大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

二十九 生駒隧道 四十八歳―五十一歳

三角形の一邊

大阪と奈良とを繫ぐ唯一の鐵道たる舊(きゅう)關西線は、天王寺方面より葛城山系と生駒山系とを分つ大和川流域を迂回する恰も三角形の二邊に當るもので、約一時間二十分を要するのであるが、もし大阪奈良間を直線的に結び得たなら、三角形の一邊に歸して時間の短縮はいふまでもなく、經濟その他の利益は盖し尠くない。しかしその中間には巨象のやうな生駒の大山脈が橫つてゐる爲、如何な鐵道經營者も二の足を踏まされたのであつたが、こゝにこの大山脈の胴を刳(く)り貫き、大阪奈良間を一路僅に四十分間で達する破天荒の大事業を完成した大功勞者こそ、實に故人その人である。

線路布設の三案

この大阪奈良間線路敷設の認可は、明治四十年四月で、こゝに大阪電氣軌道株式會社が生れ、下の三案の豫定線路中その一を選ぶことゝなつたのである。

第一案……は、椋ケ嶺の南方十町の地點にケーブルカーを敷設し、舊奈良街道に沿ふて順路を小瀨に取るもので、遊覽電車ならば兎に角、新時代の交通機關としては緩慢に過ぎ、時代錯誤の缺點を免れなかつた。

第二案……は、四條畷の南方中垣内から平城に達する生駒山彙の稍低部を選んだもので、この案によると、工事の平易化は望み得るも、直線コースよりも更に三哩半の延長となり、乘客の利便と時間の短縮を主とする交通電車の使命からして、これ亦相當の缺點があつた。

第三案……は、直線的に生駒の山腹を貫く隧道案であるが、この案は距離短縮の上からは理想的ではあるが、巨額の工事費を要し、且つ非常な危險を伴なふ冐險的缺點が多量に含まれてゐた。

時の關係者は以上の三案を俎上に乘せ、これが檢討に多大の苦心を拂つたのであつたが、孰(いず)れも一長一短、甲論乙駁(こうろんおつばく)、議は容易に決しなかつたのである。

隧道案の支持者

故人は素より技術者としての立場から、隧道の掘鑿(くっさく)を左程危險なものとは思惟して居らず、且つ剛毅(ごうき)の性格からしても『貫通し得る』といふ固い信念を有し、加ふるに我が國最初の試みたる廣軌複線式隧道を穿つことは、我が國土木技術の發達を促す好機會でもあり、故人は熱心有力な隧道案の支持者であつたのである。

故人の覺悟

しかるに大軌の重役中には隧道案の一大難工事たるを主張し、殊に故人と親しい人々又は大林組に縁故の深い學者中にも、この工事費は豫算を超過して莫大の損失を招くべく、且つ又現在の土木技術上からしても極めて冐險的な工事であり、延(ひい)ては大林組の生死にも關するだらうとの懸念から、故人に飜意を勤むる諫言(かんげん)者が多かつたが、故人は『成敗利鈍は問ふところではない。土木業者として千載一遇ともいふこの會心の大工事を見遁し得ると思ふか。もし自己の利害の爲にこの工事を避けたなら請負業者としての大恥辱である。屍を戰場に暴らすは武門の慣ひ、不幸大林が業の爲に殪(たお)れたとてそれは土木業者として職に殉じたもの、寧ろ男子としての本懷ではないか』と意氣軒昂、決意牢として動かすべくもなかつた。この意氣は無論岩下翁の決意を益固からしめ、岩下翁は更に會社の反對重役を説いて遂に第三案たる隧道掘鑿案に決したのである。

起工式

明治四十四年六月中旬、莊嚴な起工式が擧げられた。淸淨の祭壇に山神の靈を祭り、故人又淸齊聖者の如く、酒を地に酹(ま)いて工事の成功を祈つた。谷間より起る白雲は樹々を縫ふて祭壇を繞(めぐ)り、そよ吹く風は靑嵐となつて爽快極まりなく、欣然として業に就く前途の希望は相互無言の眉宇(びう)に現はれ、勇躍邁進の氣は場内に漲(みなぎ)り渡つたのであつた。

かくて故人の宿志は實現されるに至り、故人の信任する技師長岡胤信博士並に總主任有馬義敬氏指揮の下に工事は進められて行つたのである。

廣軌複線隧道の嚆矢(こうし)

地質は主として花崗岩より成り、隧道の延長二哩八鎖、坑内の掘鑿岩石の總量無慮二萬六千立坪、廣軌複線隧道工事としては我が國に於ける嚆矢である。先づ米國製最新式ライナー鑿岩機を購入してこれを東西兩口に備へ付け、掘鑿は導坑、中背、大背、側壁疊積、拱架壘築、煉瓦工、排水渠工等の工種に分れ、尨大な空氣厭搾機の設備までを施し、東口は郡山、王寺等より荷馬車の便を藉(か)り、西口は住の道驛より支線を敷設して日下村まで乘り入れ、更にインクラインを應用するなど、各種材料の運搬に資すべく種々の計畫が進められたのである。

掘鑿に要する總べての準備は既に整へられた。東口たる奈良縣生駒郡北生駒村(今の生駒町)字谷田は同年七月五日に、西口たる大阪府中河内郡大戸村字芝(後石切と改稱)は同月九日に着手した。海拔二千百二十尺、大地球が創造されてより幾萬年、嚴として雄大な山容を誇つた生駒山も、遂に山腹の中軸に大孔を穿たれるのである。千五百人の工夫は三交代で晝夜を通じて勞に服し、掘鑿の設計は西口は勾配六十六分の一、東口は勾配八百八十分の一であつて、隧道の最高部は海拔四百八十四尺の地點で、一萬百十四尺の大導坑を双方より貫通しようとするのである。坑内に於けるライナー鑿岩機の活動する音響、ダイナマイトで巨岩を破碎する爆音は谺(こだま)に響いていと物凄い。東口の如きは一ケ年半に亘つて日々五百輛の荷馬車が往復し、延二十七萬餘輛に達したのだから、眞に肩摩轂撃(けんまこくげき)、蜿蜒(えんえん)として連る轍の響は實に勇壯を極めたものである。

大軌電車生駒隧道
掘鑿作業中の状况
大軌電車生駒隧道
掘鑿作業中の状况
大軌電車生駒隧道
支保工
大軌電車生駒隧道
支保工

山嶺に設けられた望樓(ぼうろう)により間斷なく東西兩口の視準を統一して寸毫も差違なからしめんと細心の注意を拂ひ、坑内に深く掘り進むほど地熱の燻蒸は常に八十度の氣温に上り、嚴冬の眞中にも坑内工夫は素裸となつて勞役してゐる。

掘進の難

しかるに坑道は堅緻な岩塊とのみ思はれてゐたが、掘進につれて案外脆弱であつた爲、一日に辛くも一尺或は二尺の進捗に止まり、甚だしきは三十日間に一尺も進まなかつたことさへある。殊に地下水の流層が橫に溪状を造つて多量の水を噴出し、軟泥のやうな地層が疎鬆(そそう)な岩石を混じて流停してゐる箇所に掘り當つたときの如き、さしも精巧なライナー鑿岩機も全くその威力を失ひ、加ふるに電力供給の不完全は停電事故が日夜に頻發し、言語に絶する困難を極めたのであつた。

隧道陷沒

工夫等は熱汗を絞つて畢生(ひっせい)の努力を續けてゐた折、時恰も大正二年一月二十六日午後三時二十分、東口より二千三百尺の箇所に於て、延長六十尺に亙り轟然たる大音響と共に陷沒してしまつた。

犧牲者十九名

しかも工夫中百四十八名は悲慘にも生きながら坑内に閉塞されたので、直ちに全力を擧げて救助の策を施したのであつたが、何分深坑内のことゝて救助は容易に進捗せず、漸く翌日午後五時に至つて百二十九名を救ひ出すことを得たが、他の十九名は憐れ無慘な壓死(あっし)を遂げたのであつた。故人は潔くこの事故を自己の責任なりとし、厚く死者の靈を弔ふと共に懇(ねんごろ)にその遺族を軫恤(しんじゅつ)した。

このやうな一大難事に遭遇したが、故人の素志は微動だもせず、益勇往邁進するのみであつた。

貫通

その後幸ひかゝる災難もなく工事は着々として順調に進捗し、翌大正三年一月三十一日午前四時半、西口より六千三十九尺、東口より四千七十五尺の地點に於て東西兩口の導坑は全く相通じ、曉の空氣は飛行機のプロペラーより發する風のやうに、この時初めて西口より東口に向つて吹き拔けたのである。工夫等の擧げた聲を限りの萬歳は全坑内に轟き渡り、泣く者、相抱く者、亂舞する者、狂喜の歡聲は暫し止まなかつた。

初めこの破天荒の工事に着手したとき、冒險と嘲る者、無謀と嗤ふ者等物議騷然たる有樣であつたが、牢乎たる故人の信念はそれ等の誹謗を蛙鳴蟬噪(あめいせんそう)と聞き流し、死地に就くは男子の本懷なりとして平然自若、遂に所期の目的を達するに至つたのである。昨日の誹謗は忽にして讃嘆の聲と化し、こゝに大林組の生死は確然と分たれ、千載不磨の偉業は目出たく有終の美を飾つたのである。

大軌電車生駒隧道西入口(廣軌複線延長
一一、〇八八呎)
大軌電車生駒隧道西入口(廣軌複線延長
一一、〇八八呎)

河童の陸上り

殊に又直接施工の衝に當つた技師長岡博士並に有馬總主任の苦心に至つては、筆紙に到底盡されないほど實に慘憺(さんたん)たるものがあつた。世間は初め岡博士を諷し『河童(築港工事)が陸(隧道工事)に上つて何が出來る』などと評してゐたので、博士は食事を坑内に搬ばせて一週間も坑を出なかつたことさへあり、その苦心と薀蓄(うんちく)の大が遂に功一級ともいふべき殊勳者たらしめたのであつて、こゝに於て技術的鼎(かなえ)の輕重が判然と明瞭化され、燕雀的評者をして瞠若(どうじゃく)たらしめたことは痛快であつた。

本隧道工事費は二百七十萬圓に達したのであつたが、當時大軌會社は極度の經營難に瀕してゐた際のことゝて、大林組に支拂ふべき工事費は殆ど手形を以て交附されたのである。資本金三百萬圓の同社が、隧道工事の外、小隧道、線路敷設、發電所、變電所、車輛、用地買收等の費用を合せ、實に總計七百五十萬圓を要したのだから經營難も當然で、自然その手形も流通力を失ひ、大林組の苦痛は容易でなかつた。しかし故人は、一方發起人の一人でもあり、隧道工事を極力主張した關係もあつて、これに對しては毫末の苦情を陳べたこともなく、唯々大軌會社の發展のみを祈つてゐたのである。

金森氏の頑張り

實に大軌創立初頭の數年間は波瀾重疊(ちょうじょう)史といつてよく、第一次社長廣岡惠三氏が大正元年十二月に、更に第二次社長岩下淸周氏が大正三年十一月に辭任し、第三次社長大槻龍治氏の就任した大正四年八月までは、殆ど支配人金森又一郞氏の苦心慘憺たる頑張りによつて、氣息奄々(きそくえんえん)ながら業務が續けられたのである。爾後幸にして營業成績は年と共に發展し、遂に大正十年五月には平均一日の收入七千八百餘圓に達し、同十一年には哩數の延長關係はあつたが日に九千八百圓の平均收入を見るに至つた。

華城財界の雄

資本金も大正五年には四百五十萬圓に、同八年には一千萬圓に、同十一年には二千萬圓に、同十四年には四千萬圓に、更に昭和十二年には六千萬圓に累次增加し、終に華城財界に巍然(ぎぜん)たる地歩を占めるに至つたのである。

寒村の市街化

大軌電車の開通は沿線各地の文化的伸張と經濟力の普遍的分布を促し、人文の發達に貢献したことは數字的表現を超越して極めて大きなものがあり、開通後、小坂には理想的校舍を似て誇る樟蔭學園の設立を見、一小寒村に過ぎなかつた今里、布施、小坂等の一圓は大市街を形成し、石切、生駒への參詣、又はあやめが池、奈良等に遊覽の客が絡繹(らくえき)として絶えず、大軌の上六驛は東部各地を繫ぐ大阪の咽喉をなすに至つたのであつて、今日より生駒隧道の可否を論じた時代を追想すると眞に今昔の感に堪へない。この功は無論岩下翁を首(はじ)め大槻、金森各社長の努力に俟つことはいふまでもないが、初め斷乎として隧道掘鑿を主張して一歩も讓らず、不撓不屈萬難を排して遂にその目的を達した故人の勞を見遁すことは出來まい。

大軌の功勞者

大阪電氣軌道株式會社社長 金森又一郞氏談

私が故大林芳五郞氏を知つたのは、先輩七里淸介翁を通じてゞあつた。故人の性格を端的にいへば、剛毅にして俠氣に富み、寡默にして一諾を重んじ、賴まれたことは後へ引かず、やりかけた事業は損益を度外視してその責任を完うし、今の世の、利害によつて去就を決し、大事に臨んで責任を回避するが如き人達とは全くその趣を異にしてゐた。

大阪電氣軌道會社と故人とは最も深い縁故があつて、大軌が七里翁を中心として出願されたとき、故人はその發起人の一人として最初から關係した。當時他にも二つほど競願があり、結局それ等と協定して明治三十九年の暮認可されたのである。時恰も日露戰爭後の事業熱勃興の際とて、發起人間で引受株の爭奪戰を見るといつた景氣であつたが、愈創立の運びとなつた時は、財界の事情が一變して極度の不況を告げ、隨(したが)つて萬事意の如く進捗せず、景氣が稍恢復(かいふく)の曙光を認めた明治四十三年まで延期するの已むなき状態であつた。かうした風であつたから、最初無理やりに寧ろ喧嘩腰で株式を引受けた東京方面の發起人は、掌を反へすやうに逃げを張つたので、それ等發起人の引受株を何とか處分せねばならぬ破目となつた。この時故人は、會社の爲極力盡瘁(じんすい)して勞を厭はず、自らも多數の株を引受ける一方、有力者を説いて殘餘を引受けしめた。故人のさうした盡力と七里翁の奔走によつて、株の引受も漸く出來て創立の運びとなつた。

會社創立と共に第一に問題となつたのは、生駒山を越えるか、隧道を開鑿(かいさく)するかといふことであつた。そこで双方の案を比較研究し、且つ故人の熱烈な主張もあつたので、愈隧道と決定を見たのであるが、その工事については誰彼といふより大林君にやつて貰ふのが安全だといふことに衆議が一決したのである。その時も隨分と無理な折衝をして工事代金を負けて貰つた。何でもその工事を請負ふについては、大林組の内部にも可なり議論があつたと聞いてゐたが、故人の義氣はそれ等の反對を斥け、蹶然(けつぜん)として自ら第一線に立つてこの難工事を竣成したのである。

一方會社の資本金は僅かに三百萬圓に過ぎず、尚この隧道を開鑿するには少くとも三百萬圓はかゝるので、結局六百萬圓の資金が無ければならぬことになつたが、不足金は必要に應じて拂込の徴收や社債を募集して何とか切り廻しがつくであらうといふ豫定であつた。ところが實際はなかなかさうは行かず、この豫定が狂つたのに因をなして會社は危急存亡の窮地に陷つたのである。まして技術家の見積はどうしても安價たるを免れないのと、豫算以上に金利が嵩んだのと、一方總べての工事に意を注いで施設した結果建設費までが豫算を超過するなど、あれやこれやで七百五十萬圓の資金の必要を見るに至つた。當時の財界から見て、三百萬圓の資本金の會社で七百五十萬圓の金が無くてはならぬのであるから、可なり困難な問題に違ひなく、自然各方面より注意の焦點となつたのである。

既にかくの如き状態であつたから、大林組に對する工事代金の支拂の如きも澁滯勝であつたが、遂にはそれを支拂ふことも出來ないやうになつてしまつた。しかるにこの隧道工事は豫期に數倍する難工事であつて、故人がこれに拂つた犧牲と努力は實に莫大で想像も及ばぬほどであつたに拘らず、故人の熱烈火の如き意氣は遂に數多の困難を斥け、殆ど豫定期間に首尾よく完成を告げたのである。今でこそ一場の苦心談として、語る者も、聞く者も、たゞ思ひ出話に過ぎないが、當時を回想すれば、この工事は實に血と涙との結晶に外ならなかつたのである。普通の請負者ならば、かうした難工事を引受けて、しかも代金の支拂を受けないのだから、所謂足許に付込んで如何なる難題を吹き掛けたかも知れず、實際あの時會社の存亡は故人の態度次第でどうにでもなつたのである。しかるに故人は、會社の將來の爲惡戰苦鬪してゐる私に對し『仕事の方は決して心配をせぬやうに。大林ある以上如何なることがあつても貫徹する。それよりも會社の窮地を切り拔けて下さい。開通さへすればこの軌道が有利なことは火を賭(の)るよりも明かだから』と言つて、隧道工事の至難事業であることや代金未拂のことなどは、曾て一言も口へ出されなかつた。この故人の大人格と強い信念は、絶えず私達を指導激勵して、無限の慰安を與へたもので、我々當事者に對しどれだけ強い力となつたか知れなかつた。當時少くとも一種の眼を以て世間から注視されてゐた私の心情をよく理解し、衷心私を信じて呉れられたその友情は、涙のこぼれるほど嬉しく感じた。かくして社業を進め得たのは一に故人の賜に外ならぬのである。

愈開通の結果、乘客殺到して日々豫期以上の好成績を擧げ得るやうになつたのを我が事のやうに喜んで一日に二三度も電話をかけて、運輸成績を問ひ合はされたりした故人の親切は、實に感激そのものでなくて何であらう。たゞ遺憾に堪へないのは、殆ど寢食を忘れて奔走された會社整理の完了を見ずしてこの世を去られたことである。しかしながら大軌の功勞者の第一人者として、大軌の存する限りその德は永劫不朽のものである。

任俠と思慮の人

大阪電氣軌道株式會社取締役 鍵田忠二郞氏談

私が故人と相識つたのは、明治四十年頃、靱の七里淸介氏の宅で大軌創立問題で會見したのが初めである。大軌は、大阪に於て三派の競願になつてゐたものを、政府の勸説(かんせつ)で三派合同の上認可されたもので、最初七里氏が三派合同の創立委員長をして居られた關係から、その後故人とは再々お目にかゝつたが、如何にも太つ腹な、小事に拘泥しない人であり、友情に篤く、然諾を重んじ、如何なる事柄でも人の相談に對しては誠心誠意、眞情を以て接せられたことを見聞して眞に感心した。

故人の大軌に對する功勞については、私が贅言を費すまでもなく世人周知のことだが、私は故人が生駒山の開發について卓越した抱負を有つて居られたことを今更ながら追懷(ついかい)敬服する者である。故人は生駒山を大阪の公園とするには、思ひ切つた施設をなす要あることを私に説かれ、色々とその具體的なお話を聞いて私もその卓見に無條件で共鳴し、その抱負實現を企圖しつゝあつた時に、不幸歿くなられたことは眞に千秋の恨事である。今日大軌が生駒山の殆ど全部を買收し、山上にケーブルを以て連絡し、着々として施設を進めつゝあることは、皆これ故人の計畫であつて、後日その意圖を繼承する者として私は喜びに堪へないと同時に、故人も定めて地下で喜んで居られることゝ思ふのである。

今も尚最も私の印象に殘つて居るのは、生駒山隧道工事が崩壞して幾人かの工夫が生き埋めになつた大慘事の際のことである。故人は何物を犧牲にしても救ひ出すことが緊要であるとなし、自ら現地に臨んで努力されたので、これに感激した工夫の態度も實に誠實眞摯を極め、三十分交代で掘出作業に從事したのであるが、次の番のものは時間の來るのを待ちかねて、鑿(のみ)と槌を構へてゐるといつたその懸命の努力には實に涙ぐましいものがあつた。ところがこの慘事を社會に紹介すべく、新聞社の寫眞班がマグネシユームを焚いて寫眞を撮影した爲、その煙が坑内に充滿して息つまる苦しみを呈した。こゝに於て工夫連中は『我等が急援作業に懸命の折柄、陽氣らしく寫眞を撮つて坑内の空氣を濁すとは怪しからぬ』と感違ひをし、誰いふとなく『やつてしまへ』と一齊に寫眞班に向つて殺到せんとした。その時故人(現場には金森氏と私とが故人と共に居合せた)は、これを見るなり『素破大變』と驅け行き『待てツ』と大聲叱呼して今や殺到せんとする工夫の前に大手を擴げて立ち塞り、『誤解をしてはならぬ。決して陽氣に寫眞を撮影したのではない。君達が救援作業に如何に努力しつゝあるかを廣く世間に傳へたいといふのでやつたことで、いはゞ君達や遭難した同僚の爲にした誠意の行動だ。まして煙は直ぐに消えてしまふから、決して亂暴をしてはならぬ。もし承知が出來ぬなら先づこの責任者の大林を殺してからどうなりとするがよい』と大音聲で説明した。故人の聲で工夫達も事情が判り、何事もなく濟んだのであるが、あの荒くれ男が喚聲を擧げて殺到して來る前に立つて、これを抑止するには少くとも命を投げ出してかゝらなければならぬもので、故人にして初めて爲し得たといつても過言ではないと信じる。

日露戰後の師團擴張に際し、奈良市では聯隊設置の運動を爲したのであるが、當時私は奈良市會議長として專らその衝に當り、故人も本旨に賛成されて設置陳情の連名に參加されたことがある。そして愈その決定を見るに及び、故人は兵營工事その他色々と便宜を計つて奈良の發展に益したこと少くなかつた。故人は奈良にとつても大恩人といふべきである。

奈良の鹿と沿道の人出

大阪電氣軌道株式會社電氣監督 竹崎充毅氏談

大林氏とは直接の關係はありませんが、私は故人の一生一代の大事業であつた生駒トンネルの開通當時大軌側の電氣監督として隧道西口方面を擔當してゐました關係上、當時に於ける努力を思ひ出し、故人一黨(いっとう)の苦衷を想察して涙の滲むのを禁じ得ないのであります。

當時大軌の社運は幾度も危機に瀕して殆ど絶望的であつたが、故人は至難中の至難であつたトンネルの開鑿に熱中され、大抵の者ならこの難工事には匙を投げるところであつたが、流石に故人は思ひ立つたことは何處までも仕遂げるといふ一大決心を以て「五寸掘れば五尺埋まる」といはれた砂層地帶の難地域と戰ひ拔かれたのであります。私共はまだ乳臭い一書生であつたが、時々現場に故人の顏が見えると、誰もが一種の魔力に打たれたやうに奮ひ立つたもので、人心統御の呼吸に言ひ知れぬ威力を有つた方でした。岡技師長の草鞋脚絆(きゃはん)姿もよく拜見しましたが、全くあの工事は大林氏一代の運命の決勝點でもあり又試金石でもありました。

愈開通した時は天の岩戸が開いたやうな心持で、俄かに希望とそれに伴ふ責任を私共まで感じました。そこで生駒以東奈良までの地均しのレール固めに、初めて二臺の電車を試運轉さすことになつたが、誰がこの危險を冒して試運轉の一番乘をやるか、トンネルの土はまだ全く固まらぬし、工夫埋沒の不祥事の後ではあるし、何となく怯氣がついてこれを望む人がなく、社では懸賞金を出して一番乘りの志願者を募るといふ騷ぎでした。私はその最初の電車に乘つて奈良までこぎつけましたが、途中富雄あたりの人々は、レールの兩側に茣蓙や筵(むしろ)を敷いて珍らしいこの山の征服車を見物し、中には合掌してゐた老人さへもありました。交通に惠まれぬこの山中の人々が、大型電車の笛を聞いた初めの印象は如何でしたらう。愈奈良に近づくとこゝも人の山です。日は暮れてヘツドライトの光が長く線路に輝くと、この不思議な光芒をどう見たものか、奈良の山林から無數の鹿が飛び出して來て電車の周圍やレールの上に群り、これを逐ふのに困つたといふ奇談もあります。

奈良と大阪との交通がこの電車の開通によつて如何に有利に展開したか、私は當時を回顧するごとに故人の潑剌たる英姿を追想して今更ながら感慨に堪へません。

開通當時の大軌電車
上本町六丁目驛
開通當時の大軌電車
上本町六丁目驛
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