大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

十 第五回内國勸業博覽會工事 三十八歳―四十歳 1 工事

大阪築港工事は、上述のやうに豫期しない突發的事故によつて非常な苦難を嘗めたが、天は故人の前途に幸するものがあり、西村所長以下の溢(あふ)るゝ同情に救はれてさしもの難局をも突破することが出來、その秋頃より財界も漸く鎭靜に歸した爲、大林組各方面の工事は再び順風滿帆の境に復歸することを得た。

しかもこの秋、故人をして百年の基礎を確立せしむべき大機運が到來した。

大機運到來

時の大阪市長鶴原定吉氏は、就任以來、飽くまで一般市民の腦裡に日進月化の新大阪の淸新味を注入して我が國第一の商工都市たる面目を躍動せしめようと、日夜畢生(ひっせい)の努力を拂はれたものである。その現れとして第五回内國勸業博覽會を開催し、勃興大阪としての文化の粹を集めて現代日本の最も尖端的な進歩的な時代相を象徴させようと、天稟(てんぴん)の頴才(えいさい)を揮つて雄大な計畫を樹てられ、農商務省の容るゝところとなつて遂にこれが實現を見たのである。敷地として選ばれた天王寺の一劃は、見晴しのよい茶臼山の一部を取入れた十萬四千坪に渉る廣大な地域で、こゝに思ふ存分の設備が施されたのであつた。從來種々の名目の下に各種の博覽會が各地に流行開催されたが、我が國に於ては第五回博覽會のやうに大きな感激と印象を以て終始し、殊に大阪市民をして昂奮狂喜せしめたものはなかつた。

博覽會の内容

その内容も實に雄大で、工業館、機械館、美術館、敎育館、林業館、農産館、水産館、動物館、水族館、運動館、通運館その他各地方の特別館など、從來の博覽會に類型を見ない大規模のものであつた。就中(なかんずく)美術館は同會場内展望に富む丘阜(きゅうふ)上に巍然(ぎぜん)として輪奐の皎麗を誇り、電氣技術の粹を傾けた各種照明は光芒白雲に映じて不夜城を浮き出させ、又餘興場の各種催物に斬新奇拔の意匠を凝らすなど、我が國博覽會としては劃期(かっき)的の大計畫であつた。この大計畫を咀嚼して鶴原市長の意圖を滿足に發揮させようとするには、優秀な工事請負人の必要が起つて來たのであつて、當時請負界の權威たる淸水組、大倉組等がその選に入り、幸ひ大林組も指名の光榮を荷つたのである。

砂崎翁の俠氣

曾て故人の師事した大恩人砂崎翁は、駸々(しんしん)として伸び行く大林組の隆昌を我がことのやうに慶び且つ誇つてゐたが、偶博覽會の大入札を耳にし、この工事は是非共自分の愛弟子で、しかも大阪人たる故人に請負はしめたいとの俠氣から、前記東京方面の有力な同業者に對し『大阪に於ける晴れの大工事を他に取られたら大林組は殆ど致命傷である。どうか大林を男にして貰ひたい』と熱誠罩(こ)めて勸説(かんせつ)大いに努め、その大半は『砂崎さんのお顏を立てよう』と快諾し、潔よく自ら競爭の埒外に離脱して寧ろ大林組への落札を熱望するの友情さへ示され、砂崎翁平常の德望は端なくも一道の光明を投げたのであつたが、結局は淸水組との競爭となり、この榮譽ある博覽會の請負は遂に目出たく大林組の手に歸したのである。

請負決定

この工事は明治三十四年十一月二十五日に始まり、翌々三十六年二月末日に竣功せしめるもので、工費は三百十八萬圓といふ尨大なもの、しかも十萬四千坪に渉る地域を僅か十五ケ月を以て不夜城化するのだから、空前の大工事で且つ稀有の急工事であつたのである。故人及店員一同は天を衝くの意氣。

修羅場

日夜搬入の材料は山の如く、土工、大工、手傳、左官、石工等數千の勞働者が入り亂れての奮鬪は宛然(えんぜん)修羅場のやうな光景。しかし各部署を定めて協力一致、一糸亂れない作業振はさしもの大工事を遲滯なく竣功せしめたのである。

一年有餘に彌(わた)る故人の奮鬪は殆ど不眠不休といつてよく、眼さへ窪んだほどである。工事期間中同業者間の軋轢などもあつて一時故人を苦しめたが、故人の宏量はよくこれを解决して餘りがあつた。就中困難中の困難であつたのは、竣功期の間近に至つて追加工事が續出したことで、故人は畫龍點晴の氣分を以てその何たるを問はず快よく引受け、次から次へと消化して行つたのである。殊に電氣照明工事に至つては、今から見ると幼稚なものであつたが、當時としては我が國最初の試みといつてよく、專門技術者さへ經驗に乏しかつた爲、故人としては眞に骨を碎くやうな苦心を拂つたもので、幸にしてこの苦心は明らかに酬ひられ、開場後電氣の博覽會とまで喧傳喝釆されて非常な面目を施したのである。

幻出した電火の世界

元大阪電燈會社取締役技師長 木村駒吉氏談

内容外觀他に比類のないこの博覽會の特徴として、夜間開場は我が國初めての試みであり、大林組としてこの電氣應用の仕掛の爲に支出した經費は想ひ半に過ぎるものがあつたらうが、この設備によつて如何に觀衆の眼を驚かすかの興味ある宿題に唆(そそ)られた故人は、自己の利害を眼中に置かないで施工されたやうである。

電氣照明

本照明裝置は電燈の能力を十二分に發揮したもので、まづ正面六尺角の第五回内國勸業博覽會の文字を明滅式の電燈で表現し、本館全部にはイルミネーシヨンを施し、噴水塔には強力な電力を通じて赤色の水煙を空中に散飛せしめ、美術館の前には大理石の楊柳觀音を安置し、それにサーチライトを照射して時々變色せしめるなど、その當時としては殆ど世人を神祕的幽幻境に魅誘したものであつて、この苦心の結果は忽ち大評判となり、電氣の博覽會とまで持囃されて大成功を收めたのであつた。

餘興場は舞臺(ぶたい)を硝子張りとし、下側面から電氣照明によつて踊子に色光線を放射せしめようといふ計畫であつたが、初めはどうも巧く行かないので、踊子のカーマンセラ孃が泣き出すといつたとんだ餘興もあつた。何しろこの餘興場は十二月に着手して翌年の二月に完成せしめようといふのだから隨分無理な仕事であつて、しかもこの大仕掛な電氣工事には豫算が皆無と來てゐるのだから、故人のやうな利害に超然たる人でなければ出來ない仕事であつた。

第五回内國勸業博覽會場全景
第五回内國勸業博覽會場全景
第五回内國勸業博覽會場正門
第五回内國勸業博覽會場正門
第五回内國勸業博覽會
美術館
第五回内國勸業博覽會
美術館
第五回内國勸業博覽會
工業館内部
第五回内國勸業博覽會
工業館内部

構造の讃辭

在來博覽會の建物といへば、一時の間に合せ的バラツク式のものを常とし、甚だしいのは會期中雨漏り又は崩壞の虞れのあるものさへ多かつた。しかるに本工事の建物は半永久的ともいふべき頗(すこぶ)る堂々たる構造であつて、これは故人の意思として會期終了後も幾多市の文化事業に益せんことを望むの餘り、損益を度外視して選材及構造に苦心を拂つた結果である。

故にバラツク式とのみ想像してゐた一般人又は同業者に大きな感動を與へたもので、就中美術館などは開會當日、畏くも 陛下の御便殿に供され、且つ式場として朝野の來賓より絶大の讃辭を浴びたのであつた。後大阪市民博物館として三十餘年の久しい間、天王寺公園に儼然としてその雄姿を誇つて來たのも、その構造が如何に優秀であつたかを立證するに餘りがある。

後日東京驛建築工事の監督技師となられた金井彦三郞氏が、この内國勸業博覽會の建築物を一見し、『概して博覽會の建築には動もすれば會期中すら保たないものが多々あるのに、この博覽會の各館はいかにも堅牢親切なもので、皆半永久的の價値あるものゝみである。一班を見て全貌を知るといふが、大林組のこの製作を一瞥しただけでその代表者大林氏の人格技倆が察知される』と評された。この觀察は他日大林組が帝都の大玄關東京驛を引受けて、その大任務を果すに至つた一契機ともなつたものである。

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