大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

三十六 難波橋工事 五十歳

大林組は大正二年十一月、大阪市の命を受けて大阪名所の一に數へられる最新式の名橋難波橋を架設した。

中之島公園

土佐堀川と堂島川が兩側に分流する中間が中之島公園で、さなから大船の浮べる觀がする。當時此處より東方を望むと、虹のやうな大アーチの天神、天滿の兩橋が橫はり、遙に豐公の覇業を誇る大阪城の石壘が聳(そび)え、又水を隔てゝ南北には萬戸の商舖が櫛比(しっぴ)して水の大阪情緖が味はゝれ、東西に長く連る園内には花樹麗草が適當に配植され、浩然の氣を養ふに足る大阪景勝の一つである。

橋はこの中之島公園を南北に跨つて架設せられ、經間七十二呎の鐵構拱五連と、二十四尺の鐵筋コンクリート拱五連から成り、延長四百八十呎、幅員六十呎、橋脚は七十二封度の軌條を鐵筋として内部コンクリート打、外部は花崗石を以て疊甃(じょうしゅう)し、又橋面はコンクリート及アスフアルト裝であつて、橋側その他の外觀は總べて美術的に構成されたものであるから、橋上を行く感じは普通の道路を歩むが如く橋上たるを覺えざるほどであり、舟を泛(うか)べて橋姿を望めば更に一入の雄大さに魅せられる。

橋標の獅子

橋名は磯野秋渚翁の揮毫に係り、橋標親柱の石體の獅子は、建築界の權威たる宗兵藏氏の創案に成り、模型は東京美術學校敎授高村光雲氏監督の下に同校出身の天岡均一氏これを作成し、更に熊取谷澱南氏が彫つたもので、老獅子の雄姿は居然として大大阪を睥睨する威容を示してゐる。

鐵矢板

かくして橋は立派に竣成したが、その工程中困難を極めた一話題が殘つてゐる。

それは當時水替作業には箱枠の沈下をなして所定の基礎を構築するのが安全且つ有効であつたが、施工部分が非常に狹かつたので、當時の内務省土木出張所の三池監督技師と技師長岡博士の兩土木權威者が協議して鐵矢板を使用すべく態々(わざわざ)米國よりこれを輸入したのであつて、恐らく大阪に於て締切用に鐵矢板を使用したのはこれが嚆矢(こうし)であらう。しかるに鐵矢板そのものが今日のやうに精巧でなかつた爲、實際に使用して見ると缺點だらけといふ有樣、當面の衡に當つてゐた安井豊氏は終日終夜泥の中に立たせられたことがあり、遂に安井氏の補足的考案によつて僅かに作業を完ふし得たのであつたが、今日よりこれを回想すると稚氣滿々たるものであつて、今昔の感をなすものである。兎に角故人は、斬新な工事機械とか材料等の必要を感じたときは快く部下の進言を容れ、かうした方面に資を吝(おし)まなかつたことはこの一例でも判り、かくして大林組は技術に伸びて行つたのである。

竣工當時の難波橋
竣工當時の難波橋

慶長大判

これは餘談だが、工事中の或る日、川底の土壤中より金色燦爛たる慶長大判(竪五寸、橫三寸一分、厚約五厘、重量四十五匁)を發掘した。そこで工事の前途に幸先よい光明を投げるものなりとしてその縁起を祝つた。無論制規の手續を履んで發見工夫の所有に歸したものを、更に大林組に於てこれを時價に買ひ取つて今も猶保存してある。

故人は曩(さき)に阪堺電鐵を創設し、起點を堺筋の南端惠美須町に採り、今は更に堺筋の北門たる難波橋を工築し、堺筋の一線を南北に繫いだその兩端の工事を遂行した奇縁を考へ、ましてや大阪を誇る淸新な大橋梁を新工法によつて築き上げたことを思ひ、故人の喜びは何物にも譬(たと)へ得なかつたのである。しかるに北陽演舞場と共にこれが完成を床中纔(わずか)に寫眞によつて眺めたに過ぎなかつたことは洵に傷はしく同情の外はない。

OBAYASHI CHRONICLE 1892─2014 / Copyright©. OBAYASHI CORPORATION. All rights reserved.
  
Page Top