大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

十 第五回内國勸業博覽會工事 三十八歳―四十歳 6 奇禍

普佛戰爭に於て敗衂(はいじく)した佛國が、後、巴里博覽會に成功し、自國の支拂つた償金を回收し得て餘りがあつたといふことは、當時に於ける誇張の宣傳とも思はれぬ。

黄金の洪水

第五回博覽會時に於ける大阪は、全市を擧げて歡樂の巷と化し、當時唯一の交通機關であつた川蒸汽の乘降場は人の山を築き、各地より集つた俥は市中を織るが如く、旅宿等は到る所超滿員で、時ならぬ黄金の洪水ともいふ觀を呈した。甘酒賣の老爺さへ皷腹撃壤の元氣さ、婀娜(あだ)たる花街の難波女は川逍遙の月の夜船の江口の遊君を偲ばせ、眞に錦城の歌吹海、どよめき渡る歡聲は全市に漲(みなぎ)つた。

故人としても、世人注視の大建築を順調に竣成し、當路者は勿論一般識者より多大の賞讃を博し、關西の一部に跼蹐(きょくせき)した一請負業者が一躍して天下にその聲名を謳はれ、加ふるに望樓(ぼうろう)、餘興場等の試みは大喝釆を博して人氣沸騰し、豫想外の利益さへ贏(か)ち得た副産物もあり、まして大阪市としての大成功を祝福する愛市の念も手傳つて、直情徑行の故人の性格上ぢつとしてはゐられず、歡びの幾多豪華版を描き出したのも無理はない。關係者一同に對して貳錢銅貨大の純金製記念章を贈つたりしたのもその一つである。

時ならぬ嵐

しかるに好事魔多しとか、故人に對する中傷的なデマなども飛んだのであらう。三十六年の五月五日、故人は贈賄(當時の刑法は贈賄者に對しては罪が科せられなかつた)の嫌疑ありと睨まれて司直の取調を受けた。故人は一糸亂れず堂々たる答辯を以てこれを否認したのであつたが、更に僞證嫌疑者として收監されるに至つた。收監中家宅搜索は勿論、隨分峻嚴な取調を受けたが、遂に何等の證跡も擧らず、收監後六十六日目の七月九日、豫審免訴となつて拘束を解かれたのである。

練膽の大道場

この奇禍は先天的に剛毅(ごうき)な故人ながら餘程の苦痛であつたらしく、故人の前途に對し痛烈な刺戟劑となつて珠は倍々磨かれたのである。調子に乘つた輕佻浮薄の擧が一身を破滅に導く因たるを自覺すると共に、浮沈興亡の危地に立つ身の冷靜沈毅の要あるを實驗し得たなど、六十日間の監房生活は故人にとつて心膽(しんたん)を練る大道場ともなつたもので、この點からいへば奇禍でなく、或は奇幸であつたかも知れない。

吐いた唾は再び呑まぬ

元廣島控訴院檢事長 川淵龍起氏談

故人の物故後一年ほど經た頃、大林組廣島支店長たりし小松正矩氏が、偶師團長の送別宴で廣島控訴院の川淵檢事長と同席し、同檢事長から故人の健康を問はれたので既に物故された旨を答へた時、同檢事長は暫し長大息の後下のやうに語られた。(尚本稿は念の爲川淵氏の御校閲をお願ひしたものである)

實に立派な惜しい人物を失つたものだ。想ひ起せば、私が東京地方裁判所檢事正在職中、明治三十六年の第五回内國勸業博覽會開催の前後に亙り、その建築等に關して某々數名の高官に收賄の嫌疑があり、又大林君は贈賄の嫌疑で豫審中拘束を受けて居つたのであるが、二十日經つても、三十日經つても、知らぬ存ぜぬの一點張りで更に埒が明かない。恰度五十日ばかりも經つた頃であらう。私は、深山の猛虎も陷穽(かんせい)の中では耳をたれ尾を搖がして食を求むる、といふ譬(たとえ)を想ひ起し、一日同君を自室に呼び寄せ、豫(かね)てから同君が酒と煙草の愛好家であることを聞いてゐたので、室の卓上には豫め金口やその他二、三の卷煙草を凖備し、私は法廷とはもとより變つた打ち解けた態度で、その長い間の監房生活を慰籍し、『定めし辛いことであらう。今日は誰に遠慮もないから、煙草でも喫んで緩つくりお話することにしよう。一寸用事を濟まして來るから隨意にやつてゐて呉れ給へ』と、煙草を押し遣り、懇々遠慮の無用を説いて座をはづすこと小一時間ばかりして室に戻つて見ると、大林君は猶行儀よく端然と椅子に靠(もた)つたまゝ、無論卓上の煙草には一指だも觸れてゐない樣子なので、更に勸めて見ても、『靑天白日の身となつてから頂戴する』と言つて毫も謹嚴の態度を崩さなかつた。私はその意思の強固なのには尠からず感心させられ、『君が事實の陳述をしたからとて、それで直ちに君が罪になるわけでないのだから、眞乎の時日を述べて早く囹圄(れいぎょ)を脱し、一日千秋の思で待ち佗びていゐられる家族方、就中(なかんずく)子供さん等を喜ばせたらどうか』と諭して見ても『このやうな心盡しをなされてまで、私に供述を勸められる職務に御熱心な貴官の御心中はお察しゝますが、全然無いことは申上げやうがなく、よしんば假りに事實があつたにしても、我々の稼業は、一度吐いた唾は絶對に吞み込まないのが一般の慣ひで、この儀ばかりはお許しを願ひたい』と言つて、死しても動かぬ決意が面上に浮んでゐる。依然として深山の猛虎だ。その時私は衷心大林君の男振りに惚れた。隨(したが)つて同君に男を捨てよと迫つてゐたことを悟つて心中忸怩の感を催した。無論私の努力は眞の男の前には何等の効を奏しなかつたのです。がしかし又一面では言ひ知れぬ愉快な滿足を味ひました。今同君の遠逝を聞き感慨無量であります。

大阪の生んだ江戸ツ子

法曹界常務理事 石井豐七郞氏談

明治三十六年大阪に於て農商務省關係の第五回内國勸業博覽會が開催された時、偶建築工事その他に就て農商務省某々官吏の收賄嫌疑による瀆職問題が持ち上つたことがある。當時私は東京地方裁判所に豫審判事の職を奉じてゐたので、直ちに工事請負者の大林芳五郞氏を喚問したのであつたが、何分今を去る三十數年前のこと故記憶も薄らぐばかり、氏より得た印象が數々あつたやうに思ふが、下の數件は忘れようとして忘れ得ぬ深刻なものなので、一面故人の大を偲ぶ好個の語り草とも思ひ、香華(こうげ)を手向ける意味でお話することにした。

秋官たる私の心の心證……今日ではさういふこともあるまいが、當時大阪商人は上方贅六(ざいろく)などを評され、一般からは餘り好感を有たれてゐなかつた。私も亦氏が大阪人のことだから、或は所謂贅六式貪慾の人物ではあるまいか、と想像して氏に接したのであつたが、取調の進むにつれ、大きな眼に大きな體軀の豪傑的風貌で、眉宇(びう)の間には豪邁不覊(ごうまいふき)の氣魄が現はれ、齒切れのよい明快な答辯、端正にして嚴然たる態度、熱意もあり、誠意もあり、寧ろ江戸ツ子的氣分の橫溢した氏の全貌が次第に明瞭になり、大阪人にもかうした人物があるのかと驚いた位、最初贅六視した私の想像は根底から裏切られたのであつた。そこで秋官たる私の心證は夥(おびただ)しく良好のものとなり、感情に支配されることの禁物な職掌であつても、心の底の何處かに同情の氣が芽生えて來るのを禁じ得なかつた。或る日私は、私の僞らざる心證を赤裸々に當時の檢事正川淵龍起氏に話したことがあつたが、檢事正も取調の終了を見るまではと言つて、大林氏に對する氣の毒の感を呈されたのであつた。

氏の責任感……取調の際何時も大林氏が言つてゐたことだが、責任感が非常に強烈な人と窺はれたのは『自分は官廳(かんちょう)その他から委託された工事を澤山有つてゐて、責任上一日と雖も捨て置けない。もし自分が長く留置される場合は、工事の統率者を失つて施工上に大支障を來し、官邊その他顧客に對して申譯がない。自分の最も惱みとするのはたゞこの點のみで、監房生活の不自由など敢て問ふところでなく、工事が可愛いのみだ』と切りに言つてゐられて、普通人とはその惱む點を異にしてゐて、これ亦同情に堪へなかつた。幸ひ取調も順調に進んで、僅かの期間で拘束が解かれたやうに記憶してゐる。

氏の太ツ腹……取調は主として帳簿の押收から始めたのであつたが、中には意味の明瞭を缺く支出が毎日のやうに百圓とか二百圓とか記載してある。よつてその使途を訊ねたところ、『あれですか。あれは建築場を荒し廻る乞食共(無心者)が澤山やつて來て、工事を邪魔して困るので投げて遣つたのです』と事もなげなる答辯。この力強い氏の言葉は今に猶耳底にはつきり殘つてゐる。當時百圓、二百圓といへば相當な大金であつたのに、かくまでの平然たる態度と明快な答辯ぶりには一驚を喫したのであつて、その太ツ腹には流石に大を成す人だけのことがあると感心させられた。

氏の報恩……種々の見地から取調を行つて見たのであつたが、大林氏と關係の最も深いと稱せられてゐた麴町區平河町邊の砂崎といふ人を取調べたことがある。しかるに何ぞ圖らん、砂崎某は曾て氏が靑年時の東京修業時代に草鞋を脱いだといふ恩師であつて、氏が堂々たる請負人となつた後も舊師(きゅうし)の恩義を忘れず、博覽會工事に際しては人造石か何かの下請けを賴んでゐたものださうで、相互の關係を辿つて見ると疚(やま)しい點などは露ほどもなく、實に掬(きく)すべき人情美が漂つてゐることを發見し、尠からず感心させられたことがある。

要するに當時三十歳を過ぎた位の私が、實際的にも亦精神的にも官吏として知り得なかつた數々の敎へを氏から受けたことを感謝するもので、取調べる者が取調べられる者から幾多有益な經驗を得たことは最も興味ある出來事と思ふ。その後私は氏の人格に動かされて大林組を信任する隱れた支援者の一人となつたのである。私は、『現在の請負會社中堅實性の最も豐富なものとして先づ第一に大林組を擧げてゐる。大林組に工事を託するならば、假りに多少高價であつても必ずしもそれが高價とは言はれない。絶對に間違ひが無いのだから結局安價に歸着する。彼の關東大震災の際大林組の施工した東京驛は、ピリツともしなかつたではないか』と蔭ながら大林組を激賞して他に推薦したことが度々ある。中には『貴方はなぜそんなに大林組を信用されますか』と反問する者もあつたが、私はこれに對し『自分は大林組と何等恩怨の關係はないが、曾て或るふとしたことで先代大林氏に會ひ、氏が當代稀に見る人物で、且つ何事にも信賴するに足る傑物(けつぶつ)であることを見拔いたからであつて、暫しの會見でさへ既に自分は氏に動かされたのだから、まして四六時中氏の大精神に培はれて來た現在の大林組は、無論信賴し得る傳統に生きてゐることを察知するに難くない。だから大林組は倍々大を成しつゝあるではないか。私は大林氏の人格とその歴史を尊重するの外他意あるものでない』と答へるのを常としてゐた。實に大林組は良き主を有つたもので、先人に愧ぢざる行動を期待して己まない。

最後に念の爲言つて置くが、博覽會時の瀆職問題は、建築工事上に於ては何等の罪が構成されず、某官吏は他の問題で罪となつた。無論大林氏は豫審免訴となつたものであつた。

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