大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

二十 選擧の應援 四十五歳―四十七歳

岩下翁の立候補

明治四十一年五月第一次桂内閣成り、その七月總選擧が行はれ、岩下翁は大阪市に於て立候補せられた。翁は桂公と多年の親交があり、その出所進退については公と豫め默契ありとせられ、財界の雄たる翁が更に政界に向つて躍進する機會とも見られ、翁の前途に對して重大な意義をなすものであつた。しかしながら翁が如何に財界の大立物であつても政界へは初陣であつたので、形勢は樂觀を許さぬものがあつた。故人は翁平常の眷顧(けんこ)に酬ゆるはこの時とばかり、畢生(ひっせい)の努力を拂つて應援した。故人の周到な畫策と機敏な戰法は大なる効果を收め、翁は最高點を以て當選せられた。

堂々たる去就

この選擧戰に於て西區を根據(こんきょ)に翁と鹿を爭つた三谷軌秀氏は、在來故人と親密の間柄であつた關係上、その援助を受け得るものと豫期して居られたが、岩下翁の立つに及んで、翁と故人との關係を熟知する三谷氏は、心窃かに故人の自己に對する援助を斷念してゐた。しかるに故人は親しく三谷氏を訪(とぶら)ひ、赤裸々に岩下翁應援の已むなき事情を開陳した。三谷氏はかくあるべしと既に豫知してゐた折柄であるから快く故人の立場を諒とし、寧ろ故人の僞らざる態度に敬意をさへ表した。不幸三谷氏は落選したが故人に對しては聊(いささ)かも怨恨を有たなかつた。恰もよし翌々四十三年九月の補缺選擧に際しては、故人は極力三谷氏を援けて首尾よく當選せしめ、友人に對する情誼を全ふした。三谷氏は故人の意氣とその去就の堂々たるに感激し、後日或る席上に於て下の述懷を漏らされた。

公明なる故人の去就

元代議士 三谷軌秀氏談

曾て予が岩下淸周君と代議士選擧に輸贏(しゅえい)を爭つた際、大林君は岩下君の謀將として猛運動を試みられたが、大林君は一方予とは懇親の間柄であり、その際に於ける苦衷は察するに餘りがあつた。仍(よっ)て大林君は豫め予に岩下君聲援の諒解を求められたので、予は寧ろ大林君の公明な去就に感服して、快くその誠意を謝したのであつたが、大林君は『貴君から友情の乏しい男だと蔑視されはすまいかと、實はそれのみ苦慮してゐたが、貴君の宏量でやつと安心した』と非常に喜ばれた。その選擧は財界の花形であつた岩下君を向ふに廻したゞけあつて遂に落選の苦を嘗めたが、大林君に對しては一點の惡感をもたなかつた。それよりも表面予の爲に努力すると稱しながら、陰に敵方を勢援した人も少くなかつた。敵となるも味方となるも選擧は一時的のもの、將來相互の友情に溝渠(こうきょ)の出來るやうな行動は好ましくない。大林君が岩下君を應援されたことは予にとつて非常な打撃たるはいふまでもなく、恐らく大林君の去就によつて勝敗が決せられるといつてよい位であつたが、大林君のやうに堂々とその立場を明にしてくれゝば、何等の不滿も怨恨も殘らないのである。男子は是非かくありたきものである。ましてその翌々年、天川代議士逝去の補缺戰に再び立候補した際には、大林君は眞先に驅けつけて來て、『今度はどうあつても貴君を當選させなければならない』といつて、總參謀の重任に當り、寢食を忘れて盡力された結果、幸に當選の榮を贏(か)ち得たのであつて、殊に請負業者方面の運動資金は大林君自らこれを支出して予に一金の負擔をもかけなかつたのである。かやうなことは尋常一樣の人には出來ないことで、大林君にして初めて爲し得るものと感謝に堪えない。大林組が今日の大成を見たのも故なきにあらずで、大林君の公明な心事が子々孫々に傳へられる結果と信ずるのである。

請負業者の組合

何時の頃よりか、大阪には請負業者の組合が成立してあつた。その目的は、相互の親睦を計り、業界の發展向上を期す、といふのであつたが、故人の目にはその組合が談合を事とする組合としか映じてゐなかつたので、故人が創業以來、業界の三惡弊を排除すべく幾多の苦鬪を續けて來た關係上、よしんば組合が談合を事とする組合でなくとも、相互親近の度の重なるにつれ、殊に涙脆い故人としては一面他の懇請に動かされ易い缺點があつたので、自然惡弊の渦中に捲き込まれ易いのを慮り、自己の主義主張を貫徹する爲には同業者との親睦何かあらんとの見地から、遂に創業以來十六年の久しい間獨立獨歩で進んで來たのであつたが絶對他の力に待たなければならない選擧場裡の人となるに及んで、心窃かに寂寞を覺え、同業者との和親を痛切に感じて來たのである。故人は『惡弊打破の自己の主張ははや既に同業者間に知れ渡つてゐる。今更談合を自分に強要するものもあるまい。それよりは當面の問題たる選擧を効果的ならしむる爲、この際組合に入會するのが良策だ』と決意したのである。

組合への入會

故人の性行として決意したが最後寸時も逡巡を許さない。自ら組合を訪ふて入會を申出ると同時に選擧の應援を懇望した。しかも選擧事務所費といつて數千圓の紙幣束を投げ出し、預り書も取らずに歸つてしまつた。組合は時を移さず役員を集めてその諾否を協議した。中には餘りに人を喰つた我利的手段なりと論ずる者もあつたが、金川新助氏の如きは有力は故人の支持者で、秀吉が毛利軍に本能寺の變を赤地に告げた襟度の大にも似て、寧ろ天眞爛漫で僞らざる故人の性行を賞する者が多く、且つ當時關西の請負界に於て嶄然(ざんぜん)覇を稱へる大林組の入會は、組合としての強みを增すものなりとの議が大勢を支配し、組合擧(こぞ)つて應援に決したのであつた。この有力な一團體の勢援は皷噪して大軍の進むに似、遂に三谷軍が大捷(たいしょう)を博するに至つたのである。

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