大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

十五 濱寺俘虜(ふりょ)收容所の急工事 四十二歳

旅順の陷落は露國の死命を制したともいふべき大なる成功であつた。明治三十八年一月一日、我が國民が、連戰連勝の快報の裡に、屠蘇の香に醉ひつ、目出たき御代の春を祀つてゐた時、難攻不落と稱せられた旅順陷落の大快報は日本全國に響き渡り、國民をして亂舞狂喜せしめ、萬歳の聲は天地を震撼したのである。

旅順陷落と俘虜

こゝに於て數萬の俘虜は日本内地に輸送されることゝなつた。しかも乃木第三軍が直ちに第二の行動を開始する上に於てこれが輸送は頗(すこぶ)る急を要した。既にその六日、陸軍省は收容所建設地の調査を留守第四師團に命じ、同師團は濱寺の地を候補として復命した結果、同十日陸軍省より建設の命が下つたのである。

建坪二萬四千

收容人員は二萬人、方一里に達する地面を四大別とし、第一區と第四區とを南北にして各四千人を、中央を第二區として一萬二千人を收容し、第三區は俘虜監督の任に當る我が軍隊の營舍となすもので、二百人入平家建廠舍(一棟長五十三間幅三間半)百棟、百人入病舍(同上)十棟、その他哨兵舍、厨房等十五棟、總計百二十五棟、總坪數約二萬四千坪に達するもの、總べて杉板張、屋根は防火を考慮してラバロイド又はマルソイド葺となし、衛生及非常集合又は取締上の便宜を考慮して構造配置し、域内にある高石神社及共同墓地を非常避難所とし、周圍には板塀を廻して門口は四箇所に設け、海濱は自由運動場としたもので、僅か數日間の設計ではあつたが、周到の注意が拂はれたものであつた。

要するに三間半間口の家が延長三里に達するもので、田舍なら堂々たる一市街を形成するものである。しかるにこの大工事の建設期間を聞くときは誰しも驚愕しない者はあるまい。

工期三週間

即ち陸軍側の希望は僅々(きんきん)二十一日間であつた。第四師團當局は淸水、大倉、大林等の各組を請負人に指名し、請負金額と共に責任施工期間の入札を行つた結果、他は殆ど四十五日あり六十日ありといふ有樣、獨り大林組のみが陸軍側の希望に近い二十五日といふ札であつた。遂に白羽の矢は故人にたてられ、無論故人は陸軍側の希望通一月十六日より二月五日迄の二十一日間の工期を以て受諾したのである。

冷評

『大林は少し氣がくるつてゐるのではあるまいか。無謀極まる男だ。如何にバラツクとはいへ二萬四千坪の建物、材料を集めるだけでも十日や十五日はかゝるでないか』等の冷評が到る處に湧いたのである。冷靜且つ正當に考へたならその評が至當であつたかも知れない。

これより先、明治三十七年八、九月の交より、各地戰線から内地に送還せられる我が傷病兵の數が彌に激增して來た。運送船の到着する毎に一千人、二千人といふ數に達してゐたのである。

陸軍豫備病院

第四師團の大阪にもこれが收容を割り當てられ、最初は臨時に十數ケ所の寺院に收容されたのであつたが、遂に天王寺に五千人、大手町其の他に二千人、天下茶屋に三千人を收容し得る陸軍豫備病院が建設されることゝなり、その全部の建築が大林組に下命されたのである。三箇所を合せて病室の數約二百棟、附屬家大小百六十棟の大工事である。無論期間は甚だ短い。しかし故人はよく陸軍當局の意を體し、晝夜兼行立派にこれを仕遂げたのである。その時の故人の優秀な手腕力量を知る陸軍當局は、這次の俘虜收容所の建築についても大林組の請負を期待して已まなかつた。故人も一時は躊躇したものゝ、何人かがこれに當らなければならないことを思ひ、敢然起つてこの國家的奉仕をお承けしたのである。

鉛筆書の設計

俘虜收容所の建築地域は、茅渟(ちぬ)の海の和泉平野に灣入した白砂靑松の濱寺公園伽羅橋以南、高石村に亙(わた)る約一方里であつて、故人等の一行は時の第四師團伊藤經理部長と共に周密の實地調査を遂げ、急速の場合、鉛筆で走り書の設計概要書に基き、双方とも目のこ算用の大つかみ、命ずる者も、命ぜられる者も以心傳心の呑み込み合で總べての計畫が樹てられたのである。

設備調査と懸賞

(さき)に八日の午前、故人は經理部よりの召喚により出頭、收容所建設に對する各種緊密の調査條項に關し陸軍當局の質問に應へ、腹藏なき所見を吐露して退出した。

銳敏隼のやうな故人は、直ちに市内に於ける主なる出入の木材商を招集し、各自の既製材及原木の在庫高、或は製材能力並に大阪に於ける供給可能の全數量等を詳細に聽取し、『まだ確定に至らないので内容の發表は差控へるが、こゝ數日中には尨大な急工事が陸軍より出る筈である。萬一これが實現された曉は、請負人が淸水だらうが、大倉だらうが、或は大林だらうが、誰に確定するにしても木材の供給は諸君の手に俟たねばならない。重要な陸軍の御用に對してもし大阪の木材商がその需要に應ずることが出來ないとあつては、大阪木材商の大恥辱といつてよい。故に何人が請負に當るにしても即刻その注文に應じ得るよう、今から直ちに手配を進めて置いて貰ひたい』と内談し、且つこの際暴利を貪ることを堅く戒め、もし幸にして大林組に落札を見たときは、期限内に納入した者に對し市價に對する二割高の懸賞を附する旨を約したのである。而して調査の結果、大阪に於ての供給量は所要數量の半數程度のものたるを發見したので、更に九州、中國、四國、紀州等の木材商に打電し、その在庫高及供給可能の數量等を調査し、十一日の入札時までには確乎たる豫備調査が出來上つてゐたのである。職工に對しても同樣で、この大工事を消化するには晝夜兼行の交代制を採るとしても日々大工約三千人、手傳及土工仲仕、人夫等で二千人、合計約五千人を要するといふ大體の見當をつけた。他は左程の問題でないが、大工三千人を集結することは相當の難事である。こゝに於て故人は各下請の親方に令して他に職工の移動を嚴禁すると同時に、萬一に處する爲豫備的の手配を命じ、愈確定の場合には大工一人に對し五割增の賃銀を約したのである。(後一時不足を告げた時、大工一人の募集に拾圓の懸賞を附したこともある)

確乎たる自信

僅か三日間の調査とはいへ、かくして故人には確乎たる自信が出來てゐた。二十一日間の責任施工が無謀でも氣狂でもなかつたのである。愈十一日に請負は大林組に決定し、數十百の飛電は各地に散つた。大工の如きも四國、中國、京都、神戸等より續々集つて來る。賃銀の五割增。群蟻腥氈(ぐんぎせいせん)に集るの古智が見事的中したのである。

陸軍側の實地測量と各種調査もあり、着手は十六日と定められたのだが、十二日の黎明には濱寺の陸上高く「大林組」と染めぬいた大旗が初春の刀のやうな寒風に煽られながら飜つた。

徹夜木材の積込を終つた大阪地元の猪牙船數十隻は、汽艇に曳かれて陸上の旗を目標に海岸近く漕ぎ寄せて來る。陸上では各班に分かれた持場々々の職工人夫が、陸軍當局の指揮に從つて各係員と共に既に實測遣方に着手してゐる。迅雷耳を蔽ふに遑(いとま)あらずとは眞にこのことだらう。これを見た師團長首(はじ)め軍の最高幹部は、その機敏を極めた行動に驚嘆されたのである

木材の岡

その後、日毎に大阪その他各地方より木材滿載の船舶が海岸に蝟集(いしゅう)し、高師の濱一帶に木材の岡を築くに至つた。現今でも吉野近邊の物語になつてゐるが、當時濱寺送りの木材の爭奪戰は實に戰爭以上であつたといふことである。職工人夫も十五日には早や豫定の人員に達し、全部の機關が一齊に活動を開始したのは豫定通り十六日からであつた。故に實際の準備期間は僅かに四日間に過ぎなかつたのである。

大林組の奉天戰

大林組にあつては無論店員總出、總帥はもとより故人自らこれに當り、施工の總監督には鬼加藤と稱せられた後の監督役加藤芳太郞氏を命じ、材料の注文及納入の督勵、收受、整理配給、職工人夫の出面、割當、三部十五班に分れた施工の指導監督、傳令、警備(淡熊氏が同家若衆三十名を連れて自ら當つた)その他庶務、會計、炊事に至るまで、各系統的に部門を分ち、橫斷的に又縱斷的に互に連絡協調し、相勵み相競ひ、一里四方に漲る白熱的雄叫びは晝夜の別なく、翠綠滴る松樹の影には次第に汗の結晶たる幾多の棟が現はれ、喊聲(かんせい)は隨所隨所に起つて行く。實にこの二十一日間は大林組が事業の砲列を布いた奉天戰にも比すべく壯烈を極めたものであつた。故人の一令に五千の人間が手足のやうに動く、恰も三軍を叱咜するやうな豪快さ、故人の得意また想ふべしであつた。

故人は本部に在つて六尺四方の建物配置圖を凝視し、一時間毎の報告により圖面の記入を進めて總括的釆配に智能を絞るばかりでなく、時には自ら巡視號令した。巡視の際は廣袤(こうぼう)一里に亙る地域とて、加藤總監督と共に常に常傭俥を驅つて走つた。各班には豫め長い竹竿に赤の吹流しをつけた旗を備付け、故人巡視の際は直ちにその旗を立て、遠方から望み見て故人の所在を明らかにしたものである。殪(たお)れて後已むの覺悟を以て故人は一意專心事に當り、職工等と寢食を共にすること二十餘日、疲れると眠り、覺めると起ち、全く着のみ着のまゝ工事着手當初に着けた新調の洋服がよれよれの泥まみれ、鬚は頰を埋めて西洋乞食宛然(えんぜん)の貌、日夜叱咜咆哮を續けた爲遂には聲さへ出なくなつた。職工等に命を傳へようとするときは、その職工に輕く砂を浴びせ、驚いて顧みた時手招きして命を傳へたことは、當時「旦那の砂」といつて職工間の語り草であつた。

拾錢銀貨と法被の懸賞

又、故人は自身を首め總監督及各部長にも重いほど拾錢銀貨をポケツトに詰めさせ、精勵顯著と認めた者には惜し氣もなくこれを與へたものである。

全身綿のやうになつてゐても、この拾錢銀貨一、二枚が起死回生劑ともなつて、彼等は奮ひたつたのである。殊に彼等を最も勵ましたものは法被の給與であつた。棟さへ眠る夜半の午前二時頃、係員が豫め法被の引替券を懷中して工事場を巡視し、不眠奮鬪の者にこれを一枚づつ與へた。職工等は法被を得たいばかりに睡眠慾に耐えたもので、中には十數枚を得た者さへあつた。かくして工を急ぎつゝあつた眞只中に早くも俘虜は續々として輸送されて來たのである。已むなく一時公園の南部地域に幕營せしめたのであつたが、如何に敵國の兵とはいへ旅順籠城一箇年、祖國の爲に奮戰した勇士、今は俘虜となつて敵國に月を見る哀れな身、一掬(いっきく)同情の涙なき能はずで、寬懷宏量の故人より職工に至るまで益速成に拍車をかけた結果、流石の大工事も遂に二月五日豫定通の竣功を見、俘虜全部を收容し得たのである。

建築界の鬼才

建物は陸軍當局の豫想以上に完全なものであり、同業者等はたゞたゞ奇蹟として語り傳へ、建築界の最大驚異として不滅の榮冠を遺したのである。

當時の我が國建築界の權威者たる辰野工學博士が來場して巨細に視察し『大林氏は眞に建築界の鬼才である』とまで激賞せられた。

かくして故人は建築界に一大異彩を放つたのである。まして、請負決定前に於て、何人に請負が決定するとも國を擧げて戰ひつゝある際暴利を貪ることの非國民たることを堂々と諭し、木材商をして虚に乘ずるの機なからしめ、又何人に請負が決定するとも必要なだけの木材は要るのだからと豫めこれが準備を命じたなど、報國的大精神の迸(とばし)りといつてよい。

奉仕の一棟

尚故人の大精神を物語る一つの事柄を擧げて見よう。この工事が竣成した時、棟數を檢査すると所定より一棟多い。誰もが怪訝の眼を瞠(みは)つた。故人は頗る沈着いたもの。『抑もこの工事は國家的の事業である。豫め伊藤(故人の片腕伊藤哲郞氏)に命じて一棟を加へたものである。萬一強風又は火災等の爲に一棟たりとも失つたときはどうなる。左樣の場合を慮つて奉仕的に一棟を增築したのだ。幸に何事もなく濟んだので幸福だが、一棟多いと言つて苦情のあらう筈がない』と語つた。その美しい氣分と襟度には聞く者誰もが驚かされたのである。

釘一本

尚一、二の美談をつけ加へると、故人は、工事場を巡視した際、散亂せる木片や鉋屑(かんなくず)等の中に散らばつてある釘を發見すると、一々これを拾ひ上げて叮嚀(ていねい)に事務所に持つて歸るのを常とした。一方には一棟を奉仕的に献上しようといふ大きな襟度があり、一方には釘一本の無駄にも着眼する纎細な現はれがあつたのである。又或る日のこと、黯黮(あんたん)たる黑雲天を蔽ひ、猛風吹き荒んで怒濤岸を打つさま物凄く、爲に木材の荷揚は殆ど不可能となつて頗る困難に陷つた。偶故人は船中にあつて木材の受渡しを監督しつゝあつたが、陸岸目がけて吹きつける風位を見定めると咄嗟に令を下し、各般の木材を悉(ことごと)く海中に投下せしめた。

頓智(とんち)

船頭その他は餘りのことに驚き呆れたが、山なす木材は風に隨(したが)つて濱へ濱へと吹き寄せられ、鳶口を手にする濱仲仕は浪に打揚げられる木材を忽ちの間に陸揚し、荷役の手間を半减することが出來た。その後これが動機となつて西風の日には海面投下を行つたものである。

その後既成の一千人收容の病室では不足を告げる傾向があつたのと、麭燒場(ほうしょうば)の設備が無かつたので、更に南方上條村助松に一棟百人收容の建家十五棟その他を建築されたのである。これも大林組に命ぜられたもので、二月八日に着手し四月十八日に竣功した。期限としては恐らくこの程度のものが普通であつたらう。

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