大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

二 忙中の閑 二十六歳

明治二十年頃は工業大阪建設中のことゝて、各種の事業熱は頗(すこぶ)る熾烈を極め、有利な事業とさへ見れば直ちにこれに投資して莫大の利潤に有りつかんものと世人の總べてが血眼になつてゐた時である。

石綿鑛

就中(なかんずく)當時石綿で煉瓦を製造する事業は最も的確有利なりとて、石綿の産地は無上の寳庫の如く喧傳せられ、水澤新太郞氏も兎角請負業の捗々(はかばか)しくないのに業を煮やし、何かな一儲けせんものとの野心に燃えてゐた折柄、或る日故人に向つて熱心に石綿業の有利なるを説き、且つ紀州地方に石綿の大産地あるを告げてこれが共同經營を勸めた。故人も多少の獵奇心に煽られてその擧に讃し、水澤氏及金主たる氏の外戚某氏と故人を加へて一行三名、愈石綿探見の爲和歌山に赴いて或る旅館に投宿した。時は明治二十二年の秋で、故人二十六歳の時である。

今から考へると實に稚氣滿々たるもので、産地が何處やら雲を摑むやうな探見に出掛けたのである。偶旅舍の主人より紀ノ川上流三里の箇所に豐富な石綿鑛あるを聞き、勇躍して斗折蛇行紀ノ川の堤を遡つて産地に着いた。しかるに四邊は掘り盡されて淋しげな廢鑛の窪地が殘されてあるばかり、一行は頗る失望落膽した。一人の老俥夫が初めて一行の來意を知つて述懷を漏らし、『實は私も石綿では手を燒いた一人です。石綿が非常に儲かるといふので率先してこれに首を突つ込み、出ることは澤山出たが肝腎の用途が判らず、結局石綿から煉瓦も出來ず、折角掘つた石綿を海中に投げ棄てるといふ破目になつて、多少あつた財産も使ひ果してみすぼらしいこの姿になり果てたのです。惡いことは申さない、その考へはすつぱりとおやめになるがよろしい』といふことであつた。三人はこれを聞き、相顧みてしばし呆然自失の態であつた。

安質母尼(アンチモニ)

その後該俥夫は十津川の村長を伴い、水澤氏を訪ふて安質母尼鑛の採鑛方を申出でた。軈て村長の案内で探査した結果有望と決し、水澤氏は家を擧げて十津川に移り、昨日の土木建築業者は今日の鑛山業者となつてしまつた。しかし故人は本業を棄てゝまで他に走ることは素より望むところでなく、自然水澤氏と袂を分つことゝなつたが、水澤氏と故人とは相當緊密な間柄であり、故人が關西鐵道工事に於て水澤氏を輔けた折の如き、四圍(しい)が故人を『水澤の德さん』と呼んだほどの關係であつたので、故人は請負業に關する水澤氏の總べてを繼承したのであつた。水澤氏はもと東京本郷丸山の出身であつた爲、營業のマークを“(丸山)(丸山)”としたものであつて、大林家の定紋がこれに酷似せる丸に土佐柏であつたからそのまゝ承け繼いで今日に至つたのである。

水澤氏の死

その後水澤氏經營の安質母尼製品は、安價で美麗な爲一般需要者の好感を唆(そそ)り、十津川の安質母尼として一時はその勢價を高めたが、後年アルミニウムの出現によつてその需要を奪はれ、憐れ十津川工場は閉鎖されて跡方もなくなつてしまつた。事業に失敗した水澤氏は、後東京に出て薪炭商を營んだが思はしからず、復び大阪に來つて旗揚げの準備中明治四十年七月死去された。故人は舊誼(きゅうぎ)を忘れず、資を贈つてその窮状を救つたこと一再でなく、嗣子彦三氏を社員に採用するなどその遺族をも恤(じゅつ)した。(彦三氏は不幸明治四十二年九月消火器爆發の災に遇つて不慮の死を遂げられた)

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