大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

二十三 阪堺電氣軌道會社の創立 四十六歳

初期の郊外電車

明治三十年代に於ける大阪を中心とする郊外電車は、獨り大阪と南紀州を繫ぐ南海鐵道のみであつたから、沿線の住吉、堺大濱、濱寺等は大阪市民の目ざす郊外遊山の唯一の歡樂境であつて、日曜、祭日などは大阪市民の夥(おびただ)しい人數がこの一本の線に殺到し、各停留所とも乘客山をなしてその混雜は名状すべからざるものがあつた。

この状態は日露戰後益激甚を加ふるに至つたので、世上幾多の企業家がこれを緩和すべく大阪堺間、又は大阪岸和田間、或は大阪濱寺間といふやうに、電鐵敷設の出願六派を數ふるに至つた。政府に於てもこの方面に於ける輸送の現状に鑑み、運輸機關增設の必要を認め、これが實現上競願者の妥協を勸告したのであつた。

阪堺電軌の誕生

出願者の一人たる故人は、片岡直輝翁、奧繁三郞氏等の間を奔走し、明治四十二年十二月、大阪市南區惠美須町より濱寺に至る軌道敷設の許可を得、阪堺電氣軌道會社の創立を見るに至つたのである。

阪堺電車惠美須町驛
阪堺電車惠美須町驛
阪堺電車堺發電所
阪堺電車堺發電所
堺大濱棧橋
堺大濱棧橋

公明の心事

故人は創立の中心人物として活躍し、工事の設計竝に土地買收等の衝に當つた關係から推して、他重役の多くは無論大林組に於て工事を請負ふものと思惟してゐたが、豈圖(あにはか)らんや、この工事の大部分を堂島の池田組に請負はしたのであつて、故人は大林組の幹部に『今後共、大林自身が重役として關係ある會社の請負は、絶對にこれを辭退すべきである』と宣示し、その後自ら重役たる京津電車も、故人が社長であつた廣島電軌も、總べて他の請負業者に工事を委ねたのである。

本線は大大阪の中樞を南北に縱貫した堺筋の南端、惠美須町を起點として東天下茶屋を經て住吉神社前を南に走り堺市の中央を縱斷して濱寺公園を終點としたものであつて、前後の連絡より考へるならぱ確に地の利を得た線といはざるを得ない。即ち明治四十四年十二月、惠美須町より堺市大小路までの線路開通後、大正元年十一月末に至つて濱寺終點まで開通を見、更に大正三年今池平野間の側線も新設したのである。片岡直輝翁を社長とし、永田仁助、野元驍、奧繁三郞の三氏及故人が取締役に、岩下淸周、松方幸次郞、渡邊千代三郞の三氏が監査役に就任し、開業直後まで支配人足立通衛氏が主として經營の局に當つた。會社創立當時の株數は六萬株で、その内三萬五千株は故人の持株であつて、自然絶對の權威を把持してゐたのであつたが、創立後は一切の節度を片岡社長に委ねて自らは何等容喙(ようかい)するところがなかつた。たゞ自己が中心となつて設立した責任上、成績の良否に對しては晏如たる能はず、相當の期間、自社の社員を特派して實際の乘降員數を調査せしめ、又は車内に於て窃かに一般乘客の批判を聽取し、改むべきは直ちにこれを改むるなど多大の苦心を拂つたものである。

南海との合併

殊に南海線との競爭で血を吐くやうな辛苦を重ねたのであつたが、業務は次第に好調を呈し、平野線の增設と共に六拾萬圓の增資を行ふなど、前途洋々として望みを囑するものがあつたが、南海との競爭を防止せんとする谷口房藏氏等の斡旋を容れ、大正四年三月、遂に南海との合併を見るに至つたのである。合併後の阪堺線は益その内容が完備され、南大阪の重要なる交通機關となつたが、これは素より故人の希(こ)ふところで、兎に角故人は阪堺電車の創立と南海との合併に際し、事業家として遺憾なき才腕を發揮したのであつた。

尚南海との合併當時に於ける故人の堂々たる行動は、下の大塚、谷口、渡邊三氏の談話によつて明瞭である。

南海、阪堺合併時の經緯

元南海鐵道株式會社社長 大塚惟明氏談

阪堺電氣軌道會社は、大林氏に故奧繁三郞氏一派の人達も加はつて組織されたのであつたが、これ等一派の中には、京阪電氣鐵道創立の際に於ける態度と同じく、自身が飽迄眞面目に事業を經營しようといふ考はなく、その大部分の持株を賣出して利得を摑まうといふ所謂政商的の遣り方の者があつた。即ち阪堺の株數六萬株の中三萬株は直ちに市場に賣出されたのである。そこで大林氏は『よし俺が引受ける』と拾貳圓五拾錢拂込の株に對し、一株拾圓のプレミヤム附で一手に買込んだのであつた。即ち彼等一派は參拾萬圓の利得を摑んで會社を去り、故人は株主の肅淸が出來たので自らその中心となり、故片岡直輝翁を社長に擁立し、南海鐵道を向ふに廻して火の出るやうな競爭を演じたのである。

その時予は田中市兵衛氏物故の後を享(う)けて南海鐵道會社々長の椅子にあつたが、かくなる以上南海としても會社の自衛上對抗せざるを得ない。阪堺に政黨の背景と、財界の大御所片岡翁があれば、南海には年來の鞏固(きょうこ)な地盤があるといふわけで、兩々相對峙して讓らず、その勝敗は俄に逆睹し難いものがあつた。鐵道にしろ、電鐵にしろ、交通事業の多くは當初の十年間が隱忍時代即ち創始期であり、隨(したが)つてその業績も芳ばしからぬのが通例で、この期間を經過すれば鞏固有利に赴くこと他の事業の比ではないのである。阪堺電車も勿論その例に洩れず、創業當初から南海と力一杯戰つたものだから、相當苦しかつたことは想像に難くなく、同時に南海としても相當大なる痛手を蒙(こうむ)つたことは勿論である。

そこで故人を中心として阪堺側に兩社の合併が策せられるやうになつたのである。予は南海の社長といふ立場にあり、大林氏は阪堺の中心人物であり、最初は自社を有利ならしめやうとする所謂肚の探り合とのみ思つて居つたが、いざ折衝となると、大林氏は常に大所に着眼して必ずしも目前の利害に拘泥せず、聞きしに勝る大きな人物たるを知つて感服したのであつた。

この合併は大林氏の意氣と、片岡翁の人格聲望と、岩下、谷口兩氏の斡旋とによつて遂に圓滿な解決を見たのであるが、主として阪堺側の策戰に參與して水も洩らさぬ大林氏の折衝振は實業家としての力量を充分に認識せしめたのである。而して一面極めて豪膽であると同時に、他の一面に想像以上の緻密な策戰を有してゐた大林氏の兩面性は、まことに得難い天品であつたと思ふ。天もし大林氏に更に十年の壽(しゅう)をかしたならば、必ず實業方面に特異の地位を占め、岩下翁の晩年をしてあのやうな寂寞を感ぜしめなかつたことゝ思ふのである。

南海と阪堺の合併

元合同紡績會社社長 谷口房藏氏

南海、阪堺兩線は殆ど並行線であつて、將來事ごとに利害相衝突するのは甚だ面白くない、この兩者は宜しく合併すべきである、との見解の下に、南海の大塚氏に向つて合同談を持出す者があり、予も賛成者の一人として直接その衝に當つたが、南海側では株式の思惑もあり、多少の經緯があつたが、遂に萬事調停方を予に依賴して來たので、予は先づこの合併に最も反對した寺田甚與茂氏を説きつけ、愈合併の實現を見たのであつた。當時大林君は三萬株以上の大株主であつたが、進んで合併の共同作戰に參加し、合併後は片岡直輝翁を押し立てゝ大南海の社長とした。南海の社長たりし大塚氏は豫(かね)てから片岡翁の人格を尊敬してゐる一人であつた爲、翁を社長に戴いて自分はその下に張良、韓信二人前の働きをしやうと誓ひ、專務として盡瘁(じんすい)されたのである。

故人が自家經營の事業に關し、利害の爲に毫もその心を動かさなかつた一例として、元南海鐵道株式會社々長渡邊千代三郞氏が「片岡直輝翁記念誌」中に下の如く述懷されたのを掲記する。

元大阪瓦斯會社社長 渡邊千代三郞氏

阪堺電軌會社開業後は、豫期されし如く、南海鐵道會社との間に激甚なる競爭を見ましたが、かゝる競爭が、双方に創痍を與へず、平和の間に社運を昂上せしめ難いことは自然の趨勢でありますから、その間に兩會社の株主に漸く不平の聲が起りましたが、この際阪堺側は重役連が過半數の株を有して居りましたから左程憂慮を致しませんでした。こゝに於て南海側一派の株主は、竊(ひそか)に大林芳五郞氏に向ひ、その所有株中二萬數千株を市價以上にて買受けの申込をしたとのことでしたが、元來義俠心に厚き大林氏のことゝて故人(片岡翁)及予等にその事實を語り、大林は不敏ながら同志を賣りて獨り自ら利せんとする背德の行爲は敢て致しません、相當の條件を以て南海鐵道へ合併するの談ならんには賛成すべければこの儀を御了承ありたし、と談ぜられしことあり。かゝる有樣にて兩會社合併の機運は暗々裡に發芽の兆を見つゝありましたところ、大正三年末より大正四年に跨り、兩社重役連の友人たる谷口房藏君は、この競爭を永續せしむることは大阪財界に害ありて益なしと認められ、兩社に合併を勸告して、合併方法等の協定方に盡力さるゝに至りました。谷口君は故人(片岡翁)の性格を熟知し居られましたから、かくの如き談判を迅速に進捗せしむる爲には、南海側に於て寺田、大塚兩氏を首(はじ)め泉南紀州等に於ける大株主の諒解を得、阪堺側に於ては永田仁助君と予とに審議を試みられ、大略の目途を得、しかる後公然故人(片岡翁)と交渉するの方法を採られました。かく谷口君の厚き親切心と愼重なる態度に動かされ、故人(片岡翁)を始め大林氏等もこゝに氏の提案を是認さるゝに至りまして、兩社は首尾よく對等合併を爲し、故人(片岡翁)及永田仁助君並に予の三名はこの時より南海鐵道會社の取締役となりまして、故人(片岡翁)は新に社長に就任、大塚惟明君は專務取締役となられました。大塚君はその前南海鐵道會社の社長たりしに、進んでこの擧に出でられしは美擧(びきょ)として世間の稱揚(しょうよう)を受けられた。

OBAYASHI CHRONICLE 1892─2014 / Copyright©. OBAYASHI CORPORATION. All rights reserved.
  
Page Top