大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

十八 故人の信仰 四十二歳―四十三歳

大阪市の困憊(こんぱい)

明治維新以來、泰西の現實文明は猛然として我が國内を吹きまくり、何千年來錬え上げられた我が國民の思想も、習慣も次第に淡くぼかされて行く。

殊に數百年間壟斷(ろうだん)し來つた商權より離れ、卒然として泰平の夢を破られた大阪市民の困憊は最も甚だしく、氣息奄々(きそくえんえん)、靈的光明を索(もと)むる餘裕もなく、嚴たるべき祖先崇拜の祭事なども忽諸に付され勝ちであつた。その最も甚しかつたのは明治十五、六年頃で、市の人口はその四分の一を减じ、社殿佛閣の荒廢はその頂點に達した。その後幸に工業大阪への轉向となつて復興の曙光が認められ、明治三十六年の第五回内國勸業博覽會開催時頃には初めて畢生(ひっせい)の思ひをなすに至つたが、多年の瘡痍(そうい)は容易に癒ゆべくもない。まして現實文明に心醉した多くの人々の精神的墮落は心ある者の顰蹙(ひんしゅく)を買ひ、時代がさうさせたとはいひながら、餘りにも冷たくあさましい世の樣であつた。

一人の求道者

この秋に方り、無味乾燥な荒び果てた世の苦惱から遁(のが)れ、温かく安らかな靈的糧を獲やうとする一人の求道者があつた。これこそ偶微恙(びよう)に襲はれ、靜かに病を養つてゐた故人である。時は明治三十八年の晩秋、現實の世の奔命に疲れて淋しく病床に橫はり、徐(おもむろ)に想を練りつゝあつた故人は、菩提寺たる龍淵寺の若僧(現住職河原秀孝師、當時十九歳)を枕邊(ちんべん)に招いて佛道の説敎を求めた。若僧とはいへ俊敏な秀孝師は、阿彌陀(あみだ)經末尾の一節「難信之法」を援用して、念佛敎の心髓は、一般の理窟を以ては容易にこれを解き難く、且つ吾人と佛陀の靈光との間には大きな距離があるやうに誰からも觀られてゐるが、一度び念佛三昧に入るに及べば「此を去ること遠からず」で目前に佛陀の聲が聞え、たやすく佛陀の懷に入ることが出來、「大光明中決して魔事なし」との安心立命を得る言外の妙義を幾多の事例や譬喩(ひゆ)を交へて詳細に説き來り説き去り、最後に信仰なき人生ほど寂しく憐れなものはあるまいと結んだ。

故人の悟り

元來故人の家祖には佛法歸依者が甚だ多かつた。故人は日々の業務に齷齪(あくせく)たればこそ信仰より遠ざかつてもゐたが、脈々と傳はる本來の佛性は機會だにあらばむらむらと頭を擡(もた)げて已まなかつた。今や故人の念頭は將に信仰の琴線に觸れんとしてゐた絶好の機會であつたのだ。機こそよけれ、熱心な秀孝師の説敎に遇ひ、故人は胸を抉ぐられるほど深刻にその妙理を感得し、終始合掌してその説を敬聽し、忽然として耀々たる久遠の光明を認めたのであつて、爾後有力な佛子たるに至つたのである。

果せる哉、故人はその翌三十九年の十月十八日、亡父德七氏の三十三回忌と亡母美喜子刀自(とじ)の十三回忌の法要を菩提寺龍淵寺に於て勤行した。

法事讃の大法要

しかもその儀式は淨土門中最高至嚴の「法事讃」の大法要であつて、「祭には則ち其の嚴を致す」の孝道を實踐したのである。のみならずこの大法要は、明治初年以來市民の困憊と佛法衰頽の極、大阪淨土門の各寺院に於て長く根絶されてゐたもので、故人によつてその復活を見、佛法復興の烽火がこゝに揚げられたといふべく、佛敎界に與へたその衝動は實に大なるものがあつたのである。

法事讃の法要は、大唐善導大師の撰ばれた浩瀚(こうかん)な大經文を基礎に、儀式は頗(すこぶ)る古典的な且つ靜肅、崇嚴を極めたもので、本導師は住職河原季導師これに當り、左右導師は大門了康師と太田元壽師で、外に維那及左右讃衆二十六人の僧侶と、更に奏樂の笙、筝、笛、太皷、羯皷、鐘皷等の雅樂師を加ふれば實に三十六師を數へ、紫、緋、萠黄(もえぎ)等の法衣、靑地、赤地等の金襴の袈裟が林立せる献燈(けんとう)に映えて百花妍(けん)を競ふがやう。維那の發聲に召請あり、導師の訓讀に讃衆は音唱を以てこれに次ぎ、左右相互に讀經を續け、時に淸楚神韻の雅樂が入り、立禮、跪拜、實に精緻を極めた儀式である。淸香は薫じて堂に滿ち、讀經の餘韻は梁を繞(めぐ)り、その崇嚴いはん方もない。參列者は故人を首(はじ)め、家族、親戚、親友、幹部社員等數十名、皆肅然として威儀を正し、聞ゆるものはつまぐる珠數の音と念佛唱和の聲のみである。式は午前九時に始まり午後五時に至つた終日に亙(わた)つての大法要で、一時間の讀經にさへ飽く人のある中に、かく長時間の法要に倦怠の色だに見えなかつた故人の熱意には何れも驚嘆したのである。まして本法要の供養として本堂及庫裏等の改築、全部の疊替さへ行つたのである。

寫經會

故人は又その數年後、同じく龍淵寺に於て如法寫經會(頓寫會)を行つた。寫經會は文字に示す如く、阿彌陀經の一卷を寫して佛前に供する法會であつて、その經文全部を一人の手で寫し取ることは容易でないから、故人及豫め選ばれた多數の縁戚、親近によつてその一節づつを寫し取り、しかる後これを一括して佛前に捧げたもので、筆者は無論齋戒沐浴(さいかいもくよく)、鼻口を覆ふてこれに當り、硯水は態々(わざわざ)叡山橫川の淨水を汲み來り、硯紙等總べて無垢な童子(稚兒)によつて配られたのである。寫經中は絶えず平家琵琶を彈ずるのが古式だが、その時は恰當の琵琶師が無かつたので琴を以て代用された。寫經を終へて捧經の典は導師大門了康師の下に大衆十五師によつて行はれ、これ亦法事讃の大法要に次ぐ嚴肅(げんしゅく)崇嚴の儀式であつた。最近諸所の寺院に於て本法要が修せられるやうになつて來たが、これも明治初年以來絶えて久しかつたのを故人が復活の魁をなしたのであつた。

故人はかくして祖先の靈を祭り、かくして解脱の靈光と無限の慰安を塵外に求めたのである。而して「晨(あした)に道を聞けば夕に死すとも可なり」で、道を求むることの熾烈さは終生聊(いささ)かも渝(かわ)りはなかつた。現住職の河原秀孝氏に資を贈つて佛敎大學を卒へしめたのも佛子としての報謝を意味し、その強烈な信仰心の一つの現はれともいふべきである。加ふるにミキ子夫人の如きは、五重の戒を受くること二回に及び、全く人中の白蓮として信仰の生涯を送つたのである。

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