背板の代りに挽材木(ひきざいもく)
私が初めて故人を識つたのは明治三十一年のことである。當時私は大阪市築港事務所に在職し、今の木津川飛行場の在る所で南北兩防波堤(當時はこれ等を突堤と稱してゐた)に使用すべき混凝土塊の製造に從事してゐた。私は三十年七月帝大を出て、九月二日築港事務所に勤務の身となつたもので、當時學士としては私と同期生の丸田覺君と唯二人であつた。工事長沖野忠雄氏も技師植木平之允氏も何れも同年十月の任命で、私たちよりは一ケ月後のことである。もし夫れ當時の中堅部員たる岡胤信、小林泰藏、田川正二郞、森垣龜一郞等の諸氏に至つては、悉(ことごと)くこれ三十一年の就職であつたので、私は實に築港の草分の一人であつたといへるのである。
實際當時築港事業の設備に屬する建築(全部假設物ではあるが)は、故人の手に成らぬものはないといつてよい位で、殊に私の工場に於ける建物は勿論、工事用材料の大部分は大林組の手で出來もし、納入もせられたものである。前にも述べた如く當時私は一介の靑書生に過ぎず、從つて思慮も極めて單純で、『所謂請負人なる者は決して油斷すべからざる徒輩である。常に監督員の眼を掠(かす)むるにこれ努め、工事なり材料なりを誤魔化すことを以て常習とするものである』と考へてゐたが、これは請負業者諸彦に對して甚だ以て侮辱極まる謬見(びゅうけん)とはいへ、當時一般にしかく信ぜられてゐたことは事實である。私は在學中上級生などから請負人の所業に關して種々の事實を聽かされたものである。一例を擧ぐれば基礎杭打込の手間を偸(ぬす)む爲杭頭を割り裂くこと、これは「さいら」持が少しく手加减を加へれば分銅の落下と相俟つて容易に出來る藝當で、かくしてこの裂けた部分を切去る、それで杭が短くなる、それだけ打手間が省ける。甚しきに至つては監督員の不在を窺ひ、竊(ひそ)かに僅か數尺の杭を地中に埋め、さも規定の打込を終つたかの如く見せかけるのもある。これは單に一例に過ぎないが以て一般を窺ふべきである。就中(なかんずく)鐵道工事の請負になると一層巧妙な惡手段が行はれ勝である等々……と。このやうに吹込まれた頭腦の持主であつた私は、今や自から一工場の主任となつて請負人に應對することゝなつた。その請負人の一人として故人が貧乏籖を引いたのであつた。 混凝土塊の製造といへば、防波堤用の一材料に過ぎないのだから、その工場の設備といつても大したものではあるまいと考へられるかも知れないが、重重八噸の塊五萬四千餘個を五ケ年がゝりで製造するのであつて、總工費二百萬圓を要したのであるから、その當時としては大規模のものと稱されてゐた。
この中故人の手によつて仕上げられ或は供給された建物及材料は相當の額に上つたのである。隨(したが)つて監督員として終始故人と折衝の立場にあつた私は、事々物々寸毫も假借せぬといふ意氣込みを以てこれに臨んだものであるから、隨分困惑もされたことゝ思はれるが、故人には少しも反抗がましい態度がなく、何時も温顏以て私の言ふがまゝに應諾せられた。嘗て背板の納入に當つて仕樣書通の寸法のものが期限までに納まり兼ねるといふところから、故人は終に挽材物を以てこれに代へ完納されたことさへあつた。これには遉(さす)がの私も氣の毒な思ひをした。
爾後幾星霜、私は或は朝鮮に或は内務省に轉々(てんてん)して遂に故人に接するの機會が無かつたが再び大阪に轉じて來た時は、大林組の事業は年月と共に榮え、屹然(きつぜん)として全國的請負業者の大を成して居つた。而して社員の中には曩(さき)に築港事務所に在つて私の先輩として仰いで居た岡博士が居られ、その他多數の同僚が包容されてゐた。岡博士は別として、これ等同僚は寧ろ故人の恩惠的任用に浴してゐるのではないかとさへ思はれた。こゝに於て私は初めて故人が如何に任俠大度の士であるかといふことに想到し、曩日(のうじつ)嚴格主義を以て自から任じた工場主任は、故人の眼には畢章一石心子に映じたに過ぎなかつたであらうと、今更慚愧に堪へぬ思ひがした。大正十三年十月大阪府廳に於て西成大橋(今の淀川大橋)架換工事の入札が行はれた。私はその當時府土木課長としてこれに干與(かんよ)したが、何分にも四百間といふ大橋梁であり、工事も橋臺(きょうだい)、橋脚だけで六十二萬圓といふのだから、假令(たとい)私の請負業者に對する觀念が昔日とは餘程變つてゐるとはいふものゝ、尚多少の不安を感ぜずにはゐられなかつた。しかるにそれが大林組に落札決定と聞いた時、私はヤツト安心し、且つある滿足さへ感じた。これは私が故人に對して抱いてゐた氣持のしからしめたところであつたことをこゝに告白する。