大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第一編 前期

六 自前の呉服屋

呉服屋開業

主人持の絆から脱れた小賣呉服店、痩せても枯れても一本立だ、見事成功して見せる、とは故人その時の意氣込であつた。しかし大店と小店との遣り口には自ら相違がある。大店に於ては仕入、販賣、集金と各分業的になつてゐるが、小店となるとその總べてを自分一個でやつて行かなければならない。不幸にして故人はその總べてについての手腕を有つてゐなかつた。

呉服商自營當時の故人(十九歳)
呉服商自營當時の故人(十九歳)
麴屋退店慰勞金請書
麴屋退店慰勞金請書

集金の失敗

麴屋での故人の擔當は主として販賣方面であつたから、自營以來この方面では無論成功を收めた。しかし集金に至つてはお話にならぬ大失敗を招いた。月の進むにつれ賣掛金は益增大するのみで、四、五ケ月を經過したときには意外の莫大な額に達してしまつた。これには流石太つ腹の故人も少からず驚かされたものだ。故人には集金の經驗が乏しいばかりでなく性來の俠氣と涙脆さは憐を誘ふ先方の遁辭(とんじ)などに對して頑張りが頗(すこぶ)る薄弱で、成績の擧らないのも無理はなく、度々母の叱責に遭ひ、心を鬼にして今度こそはと決意して出掛かても殆ど無駄に終ることが多く、到底回收の成算が立たない爲棒引としたものが尠くなかつた。

大阪の不況

而して又開業時の明治十五年は非常に惡い年であつた。時恰も西南戰爭に濫發された紙幣整理の斷行期とて、紙幣濫發に煽られた空景氣の反動は最も深刻に大阪の財界を襲ひ、その恐慌は三ケ年の長きに彌り、丸三銀行、樋口銀行等の閉店を見るなど大阪財界は恰も火の消えたやうな有樣で、この點よりするも集金の不成功は蓋(けだ)し已むを得なかつたのである。

血氣にはやる靑年時の常として「富何かあらん。手に唾して取るべし」と無造作に考へた故人の目算は、僅か半年餘りの實驗に徴して根底から覆つて了ひ、前途の志望に一大暗影が投ぜられるに至つた。しかしこの失敗は故人をして更に一生面を拓かしむべき容易に得難い敎訓であつて、明敏な故人はこの敎訓を見遁しはしなかつた。

轉業の決意

即ち大悟一番、轉業の促進に拍車をかけたのである。『自分の性格は小賣商賣にはどうしても適しない。母に色々心配をかけるのは忍び得ないが、自分を生かし結局母を安心させる爲には、自分の性格に合つた仕事に邁進するより外に途はない。豫(かね)てから望みを囑してゐた請負業こそ自分の性格からしても亦前途の有望性からしても魂を打込んでやる最後の目的だ』。これが懊惱(おうのう)久しきに彌(わた)つて得た最後の斷案であつた。

故人の請負業觀は、當時世上に有りふれた一大工、一土工、一左官等を目標としたものでなく、十年、二十年の先を見透した、泰西に於ける彼の大伽藍、大殿堂を工築する底の大請負師を心中に描いてゐたものであつたが、當時の世相は、堅氣の家庭に於て請負業を蔑視する傾向があつた爲、故人は、親戚や母や姉妹の面目をも考慮し、他日の旗揚地は大阪にするとしても、業は文化の中心でもあつた東京で修めんものと併せ決心したのである、

東上の訴

こゝに於て、多年腦裡を支配して來た鬱勃(うつぼつ)たる志望は、遂に母堂の前に、しかも赤裸々に披(ひら)かれたのである。『次第に大阪は不景氣となつて參りました。在來の商賣では成功が困難と存じます。それではどんな商賣が將來有望かと申しますと、我が國の文明は西洋から移つて來たのですから、その西洋文明に基礎を置いたものにあると思ひます。木造の家屋は川口の異人舘のやうに煉瓦造に變つて行きます。鐵道も唯今關西では神戸と京都の間に過ぎませんが、今に全國に延びて行きませう。電信も蜘蛛の巣のやうに殖え木の橋が鐵や石の橋に、帆前船が蒸汽船に、和服が洋服に變つて行きませう。唯今では西洋人の技師などを傭つてゐますが、日本人自らその衝に當らねばならぬと思ひます。私はかういふ方面の中で最も有望な請負業をやつて見たいのです。又飜つて私自身の性格を顧みますと小賣呉服屋のやうなぢみな商賣には適しないと思ひます。年老いた母上に御心配をかけ不孝の罪は免れませんが、このまゝ行つたなら結局不孝の上塗りをするやうなものですから、どうぞ私の希望をお容れ下さつて、修業の爲暫く東京へ遣つて下さい。臥薪甞膽、必ず成功して御恩返しをいたします』と、聲涙共に下り、面上に一大決意を表はして懇願した。年老いたりとはいへ、母堂は流石に女丈夫、こんな唐突の請を聞いても微動だにしなかつた。

東上の許可

子を知るは親に如かずで、母堂も亦かくあることを豫期してゐたものと見え直ちに賛意を表されたのである。故人は思ひがけなくも即座に母の許しを得たので飛びたつばかりの喜び、時を遷さず東上の準備に取りかゝつた。幸ひ豫て昵懇にしてゐた靱の手傳職下里熊太郞氏にこの話をしたところ、同氏も大いにその擧を賛せられ、同氏の親戚で宮内省出入の請負人砂崎庄次郞氏方にある美馬佐兵衛氏宛の紹介状を與へられたのである。

OBAYASHI CHRONICLE 1892─2014 / Copyright©. OBAYASHI CORPORATION. All rights reserved.
  
Page Top