大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

十 第五回内國勸業博覽會工事 三十八歳―四十歳 5 橋本雅邦翁と識る

博覽會開會當時は江戸堀の中島屋旅館が大林組の宿坊で、故人を首(はじ)め多くの社員がよく集つて食事したものである。偶同旅館に博覽會の美術審査官たる橋本雅邦畫伯が滯在されてゐて、自然故人或は他社員との接近の機が造られた。

畫壇の巨擘(きょはく)

橋本翁は折にふれて社員等に對し、何か繪いて進ぜようなどと頗(すこぶ)るあつさりしてゐられたが、多くの社員はこの翁が我が國畫壇の巨擘で、狩野派の直流として芳崖畫伯と並び讃へられてゐる大家とも知らず、何處かの好々爺位に思つて頗る無關心に過したのであつたが、慧眼な故人は千載一遇の好機を逸しはしなかつた。中島屋に至る度毎、古今に絶する大藝術家に接することを何よりの樂しみとして必ず翁の居室を訪ねたもので、故人は大きな藝術そのものに接する感をもつて謙敬鄭重を極めたものである。翁も當時徒然の餘りこの慕ひ來る一請負業者をまたとなく愛され、歡んで故人を迎へられたのである。語つて見ると故人には藝術に對する相當の理解も見識もあり、興を催せば翁は談笑數刻に及ばれたことも少くない。時には又故人の案内の下に折花攀柳(せっかはんりゅう)の巷に陶然として春宵一刻の歡に醉はれたこともあつた。翁と故人とはかくして堅く結ばれたのである。翁はその後故人の意氣に感じ、全く利害を超脱して幾多の雄作を繪き與へられたもので、加ふるに翁の歿後故人はその遺作の大部分を讓り受け、遂に雅邦の大林か、大林の雅邦かと稱せられるほど大林家には翁の名作が蒐藏され、その數百三十幅に及んだのである。

出山の釋迦
(橋本雅邦翁筆)
出山の釋迦
(橋本雅邦翁筆)
嚴上觀世音
(橋本雅邦翁筆)
嚴上觀世音
(橋本雅邦翁筆)

故人の鑑識眼

元來故人は殊の外繪畫を愛好した。就中(なかんずく)墨痕淋漓(りんり)、筆力雄渾(ゆうこん)な狩野派の畫風と、風韻飄逸筆致輕妙な南畫を好み、纎細濃艶な土佐繪とか佳麗柔和な四條派の畫は餘り好まなかつた。南畫は竹田と直入を選み、殊に小虎時代の直入を絶讃した。故人の鑑賞は徒に落款を追ふて足れりとする形式的な骨董眼から來たのでなく、畫そのものゝ眞價を愛したのである。故に故人の鑑識眼は素人離れのした深遠味があつて、殊に雅邦ものや直入ものに至ると、その眞僞の鑑別は素より、畫そのものゝ良拙にさへ銳い眼識を有してゐたのである。趣味嗜好はよくその人の性格を現すことが多いもので、故人の豪宕不覊(ごうとうふき)の性格は狩野派的で、直情徑行、敏捷果敢の性格は南畫的といつてよからう。殊に故人の性格が多量の禪味を帶びてゐる點からして、繪畫の好みまでがかく分れるのも自然の道理である。

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