大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

二十八 武德殿事務所の建直し 四十八歳

故人の最も任俠且つ豪快の意氣を語る一事は、明治四十三年八月に起工し同四十四年十一月に竣功した天王寺公園内武德殿の建築である。

池上四郞氏

同工事は時の大阪府警察部長で武德會々長であつた池上四郞氏が親しく故人を訪(とぶら)ひ『武德殿の建築は惠まれた財源がなく、警察官等の零細な寄附金よりなる僅か三萬圓ばかりの豫算だが、武道精神を尊重する人々の心からなる報謝であり、我が國武德の發揚を期しての赤誠であるから、豫算の多寡に拘はらず、相當な建築物の提供が望ましく、これが請負は他に適當の人が無いので貴君を煩はす次第である。この事情を諒解して無理にもお引受が願ひたい』と懇望されたのであつた。この熱誠な懇望に接した故人は『諾しい、やりませう』と、彼の日高大將の舞鶴水交社建築の委囑に應へたにも似て言下にこれを快諾し、直ちに工事に着手したのであつた。故人は關係社員一同に向つて、池上會長の懇望と、損益を離れて引受けた經過を物語り、萬事に注意して疎漏なく、池上會長との誓を全ふして貰ひたい旨を懇々訓諭した。

針小棒大の報告

爾後工程は順調に進み、附屬事務所の建築が武德殿より一歩前に竣成した。

しかるに現場員の僅かの不注意から、出來榮上二、三の缺點を發見するに至つた。これが針小棒大に池上會長に報告された模樣だが、池上會長は故人を信ずるの餘りさまで意に介されなかつた。偶或る席上に於て故人と遇つたのを幸ひに半信半疑のまゝこれを注意した。故人も亦部下を絶對に信任しつゝあつたので、その報告の虚構なる旨を固く主張した。愈檢閲となつて白杉、松本(禹象)兩氏が池上會長と共に精査すると、不幸その報告は當らずとも遠からざるものであつた。

男の意地

しかしそれは簡單なものであつたから、會長よりは大體の出來榮を賞され、二、三の箇所に對してのみ手直し方の命があつた。しかるに直後このことを聞いた故人は、池上會長に應へた男としての意地もあつたのだらう。烈火の如くに憤り、現場主任を罰してこれを更迭すると同時に、即時全部の建直しを命じた。そして直ちに池上會長を訪ふてその不明を謝し、再建に對する期限の延長を請ふた。池上會長は寧ろ故人の激越な眞摯さに驚いて、『再建の必要はないではないか。部分だけの改築でよいだらう』と切りに宥(なだ)めたのであつたが、故人は『彌縫(びほう)の處置を採つたとあつては、第一私の氣分が晴々致しません』といつて、その決意は牢乎として拔くことが出來なかつた。遂に期日延長の許可を得て根本的に設計を改むると共に再建に着手したのである。晝夜兼行ともいふ必死の健鬪は須臾(しゅゆ)にして落成を告ぐるに至つた。

見違へるタイル張

材料の良選はいふに及ばず、外觀内容共に間然する所なく、殊に外部の如きは總べてタイル張となし、見違へるほど立派なものと化した。(木造建築の外裝のタイル張は當時の建築界では全く新機軸であり、又利害を超越した試みであつた)これを見た池上會長は『自分は單に一部の改造を希望したに過ぎなかつたのに、かく全部の建直しは實に氣の毒であつた。これでは定めし莫大な損失を招いたことであらう。實に大林氏の然諾を重んずる意氣は古武士を見るやうで、唯々敬服と感謝の外はない』と激賞措く能はざるものがあつた。後、本殿建築も無事竣成したが、結局大林組は數萬圓の損失に終つたのである。しかし故人は尚若干金を寄附して武道將來の發展を祝福した。

當時の語り草

これが「武德殿取壞し」といつて一時市井に喧傳された故人の豪腹を謳ふ有名な語り草である。貪慾的見地からするならば、故人のかうした行動は如何にも奇矯に感ぜられるだらうが、有つて生れた故人の性癖がかくさせずには措かなかつたのである。

池上氏の温情

そこが故人の故人たるところで、多大の信用と愛護を江湖(こうこ)に承けて大をなした素因なのである。後、故人の襟度に感激した池上會長は、黄金作の太刀一振を贈られ、長く故人を愛する支持者となられたのである。又後年故人の病篤かつたとき、淸楚な眞栢の盆栽を贈られて病苦を慰められ、故人も亦往時を追想して池上氏の渝(かわ)らぬ温情を喜んだのであつた。

空前絶後

元大阪府建築課長 池田 實氏談

何時かの機會に故大林芳五郞氏の遺された豪壯痛快の意氣を物語りたいと思つてゐたが、今回圖らずも氏の傳記發刊の機に會し、多年秘めて置いたその思出を述べ、以て衷心から大林氏を追悼したいと思ひます。

大阪の名市長として謳(うた)はれた池上四郞氏が、大阪府の警察部長時代であつたから、今より約三十年も前のことゝ記憶するが、大林氏は、その時新に落成したばかりの大阪武德殿附屬事務所の出來榮が惡いとて敢然これを取毀つて再建したのであつたが、その意氣の實に旺んなること、痛快を通り越して寧ろ悲愴凄絶たるものがあり、想ひ起すごとに大林氏の面目が躍如として私の胸中を往來するのであります。大林氏が武德殿工事を請負はれた時の經緯は、後で聞いたのであつたが、池上氏も大林氏も共に太つ腹の人であつたので、圖面もプランも何もなく、たゞ大さを示す程度の全く鉛筆書位のものを以て、『いくらでやつて貰ひたい』、『よろしい引受けました』といふやうに、一方は意氣で依賴し、一方も亦意氣で引受けたものらしい。だから施工中にも施主側から監督も出さず、殆ど大林氏に任せきりであつたのだが、池上さんが何處からか事務所建築の出來榮不良なことを聞き込まれ、私に『あの通りの大林君だから大丈夫ですと言つてゐても、自分で監督をした樣子もないやうに見受けるから、君、御苦勞だが一度行つて檢分して貰ひたい』といふことなので、即刻行つて見たところ、公平の立場で見てもその出來榮は甚だ良くなかつた。そこで私は正直にこれを池上氏に復命した。その後池上氏が大林氏の幹部と共に檢分した結果は私の復命と一致した。ところが數日後その事務所が全部取毀たれたといふことを耳にして私は驚愕した。數箇所の改造さへ行へば立派なものになるのに、何故取毀たれたのか私としては實に意外に感じたのであつた。多くの請負者は、かゝる場合なるべく損害を輕微ならしめんと欲するの餘り、種々な理屈を捏ね廻して彌縫策を講ずるのを常とするのに、大林氏は一部分の改造でよいものを再び建て直すといふのだから私の知つてゐる範圍では實に空前絶後といつてよい遣り方なのである。しかし後大林氏の衷心を聞くに及んで、何と立派な行動で、その責任感の強烈なことゝ、損益を超越した武士的意氣の旺んなことには驚かざるを得なかつた。同時に現場員を捉へて出來榮を難詰した私はなんとなく恥かしくも感じた。

建て直しは四ケ月程で完成した。依囑によつて私は再びこれを檢分に行つた。しかるに又驚くべしだ。前設計とはプランもエレベーシヨンも構造も全部違つてゐて、しかも今度の設計及施工は一點非の打ちどころのない優秀なもので、全く見違へるほど立派なものであつた。それもその筈で、當時大林組に職を奉じてゐた東大出身の新進木子七郞氏の設計に成つたものださうで、建築費なども以前に比して相當嵩んだことが推測し得られるのであつたが、大林氏は夥多(かた)の損失など意にも介せず、『やつと男になれた』といつて喜ばれたさうで、請負界のみならず何れの方面に於ても、今後かうした立派な偉人の輩出は、或は絶後であるまいかとの感がして、故人を想ひ起す度に追憶綿々たるものがあります。

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