大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

編外 手向艸(たむけぐさ)(寄稿及談話)

責任は予にあり

田附政治郞

予は故人には永らく特別の交誼を願つたのであるが、學問的にも實際的にも、より以上に優れた人も多々あつたであらうが、一諾千金、利益を度外視し、身命を賭して責任の遂行を期し、正義の前には何ものをも怖れざる毅然たる性格の所有者であつた故人の如きは、容易に得られざる人であつて、この點私は常に多くの指導を受けた。

生駒隧道が崩落し、不幸にして從業員埋沒の慘事を惹起した時、私は早速故人の許に馳せつけて見舞の辭を述べたのであつたが、故人は黯然として端座し、『一切の責任は私にあります。實に大變なことをしました』と思はず落涙されたのを見て、予は大いに感動した。部下に對するこの限りなき温情があつたればこそ、大林主人の爲ならば命は惜しうないといふ決死的部下を幾千百人も有ち得たのである。

この偉大なる創業者の苦心と努力を基礎とした大林組が、天下の大林組としてその今日あるは決して偶然ではない。加ふるに故人の絶對信任を得た白杉氏が、謙抑して相變(かわ)らず一意專心當主を輔けて居られるのを見て、地下の故人も定めて靜かに瞑せられることゝ思ふ。

どつちが顧問やら

武内作平

故人とは相當永年に亙(わた)つて交誼があつた。曾て私は大林組の顧問といふ立場にあつたのであるが、却つて故人を顧問として色々と敎へられるところが多く、その遺語遺行の中、今日私自身の處世上の信條として居るものも二、三にして止まらない。就中(なかんずく)最も推服したのは、その寬容と聰明の點である。大林組の社員中には學校出の人も少くないが、これ等の人々が往々にして失策をすることがある。さうした場合、故人は決してその非を責めるといつたやうな事はなく、却てそこに一の道理を發見して、私に向つて、『武内さん、あの人達が私共の思ふやうに萬事が出來るのであれば、私と違つて學問はあるし、寧ろ私が彼の人達に使はれねばなりますまいよ。私に學問のないのと同樣、あの若い人達には體驗がないから、時々遣り損ひは當然で、私はこれを叱責するといふ氣にはなれませぬ』と衷心からいはれたこともあつた。その思ひやりは、世の所謂知つたか振りをして、使用人や部下を責める者に聞かせてやりたい位で、その寬容と聰明は實に將に將たるものがあつた。自分は性來癇癪持で頗(すこぶ)る短氣な方であるが、この點に關しては故人から大いに敎へられ、幾多の反省をして、白髮當年やつと性來の短所を幾分でも改め得たのは、大いに故人のお蔭だとこれを德としてゐる。

苦難の中に長じた人であるから、學問はしてゐなかつたにも拘はらず、その頭腦の銳敏さは全く感服の外なく、算數に就て協議する時など、自分達が算盤をパチパチ三十分もかゝつて漸くその答を得るのに對し、故人は約五分間程目をつぶつてゐたかと思ふと、チヤンと正確な答を算出し、『いくらいくらになりませう』と言つたものだが、それが曾て一回も間違つたことがなかつた。又多年の體驗により異常に發達した常識、即ち表裏自在の呼吸をチヤンと呑み込んで、よく大局を打算し、大事務家として、又大事業家としての才幹を隨所に發揮された。

故人は又事に當つて果斷であつた。見込み違ひなどの場合、これは駄目だと感づくと同時に、些の躊躇なく、方面を轉換すること疾風迅雷の如く、決して彌縫(びほう)的なことはやらなかつた。これを要するに、故人は德の人であり、意志の人であり、同時に情の人であり、どの方面から見ても完全な人物に近かつた。

私の最も感じたこと

田中 讓

故人は任俠の二字に活きた人である。男の中の男一匹として、男性的請負業者の代表的人物として、同業者のいづれもその風格を欽慕(きんぼ)したものである。今後斯界(しかい)にかゝる人を得ることは至難と思ふ。

無駄骨を折らさぬ好意

我が國は有史以來の大困難であつた三十七八年の日露戰役に大捷(たいしょう)を得て、更に國防第一の設備として、明治四十一、二年の交、豐橋、深草、宇都宮に師團增設を決し、豫算三千萬圓を以て急設工事を起したので、一流の請負業者は夫々多忙を極めたものである。

當時私の方も、丹波篠山七十聯隊の敷地々均工事を請負ひ、その現場監督の爲私も同地に出張して居た。恰も大林組はその地上の兵舍建築を請負ひ、故人も出張して自から何かと指揮して居られたが、一日私に『お話を致し度いから……』との事で、私は故人を旅宿に訪ねた事があつた。私の方の工事は九分通り竣工して一分が殘されて居た。ところが故人は、『殘部は私の方で引き受けたから貴君の方は竣功届をお出しなさい』との話であつた。私としては殘る一分の工事を遂行するのは左程まで困難ではなかつたのであるが、故人のこの一言には少からず驚かされたのである。蓋(けだ)し普通なら『君の方で請負つたのであるから、チヤンと殘りなく工事を完成して掃目を入れてお渡しなさい』と出る處を、故人は地均工事を最後まで完成さしたところで、後の工事の必要に應じて堀り返すのであるから、結局不用の努力に過ぎぬといふ意であつた。そこで私もこの理解ある同情的好意に喜んでそれに從つた。爾後同業者に對し、この事を話して故人のさつぱりした心意氣を推稱した。かういふ風に人の無駄を省かす爲に、自分が努力を惜まぬ遣り方は、どこ迄も兄貴らしい氣合であつて、同業者も物質的、精神的に非常な恩惠に浴し、佐藤組の如きは、わけて故人の援助によつて一時の危厄から脱したこともあつたと聞いてゐる。

大倉組と異る點

我國土木建築請負業者中の成功者は、東に大倉、西に大林と併稱されてゐるが、大倉男はスタートこそ請負業に置かれたが、中途、日淸戰爭時代の好況に際し各種の事業に手を出して一攫千金の富を成し、漸次その基礎を築いて今日の大をなし遂げられたもので、寧ろ請負業は從であつたに對し、故人は請負業者として終始一貫され、幾多の事蹟を殘し、實力を以て今日の大林組を築き上げられたのである。私は先代の遺德を思ふて、今日の巍然(ぎぜん)たる天神橋畔の大高樓大林組の前を通る毎に故人の面影を偲び、堂々たるその成功の目標に敬禮せずには通られぬのである。

決心した彼の橫顏

永田仁助

予は、種々の場合に於て、大林君の眞劍な肚に觸れた。殊に予は大軌生駒トンネル開鑿(かいさく)當時、岡技師長と一緖に脚絆(きゃはん)がけで測量に行つた大林組の一行の中に故人を發見した當時を思出す。

大軌の創立當時は、資本金三百萬圓を以てこの難工事を成功しようなどとは夢のやうにしか考へられてゐなかつた。創立委員の計畫が姑息なケーブル説に傾いたのも無理はない。予も生駒山のドテツ腹をくり拔くことは、並大抵のことではないと信じた一人であつた。或る地質學者から、『もし生駒トンネルの相談に干與(かんよ)せらるゝ場合があつたならば、斷然これに反對するがよろしい。第一あの地盤は、表面頑丈な花崗岩であるが、下層部は軟土であるから開鑿は不可能である、といふのが專門家の持論である』とのことを聞かされてゐた。假令(たとい)大林君がいかに邁往主義でも、この根據(こんきょ)ある學説を前にして我武者に掘鑿(くっさく)することは出來まいと思つてゐた。私は事實その後に於て大軌とは深い關係を持つたが、當時發言の機會はなかつた。たゞ社内でケーブル説が相當有力であるのに對し、技師側では冐險的に隧道説が唱道せられ、就中岩下氏は例の氣質であるから、勿論トンネルでなければ駄目だと主張し、大林君も犧牲的にいかな損失をも甘受して、自信ある掘鑿を始めるといふ元氣で、既に機械を米國に註文したといふのである。經濟的に考へても、大軌がこれ以上莫大な金をかけるときは致命的負債となるといふ立場もあり、予は多大の危惧を有つてゐた。そんな際、偶然一行と石切附近で出會つたので、しばし立話をした。この時一行がいかにも熱心で、且つ御大自身がかく先頭に立つて實地調査をやり、初志貫徹の猛意を有する實際を見て、その刹那『生駒トンネルは成功する』との豫感を得た。この豫感により、予の心境は、不思議にも前の悲觀を解消し、その後大林君に逢つた時、是非トンネル決行を實現せよと奬勵した。その時大林君は『社の中でも反對論者があるが、かうなると意地でも止められません。なに大したことはないと思ふ』と熱心面に現れてゐた。予は、大林君がこの意氣で何事でも成功させるのだなと、深く君の卓出した決意に感激したのであつた。

大林芳五郞氏の眞價

大林故人は、規則だつた學問こそしてゐないが、人間の出來てゐる點は古今獨歩といつてよく、實に洗練琢磨されたもので、この點が大林故人の眞價でもあり且つ大生命でもあつたと思ふ。而してその出來てゐた人間大林から放射された幾多の尖きが、故人の一生を飾つた輝しい美德なのである。その美德をたづねたなら枚擧に遑(いとま)あるまいが、私は、私自身直接味つた二、三を擧げて、人間大林を偲びたいと思ふ。

曾て私が今西林三郞氏經營の石炭店に番頭であつた或る時、商取引上の僅かの錯誤から、或る取引先より差押を食つたことがある。折惡しく今西氏が旅行不在中であつたので、私は已むなく平常今西氏と莫逆(ばくげき)の友たる故人の許に驅けつけ、先方の惡竦なる手段を詳述して前後の策を相談した。すると故人は『事の善惡は第二段として、差押などとは信用にも關し第一見つともないぢやないか。第一番に差押を解くのが先決問題だよ』と言つて、快よく各種の株券を貸與されたので、直ちに差押を解くことが出來た。當時故人は事業擴張の過渡期であつたから、手許に餘裕のある筈はなかつたのに、しかも友の急に赴くことの勇敢なるかくの如しである。「朋友の饗應には徐(おもむろ)に行き、その厄難には迅速に行け」との諺を實際化したもので、その時私は、有つべきものは友だ、と痛切に感動したのであつた。

それから或る時私は強い感冐に臥したことがある。偶いま床についたばかりの時故人が來訪せられて、御自分は忙殺されるほど繁多の身でありながら、それ醫師よ藥よと自ら先頭にたつて斡旋し、その他看護上に就き何くれとなく家人を指圖し、漸く小康を得るに及んで深夜歸宅されたことがある。滅私奉公といふが、私等のやうな小さい友に對してさへさういふ場合は自己を忘れてゐられる。私はその時、この人は何處まで親切な人だらうと、無限の親切味に沁み沁みと泣かされたのであつた。

かやうな故人の人間味が常に故人周圍の友に反映したのであらう。彼の日淸戰爭後に起つた明治三十四年の財界の大恐慌時に、その餘波たる金融梗塞に祟られた故人が、萬策盡きて遂に大林組の解散を決意するに至つた時、今西氏を首(はじ)め我々に至るまで多數の友人が、大林危しとの警報に期せずして馳せ集り、全力を盡して故人の城塞を死守したのであつた。幸ひに築港工事の當路者西村捨三翁や平田專太郞氏等の同情によつて崩壞を免れたが、かく多數の友人が期せずして馳せ集つたといふことは、無論故人平素の友情がかくさせたことを雄辯に物語つてゐる。西村翁等の同情によつて漸く愁眉の開かれた時、誰の發議であつたか、城塞死守の困苦を記念する爲、毎年この日に相寄つて麥飯(むぎめし)會でも開かうぢやないか、などと笑ひ合つたのであつたが、津々として盡きない相互友情の濃かさが窺知される。

故人の慈愛は、佛者の衆生縁の慈ともいふのであらう、全く一視同仁的のもので、友人に對しては無論のこと、家族に對しても、親戚縁者に對しても、部下又は僕婢(ぼくひ)に對しても、或は世間一般人に對しても、普遍的にその愛が灑(そそ)がれたやうに思ふ。私の知つてゐる下の一事の如きは、部下に對する慈愛を最もよく現してゐる。或る日、私は故人をその邸に訪ふたことがある。他に來客とのことで暫し別室で待つてゐた。すると故人の居間から故人の大喝が洩れて來る。私は只事ならずと案じてゐたが、大喝は二、三聲で歇み、數分の後故人は何時ものやうに莞爾として現はれ、今大喝した興奮の氣色など少しも見えなかつた。そして故人は徐に語り出した。『大きな聲をお聞かせして誠に恥かしい。實は君も知つてゐるA社員(今は故人)が、某請負工事の取下金を受取つた儘會計係に廻さないといふので、今本人を呼んで聽き糺して見ると費消したのでなく、全く紛失したもので、本人は自己の失態を愧ぢて密かに金策に狂奔中とのこと。相當大金ではあるが、虚言をつく男ではなし、この際前途有望な若い社員を傷者にするのも可愛想なので、今後を戒めて大喝を喰はし、俺からこの金を受けたといふことを絶對秘密に、忘れてゐたことにして早く會計に持つて行けと言つて、今その金を渡してやつたとこですよ。君はこの措置をどう考へるかね』といふことであつた。私は言下に『それは善いことをなさつた。A君は必ず貴方に對する忠良の臣となるでせう』と答へたのであつたが、果してA社員は一生涯心血を灑(そそ)いで故人に忠勤を抽んじたのであつた。餘程人間が出來てゐなかつたなら、かうした措置は容易に採れるものでない。しかもその時の故人の態度は、光風霽月(こうふうせいげつ)平然たるものがあり、故人の姿に後光でもさしてゐるやうに感じられた。一貴一賤交情乃ち見はる、といつた現金主義も差別もなく、他人の困つたといふ場合に對する故人の關心は想像もつかないほどの強烈さで、神のやうな美しさを常に示してゐる。

次にこれは多少その趣を異にしてゐるが、中々面白いので偲び草の一に加へよう。故人は非常に談話が好きで且つ長けてもゐた。私も至つて好きな方なので、談話に興が乘つて來ると夜の更けるのも知らず、遂ひ故人の宅に泊り込んだことが再三あつた。その最初の晩である。寢室に案内されると二ツの蓐(しとね)が延べてある。おかしいなと思つてゐると故人がやつて來て、初めて一方のが故人の蓐と判つた。そして故人の言が面白い。『かう二人で枕を並べて寢ると、床の中でも話が出來るからね』といふわけ。客人は別室に、自分は妻妾の愛に浸るといふのが普通人の例なのに、その談話の徹底的に好きなことゝ、友情の何處迄も厚いのに私はほとほと感心させられたのであつた。

その他故人の美德逸事が、各方面の先輩知友によつて數多讃へられることゝ思ふが、大林芳五郞氏の眞の姿を見ようとするなら、人間の出來てゐる點を捉へるのが、最も判り易い捷徑(しょうけい)と信ずるのである。

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