大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

十七 大林組の新陣容 四十二歳

業務の殷賑(いんしん)

戰後に於ける軍備擴張と起業界の急進的躍動とは、大林組をして應接に遑(いとま)なきほど業務の殷賑を來さしめた。これに善處せんとせば、それ相應の陣容を張らねばならないのだが、それまでの大林組は、たゞ無意識に單純の道を辿つて自然に伸びて來たのであるから、制度、組織、設備等の總べてが荒削りたるを免れなかつた。今後倍々その大を爲さんと欲するならば、更に徹底せる内容の整備が必要となつて來たのである。先づ第一に店舖の邊在と規模の小は商畧(しょうりゃく)上の機微を失し且つ活動能力を阻害すること夥(おびただ)しかつたので、明治三十八年六月、本店を北濱二丁目浪速橋南詰に移轉した。

新店舖の威容

同所は四通八達、株式取引所を東にした商業地域の中樞で、所謂地の利を占めた好適の場所であり、しかもお江戸日本橋通樣の黑漆喰塗の大商賈的建物は、威容を誇るに足るのみならず、内部機關の充實上頗(すこぶ)る相應はしい建物であつた。事實故人の大はこの建物を繞(まと)つて展開されて行つたのである。

北濱二丁目に在りし
舊本店
北濱二丁目に在りし
舊本店

機構の組織化

次に在來擔任部門の明確でない共同的の集團を、庶務、會計、監査、營業、工務、設計等各種專門的部門に分ち、その他凡(あら)ゆる制度の改善を圖る等内部機構の組織化を實施したことは大林組發展の一要素をなしたものである。

製材所の新設

又別に一大製材工場を九條境川の地に新設したのもこの時で、それは時勢に適した最良策たるを失はなかつた。生産費の短縮は利潤の加剩を來すもの、故人夙(つと)に見るところあり、多くは常に原木を貯へて自家製材を行ひ、以て中間利益の放散を防いだのみならず、思ひのままの理想的材料を得、且つ工事の速進を促して工期の短縮を併せ期することが出來たのであるが、更に各請負工事場に分散せる不完全な製材組織は餘りに繁雜且つ空費の嵩む弊があつたので、こゝに集結統一されたしかも斬新な機械を應用せる一大工場を新設するに至つたのであつて、所謂産業の合理化は當時既に故人の方寸によつて實際的に行はれてゐたのである。

境川に在りし舊製材工場
境川に在りし舊製材工場

人の和

かくして當時としては間然するところなき制度、組織等の完璧を期したのであつたが、同時に故人は「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」又は「天地に順(まつろ)ふも未だ必ずしも吉ならず、これに逆ふも未だ必ずしも凶ならず、もし人事を失へば三軍敗亡す」で大業を成すの基礎は結局「人」であることを悟つてゐた。沛公が天下に覇を稱へたのも、張良肅何、韓信を得たからである。秀吉の戰に捷(か)つたのは、惟幕に竹中や細川の智將あり、戰線に加藤、福島の如き猛將があつたからだ。又景勝の直江山城、三成の島左近に於ける如く、諸大名が高祿を以て爭つて勇者を聘したのも、勝敗の分岐は結局人にあるを悟つたからである。故人に於ても亦然りで、人を得る爲には吐哺握髮(とほあくはつ)の觀があり、幾多有能の人士を優聘したからこそ大を成すに至つたのである。

創業時の四天王

先づ創業當時に於ては、土木方面の擔任者としては下里熊次郞氏、建築方面では菱谷宗太郞氏及小原伊三郞氏、事務方面では福本源太郞氏が故人の傘下に集つた。この四氏は當時大林の四天王と稱せられたのである。殊に下里氏の如きは、曩(さき)に故人の東都修業時代に砂崎氏門下の美馬氏に故人を紹介した縁故があり、既に業界の一角にその名を知られ、いはゞ故人をして今日あらしめた先導者であつたが、一度び故人の旗揚げを見るに及び、喜んでその傘下に馳せ、しかも後進者たる若き靑年を擁して軍を進めたその襟度の大は、常人として眞似の出來ない奧床しさがある。福本氏は麴屋呉服店時代に於ける唯一の幕下で相互氣も心も知合つた仲、又菱谷宗太郞及小原伊三郞の兩氏は共に建築にかけては手腕竝ぶ者なき練達の士であつた。しかしこの四天王時代は世の進軍につれ數年を出でずして昔の夢と化してしまつた。

新人の招聘

工法は日々に新に、工築物は次第に大規模且つ高級になつて行き、この進軍に順應する爲には新進有爲の人材が必要となつて來たので、特に明治三十七、八年より大正二、三年頃に至る十年間に逸材は加速度的に集つたのである。試に明治二十六年以來の主な社員を年次的に擧げると下の通りである。(○印は最後まで勤續の人、但し在職中の死亡者及び停年退職者を含む)

明治二十六年入社
○伊藤哲郞氏(後常務取締役)
明治二十八年入社
○三村久吾氏(當時支配人)
明治二十九年入社
○小原孝平氏(現監査役)長田桃藏氏(當時副支配人)
明治三十一年入社
○白杉龜造氏(現專務取締役)
明治三十五年入社
○宇高有耳氏(現取締役、東京支店營業部長)○中島茂義氏(後監査役、現囑託員)
明治三十七年入社
○加藤芳太郞氏(後監査役、現囑託員)○伊藤牧太郞氏(後名古屋支店長)○大西源次郞氏(現機械部次長)○伊藤順太郞氏(後工務監督)
明治三十八年入社
○指田孝太郞氏(後工作所長)○井田德太郞氏(當時新義州支店長)○有馬義敬氏(當時土木部長)○小松正矩氏(當時廣島支店長)池田源十郞氏(當時支配人)○内山鷹二氏(當時理事長)船越欽哉氏(當時技師長)○植村克己氏(現常務取締役)
明治三十九年入社
○松本禹象氏(後常務取締役、現囑託員)伊集院兼良氏(當時新義州支店長)多田榮吉氏(當時新義州支店長代理)
明治四十年入社
○安井豐氏(後監査役、現囑託員)
明治四十一年入社
○服部保太郞氏(當時會計部長)○富田義敬氏(後内外木材常務取締役、現囑託員)○三宅勘太郞氏(後工作所長)
明治四十二年より大正三年に至る六ケ年間の入社
○岡胤信氏(當時取締役、技師長、現顧問)木子七郞氏(當時設計掛)○大林賢四郞氏(後副社長)○小倉保治氏(後支配人)○鈴木甫氏(現常務取締役、東京支店長)○高橋誠一氏(現取締役、奉天支店長)○本田登氏(現取締役、東京支店現業部長)○吉井長七氏(後本店營業部長)○石田信夫氏(現取締役、本店營業部長)○妹尾一夫氏(現取締役、北京支店長)○谷口廉兒氏(後工務監督)○木村得三郞氏(現理事、東京支店設計部長)○中根龜一氏(後理事、工務監督)○野田文敏氏(當時囑託、會計部長)○船本晋氏(現工務監督)長江了一氏(當時土木掛)○杠貞雄氏(現工務監督)○海老政一氏(後工務監督)○日比安平氏(現福岡支店長)○角谷甚太郞氏(現營業部事務主任)○高田利一郞氏(現營業部積算掛主任)

上の中工學士船越欽哉氏が入社した時は、當時の建築界に非常な衝動を與へたものである。氏は海軍技師で呉鎭守府建築課長の榮職を抛(なげう)つて大林組に來たのであるから當時としては全く異數な驚異的現象として人が眺めたのも無理はない。これを以てするも當時の請負業そのものが如何に幼稚であり、且つ業者が如何に低級の扱ひを受けてゐたかゞ察せられる。しかるに新時代は優秀請負業者の出現を要望して已まない。故人素より鈍物ではない。

岡博士の入社

時代の潮流に棹して自ら優秀請負業者を以て任ずべく、船越氏の如き名士の招聘に先鞭をつけたばかりでなく、更にその後數年を出でずして工學博士岡胤信氏を招聘したのであつて、博士級の請負界入りは我が邦に於ての嚆矢(こうし)であり、故人が業務に如何に熱心であり、その卓見と進取的氣宇の如何に橫溢してゐたかゞ窺はれ、同時に既往を顧みて今昔の感を深うするものである。

嘗て片岡安博士から故人と岡博士とのことに就て下のやうなお話を伺つたことがある。

故人と岡博士

工學博士 片岡 安氏

僕が大學を出て大阪にやつて來た當時、大阪には工科の大學出身者で組織された工師會といふ會が設けられてあつて、毎月一回位相會して相互の親睦を圖つてゐた。岡胤信博士などは無論會中の長老組で、殊に正直で頑固な同博士の性格は若い僕等の間に尊敬の的となつてゐた。或る時談偶大林芳五郞氏のことに及んだ。その時岡博士は『大林といふ男は世間一般の請負人とはその選を異にしてゐるよ。實に堂々たる實業家で何處か古武士の俤(おもかげ)がある』と口を極めて賞揚された。あの氣骨稜々(りょうりょう)たる同博士の賞揚だから、僕は無條件にまだ見ぬ大林氏に對し朧げながら多少の憧れを有つやうになつた。その後數ケ年を過ぎ、曾て監督の地位にあつた同博士が大林組に入つたことを聞き、地位や面目に拘泥せず何處までも技術に活きようとする同博士の襟度に對して滿腔の敬意を拂はずにはゐられなかつた。同時にかくの如き學界の大人材を自己の傘下に收めた大林氏の偉さをもはつきりと認識するに至つた。

かくして故人は忠良無比といつてよい伊藤、白杉の兩股肱(ここう)の外に幾多の人材を得て遂に今日の大をなす基礎を築き上げたのである。

白杉氏の故人評

白杉氏が故人を評し『自己の肺腑を取つて人の腹中に置く人』と言はれたが、伊藤、白杉兩氏の如きは、その偉大な故人の肺腑を自己のものとするだけの矢張り偉大な腹を有つてゐたればこそ故人の股肱たるを得たのであつて、故人の全貌を描かうとするならば更にこの兩雄の人物を描き出す必要が起つて來る。仍(よっ)て後段これを詳記することゝした。

而して又前記諸員の内、中途の退職者は僅かに數氏に過ぎず、他の殆どは二十年、三十年の勤續者のみで、就中(なかんずく)白杉氏及東京方面の探題たる植村氏の如きは、今に壯者を凌ぐ矍鑠(かくしゃく)さで活躍を續けられてゐる。惟ふに大林組の社員は、精神的結合の一大集團といつてよく、故人を中心によくもこのやうに人の和がとれたものだと感歎させられるのである。

OBAYASHI CHRONICLE 1892─2014 / Copyright©. OBAYASHI CORPORATION. All rights reserved.
  
Page Top