緊密な關係にある大林組の經營問題が巨然として前途に橫つてゐたのである。當時大林組は全國的に業翼を張つてゐて、その陣容をどうして維持して行くかゞ差迫つた問題であつた。それには相當の資力が必要なのは無論のことだが、大林家の整理は大林組の資源にまで大影響を及ぼし、全く孤城落日の觀を呈するに至つた。所謂前門の虎を拒いで後門の狼を進めたやうなもの、この難局に直面した伊藤、白杉兩氏の辛酸苦惱は言語に絶するものがあつた。しかしながら至誠は天に通ずるもの、暗夜に燈を得たやうに、任俠天野利三郞氏の一諾によつてさしもの難局を突破することが出來たのである。

天野氏の救援

天野氏は大阪に於ける素封家で豫(かね)てから故人を支持された縁故もあるので、或る日白杉氏は天野氏を訪ふて、大林家の整理に關する經過を詳細に報告し、猶進んで大林組の前途に對する一臂(いっぴ)の助力を悃請したのである。その時の白杉氏は、日々の奔命に憊(つか)れて顏色彌に憔悴の状があつたが、眉宇(びう)の間には何糞ツといふ意氣の軒昂さが形はれ、しかも大林家整理の經過は徹頭徹尾至誠に始終した堂々たるものがあり、これに感激した天野氏は、即座に諾しと答へられ、當時市場に於ては殆ど無價値とさへ稱へられてゐた大軌の株券等に對し、百萬圓を融通されたのであつて、この時の喜びは一生涯を通じての最大なものであらうと白杉氏は今に猶そのことを述懷されてゐる。そして天野氏の任俠はさることながら、その慧眼にも敬服せざるを得ないのである。それはその後大軌の業績が日々に駸々(しんしん)として隆昌に嚮(むか)ひ、株價の如きも日と共に昇騰し、その援助が徒爾(とじ)に終らなかつた一事である。

當時大林組に對する一般の觀測は『故人の死によつて大林組は土崩瓦解するだらう』といふことに殆ど一致してゐた。社員中に於ても薄志弱行の徒は大林組の前途を悲觀して退社したほどで、この間にあつて、伊藤、白杉兩氏の苦心は、彼の金森又一郞氏が孤軍奮鬪四面楚歌の大軌を救つたにも似て、神人共に泣くの概があつた。その後幸に天野氏の勢援を得、社員中の堅全分子が兩巨頭を戴いて結束し、鞏固(きょうこ)な新陣容を形成して邁進したことが遂に大林組の健在を謳はしめ、延(ひい)て今日ある所以である。しかし當時に於ける土崩瓦壞の衆評に對しては、信用上晏如たることが出來なかつたので、大正五年二月、下の書信をば各官廳(かんちょう)、會社華客先へ向け發送したのである。

事業繼承の聲名

肅啓 嚴冬之候冱寒(ごかん)烈敷候處各位御機嫌麗はしく起居被遊候哉御伺申上候降而當組社長大林芳五郞死去致候に就ては世間何彼と噂有之候由に候へ共當大林組は依然として存續するは勿論今後益々發展を期し居り嗣子義雄其後を引繼ぎ從前通り從業致居候に付何卒倍舊(きゅう)の御愛顧を賜り度希望仕候殊に今後は更に時代に副ふべき設備萬端一層相整へ貴需に應じ候覺悟に有之又其内容等に就ても何等支障なく充實致居候條是亦御安心被成下度茲(ここ)に得貴意候

敬具

大正五年二月
大林組代表者
伊藤哲郞
白杉龜造
岡 胤信

更に同年四月に至り、大阪財界の巨頭片岡直輝氏等六氏の有力な後援を得ることゝなつたので、下の依賴状を同封發送したのであつた。

依賴状

謹啓 時下春暖之候愈御淸暢被爲渉奉敬賀候扨弊組土木建築請負業之儀ハ去ル明治二十五年來故大林芳五郞一個人ニテ經營致候處業務次第ニ盛大ニ赴キ候間更ニ其基礎ヲ永遠ニ確立セシメンカ爲同四十二年之ヲ合資會社ノ組織ニ改メ下名等ニ於テ業務一切ヲ繼承シ芳五郞ハ相談役トシテ注意奬勵ニ力メ居候處幸ニ事業ハ年ト共ニ隆盛ニ向ヒ候段全ク御高庇ノ賜ト難有感佩仕候然ルニ過般不幸ニシテ芳五郞長逝シ熱心ナル相談役ヲ失ヒ候ヘ共創業以來既ニ二十五年組織變更後八星霜ヲ閲シ候事トテ其經歴ト共ニ營業ノ基礎鞏固ヲ加ヘ如何ナル重要工事ノ御高囑ニモ應シ得候事ト竊(ひそか)ニ自信仕居候折柄更ニ有力者ノ後援ヲ得候ニ付今後一層奮勵業務ニ盡瘁シ以テ從來ノ御眷顧(けんこ)ニ奉酬度何卒鄙衷御諒察ノ上倍舊ノ御用被仰付度奉悃願候

敬具

大正五年四月
合資會社大林組
代表社員 伊藤哲郞
同 白杉龜造
技師長工學博士 岡 胤信

華客先に發送せる挨拶状
華客先に發送せる挨拶状

後援者の依賴状

拜啓 春色漸深候處愈御淸適之條欣賀之至に御座候陳者友人大林芳五郞氏之長逝に付合資會社大林組業務之状況竝に將來之所期に關し代表社員等より呈一書候通り同社之基礎逐年堅實を加へ如何なる重要工事をも御高囑に應じ得る事は小生等の確信する所に御座候而已ならず亡友之遺囑も有之將來小生共後援監督可仕候間一層之御庇護を賜り候樣特に御依賴申上候

敬具

大正五年四月
今西林三郞
片岡直輝
高倉藤平
谷口房藏
天野利三郞
志方勢七

華客先に後援者より發送せられたる依賴状
華客先に後援者より發送せられたる依賴状

六巨頭の保證的依賴状は果然各方面に尠からざる好印象を與へ、大林組崩壞等の風評を一掃し從前にも勝る同情を江湖(こうこ)に博したのであつた。

大林組の復活

まして大正四年歐洲大戰の勃發により、聯合軍側の各國から我が國に軍需品、食料、造船等尨大な新注文が殺到し、財界の好况は前代未聞と稱せられ、隋つて事業界の勃興は延て土木建築界の殷盛(いんせい)を招來するに至り、大正六、七、八の三ケ年に於て、その請負總額二千三百萬圓に達し大林組創立以來のレコードを示したのであつた。

しかして大正八年三月には、合資會社を資本金貳百萬圓の株式會社に變更し、社長には現社長の義雄氏、常務取締役には大林賢四郞、伊藤哲郞、白杉龜造の三氏が就任し、内容は倍倍充實したのである。殊に斬新有意義の試みとして、勞資協調を表徴する意味の下に、滿十年以上の勤續社員に對して株式贈與の新制度を設けた如きは、片岡翁その他の絶讃を博したのであつた。爾後社業の基礎愈固く、十年を出でずして資本金を五百萬圓に增資し、今日更に一千拾萬圓の大を成し、年々の新請負額は將に一億圓を突破しつゝあつて、曩(さき)に白杉氏が社員を代表して故人の靈に『協心戮力(りくりょく)、慈父ノ遺業ヲ振興シ、業務ノ盛隆向上ヲ遂ゲ、以テ尊靈ヲ慰メ奉ラントス』と誓つたことが、二十三年後の今日立派に實現されたのである。故人の一生を追ふて見ても、後繼者の進展を稽(かんが)へて見ても、正義と至誠と意氣とが烈々として動いてゐることを敎へられるのである。

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