大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第五編 跋

家庭の父大林ふさ

この度、父の傳記が刊行されますので、私にも何か父の姿を語るやうにとのことで御座いますが、事業方面のことは、女の身の深くは解らう筈も御座いませんので、ほんのあらましに過ぎませんが、家庭でのことどもをかいつまんでお話し申し上げたいと存じます。

私は、父が大林組を創立いたしました明治二十五年に、弟の義雄は二年後れまして、二十七年に生れました。私共が生長の後、父は『お前達は大林組の大きくなるのと一緖に育つて來たのだよ』とよく申されましたが、さう申せば父は、事業が盛んになることを自分の生命として奮鬪されましたやうに、私共をも亦自分の生命として育てゝ下さつたやうに思はれるので御座います。世間の方々から『お宅のお父さんは子煩惱の方で、あなた方はお仕合せですよ』と度々伺ひましたが、しかしほんとうのことを申しますと、父が私共を可愛がつて下さつたことは充分に覺つて居りましたものゝ、その子煩惱と申される程度がどれほどのものであつたかは、ほんの近頃まで明瞭りと判りませんでした。それが物心ついて世間のあらましが解り、自分も子を有つ身となりましてから、やつと父の子煩惱さが人並勝れたものであつたことに氣付いたので御座います。まして昨今のやうに、父とも、母とも、夫とも訣れました寂しい境涯にあります私は、なほ更に亡き父や母が慕はれて涙に暮れ勝ちであります。そして丈部稻麿の詠はれた『父母が頭かき撫て幸く在れていひし言葉ぞ忘れかねつる』といふ歌が、昨今はひしと胸にせまつて來るのを覺えるので御座います。ですから今日の心もちで義雄が幼年の頃猩紅熱(しょうこうねつ)に冒されましたときの父を憶ひ起しますと、その愛の眞劍さを明瞭りと讀みとることが出來るので御座います。世に燒野の雉子夜の鶴との比喩も御座いまして、どちら樣に致しましても親御樣の子達に對する愛情にかはりのあらう筈も御座いませんが、その中でも人樣から人一倍の子煩惱と囃されますほどの父を有ち、その深い愛情によつて育まれましたことは、私共にとりて大きな誇りで御座いまして、思はずも天より與へられた幸福な運命を感謝せずにはゐられません。

朗かな父

家庭での父は、いつもにこやかに朗かでありました。父はいつも『家庭は命の洗濯場だよ』と申されてゐましたが、ほんとうに『内入りのよい人』で御座いました。私共姉弟の小さい時分などは、父は私共の遊び仲間となつて無邪氣に樂しい一日を過されたことがたびたびありました。とり分け相撲は健康法だと申されまして、私が十歳頃までは父が團扇(うちわ)を持つて行司の役を勤められ、座敷の眞中で義雄とよく相撲をとらされたことを憶えて居ります。又父は殊の外話好きで、時にはおとがひが落ちんばかりのお話や、時には當意即妙な落し話など、次ぎから次ぎと湧くやうに話されたもので御座います。かやうに家庭での父の朗かな慣はしが、下男下女にまでいつしか染み込んで、家庭がどことなく暢んびりと明るい感じがいたしました。世間によくありますやうな御主人が嚴格過ぎまして、下男下女などから烟(けむ)たがられるといふやうなことは少しもなく、皆が父の在宅を心から歡迎する氣分がありありと見えてゐました。しかし父は、來客などに對してましてはとりわけ謙遜でもあり、又謹嚴でもあり、その上幼少の時から苦勞をされた習慣もあつた爲でせう、各自の勤め事には中々嚴格で御座いましたので、家庭の統制はよい工合に中庸がとれてゐて、だらしがないといふやうなことは決して御座いませんでした。

怖い父

家庭の父は前申したやうに朗かでもあり、ましていつも父の温かいまなざしのみを見てゐました私共には、父が怖いなどと感じましたことは全く無いと云つてよいほどで御座いまして、ただ二ツあることを記憶して居ります。その一ツは、靱に住つて居りました頃は店と宅とが一緖になつてゐましたので、無心者が參りました時のことをよく記憶して居るので御座いますが、その折に父は大きな眼でその無心者を睨みつけましたもので、そのまなざしの凄かつたことは、私共までが身慄いするほど怖く感じました。親身の私共までがさうですもの、無心者は餘程怖かつたのでせう、いつもすごすごと逃げて歸つたもので御座います。さうした時に私は、いつもにこやかな父の笑顏がなぜあんな怖ろしい顏に變るだらうかと、子供心に不思議でなりませんでした。その後、怒るときは鬼神も怖れ、笑ふときは小兒も懷くといふ田村將軍のお話を小學校で敎はり、田村將軍とは父のやうな人ではあるまいかと、眞面目に考へさせられたことを覺えて居ります。

も一ツは私の娘時分の或る日、私が夙川の宅から今橋宅に參りまして、何か可笑しいことがあつて勝手許で笑ひ興じてゐますと、父は私を奧に呼び寄せていつにない怖い眼で私を睨み、『お前は、生駒隧道の崩壞で澤山の工夫が土に埋つたのを知つてゐるだらう。儂は世間へ顏出しもならず、かうして自宅に引籠つたまゝ謹愼をしてゐるのだ。それにお前は世間の手前も憚(はばか)らずに大きな聲で笑つてゐるとは何事だ。ちと愼みなさい』と叱られましたが、その時も隨分父を怖く感じました。不束者の私ですから、その他何回となく睨まれもし、お小言も受けたことがありませうが、ふだんの父の強い愛に打ち消されまして、以上の二ツの外は別に父を怖いと感じたことは御座いませんでした。

性急の父

父の性格と申しますといろいろ御座いませうが、平常最も際だつて目につきましたものは、氣急きとか、氣早とか、せつかちなどと申します性急な性格ではなかつたかと存じます。ですからグヅグヅしてゐますのが本當に嫌ひと見えまして、召使などの中で特に氣に入りの者は、目から鼻に拔けるやうな氣轉の利くすばしこい者であつたやうに思はれます。例へて申しますと、父が硯箱の蓋を開けてもし水の無い水滴を振つたやうなとき、父の言附を俟つ間もなく直ぐに水を運び、後徐(おもむろ)に水滴に水を充たして置くといふやうな者を氣に入つてゐたやうで御座います。よく店の小使さんが申して居つたことですが、お辨當を何處かに註文しました際など、必ず一、二回はまだかまだかと催促されましたさうで、宅のときでも何かの註文品が迅速に屆けられましたときは、大層機嫌がよく、あの店は商賣に熱心だといつて褒めちぎりますが、もし遲れでもしたときは不勉強だといつて信用されませんでした。ですからかうした父の性格をよく呑み込んで居られる商店では『大林さんの註文だよ、早くしないといけないよ』といふのが慣例になつてゐたといふことで御座います。それから茶のやうなものでも、一氣に飮み干すのが習慣となつてゐましたから湯加减が難かしう御座いました。或るお方から『お父さんは頭が人一倍銳いから氣急きなのですよ』と伺つたことがありましたが、氣急きでありながら失敗の少なかつたことから考へますと、或はさうであつたかとも思はれます。何にしましても、父は隨分仕事が多く、日々忙しくされてゐましたから、何事も敏捷に片付けて行かなければならなかつたので、自然それが習慣となつたのであるまいかと存じます。

慈みの父

それから父は思ひやりの多い慈悲深い性格で御座いました。子としての私などがその慈悲に浸つたことは數限りも御座いませんが、その中で特に敎訓の籠つた眞の慈悲ともいふ一ツの事柄を申述べて見たいと存じます。父は胃膓が餘程強かつた爲でせう、人並勝れた健啖で御座いまして、お腹の空くことも人並以上のやうに思はれました。ふと夜中に目を覺して空腹を感じられた時など、辛抱がしきれないと見えまして、夜中でさへ食事を攝ることが折々御座いました。私のまだ娘時代で御座いましたが、さうしたときには必ず私を起して酒肴を命じられるのが常で、私は睡い眼をこすりながら酒肴の用意をしたもので御座います。その際いつも父は『お母さんや女中を起すのでないよ。一日苦勞をしてゐるのだから緩つくり休ませて上げなさい。苦は樂の種子といふが、苦勞を知らない間はまだ人間になりきらない人だよ。お前の行末も樂をさしてやりたいから、かういふ時に苦勞を敎へて上げるのだよ』と申されて居りました。實際父の申されます通りで、一家の世帶のきりもりから子供の養育に當つてゐられる母の苦勞、それ掃除よ洗濯よと一日立働いてゐる女中達の苦勞、父はその苦勞に對する深い思ひやりを有つてゐたばかりでなく、世智辛い浮世の樣も辨(わきま)へずに、餘りにも樂々と育つて來ました私に、少しなりとも苦勞の味を敎へてやらうとの父の眞の慈悲、今に父の思ひやりを追憶します度毎に、その有りがたさが身に滲むので御座います。

人の喜びを無上の樂みとした父

父が旅行をしますと澤山の土産物が送り屆けられたもので御座います。九州旅行のときの大島飛白、名古屋旅行のときの鳴海絞、東京旅行のときの竺仙の小紋や浴衣地、城ノ崎旅行のときの桑細工などは、私の記憶にのこつてゐる主なもので御座います。そしてそれが一反とか二反とかいふのでなく、一行李も二行李もといふのですから、私などは何時も驚かされたもので御座います。そしてその澤山の土産物をどうするのかと申しますと、年齡に應はしい縞柄を撰みまして近親や社員の方達などに差上げて、その喜びを眺めていかにも嬉しさうに父自身が喜び樂むので御座います。父は世間から豪宕大腹(ごうとうたいふく)の人だと申されてゐたやうですが、性格が豪宕大腹な爲に澤山の土産物を買つて歸るといふよりも、人の喜ばれるのを見て樂むのが無上の道樂であつたからと思はれるので御座います。ですから土産物を買ひます最初に、こんな品を土産に差上げたなら嘸ぞ喜ぶであらうと、そのことばかりを考へてゐられるので、自然その量も多くなるのではあるまいかと思ひます。家庭の父がいつも朗かでありましたことは前にも申しました通りでありますが、とり分け機嫌のよかつたのは、人樣に喜んでいただいたときであつたやうに存じます。晩餐の折など『今日は誰君をかうしたことで喜ばしてやつたよ』とか、『工事が首尾よく竣功してお施主から大層喜ばれたよ』といふやうに、さうした時には二度も三度も同じことを繰返しては飮み、繰返しては飮み、それを無上のお肴として御酒をいただいたもので御座います。隨分馬鹿げたことのやうでは御座いますが、父の成功にはこうした性格も一德となつてゐるのではあるまいかと存じてゐるので御座います。

父の趣味

これと申すほどのものは御座いませんが、何んと申しましても畫幅を一番に好まれたやうに存じます。とりわけ橋本雅邦先生の畫を最も愛好し、その數が遂には百數十幅に達しましたので御座います。父はなぜ雅邦先生の畫を好まれましたか明瞭りとは存じませんが、洒脱高遠(しゃだつこうえん)とでも申しませうか、先生のその人格に敬服もし、又父自身の性格からしましてもその雄渾(ゆうこん)の筆致に心醉された爲ではなからうかと存じます。かやうに父は當今の流行り言葉で申す雅邦フアンの第一人者であつただけ、先生と父とは至つて昵近の仲であつたやうに伺つて居ります。いつぞやも御子息の永邦先生と御高弟の春邦先生がお揃ひで、私方の夙川邸に二、三ケ月も御逗留(とうりゅう)になつたことが御座います。父は又雅邦先生の名筆をかくも多く蒐集しましたことが自慢の一ツで御座いまして、折にふれ同趣味の方を御招きしたときなど、本屋と離れを繫ぐ十數間ばかりの廊下に、豫め用意してある銀襖(ぎんぶすま)を立て列べ、その間に數十幅を掲げまして、その日のおもてなしに供したことが度々ありました。そしてその折の掲揚と後と仕舞ひとは何時も私の役目で御座いました。これは餘談ですが、軸物の扱ひは、その卷き加减などが相當に難かしいもので御座いますが、幸ひ武岡豐太樣からいろいろと御敎授を受けましたので、無難に役目が勤つたので御座います。しかるに父の歿後、家政整理の爲已むなくその軸物の大部分を賣立て(めたて)たので御座いましたが、私としては永い月日手馴れもし、まして父の生前に愛好された品であり、それと別れなければならない運命にさし迫つた時は、愛着の念と離別の悲しみとが一時にこみ上げてまゐり、しばし泣くより外は御座いませんでした。

父の自慢

父は香の物が大層好きでとり分け澤庵を最も好まれました。その澤庵を漬けますのも、大根の撰擇(せんたく)からその干し加減や鹽(しお)加減、又は重石の末に至るまですべて父の指圖で行はれたもので御座います。普通大樽一丁に鹽が三升位とされて居りますやうですが、それが七升鹽といふのですから隨分鹽辛いもので御座いました。それを十二、三丁も漬け、その外に芥子(からし)漬、薤(おおみら)漬、茄子の鹽漬、梅干などに至る迄まことに大袈裟なもので、夙川邸の漬物部屋は煉瓦造で十坪ほどもあつたやうに記憶してゐます。中でも芥子漬が最も御自慢で、漬け上ると親戚や昵近の方々にお配りしたもので御座います。そして澤山の芥子を煉るときの賑かさは、私宅の年中行事の一ツとして今に忘れられない面白い思出で御座います。又茄子漬なども相當に鹽の量が多く、五、六年たちましたものを寒中鹽出しをして炊きますと、味は少し落ちてゐましても靑々として新品もそつくりなので、よくお客樣を驚かして喜んで居られたもので御座います。梅干は主に申年のものが多く、年號の付いた大きな甁がずらりと棚に列んでゐたもので御座います。

父の服裝

父は若い時呉服商を營んで居りましたので、呉服物の鑑識は人並勝れて居りました。自然縞柄や、織や、染などの良い品に對しましての好みも深く、氣に入つた品は有るが上にも買取つたものでして、その整理には係りの者が一ト苦勞であつたやうに思はれます。しかし父は數ある衣裳をよく記憶されて居りまして、外出のときなど、何々を出せと申されるのですが、却つて係りの者が狼狽へることなどもありました。かやうに數ある衣裳を有つてはゐましたが、元來は地味な澁いものを好まれましたやうで、父の若い時は結城に博多といつた何處となく奧ゆかしさがあり、それが當時のことですから凛々しいいなせの風に見えたと誰方かも仰しやつて居られました。晩年は五ツ紋でこそあれ主に紬(つむぎ)地を用ひて居られました。序(ついで)に申しますが、數ある上に次から次と衣裳を拵(こしら)へますことは、まことに贅澤のやうに考へられますが、少し古くなつたものは惜氣なく近親縁者に差上げるのを樂みとされてゐたもので、數着て數喜ばせるといふことが、お土産を澤山買つて參りました時のやうに父としての樂しい道樂の一ツであつたやうに思はれます。それから父は衣服の裁ち方なども大層上手で御座いました。

電話の父

これは大層面白いことなので申添へますが、父は御華客とか又は先輩の方々などに對しましては、とり分け謙遜で御座いましたので、電話のときの口上なども至つて叮寧(ていねい)で御座いました。そして電話のことで御座いますから、一々お叩頭(じぎ)をする必要はありません筈なのに遂ひ平常の習慣からハイハイと覺えずお叩頭が出て參り、それが次第に激しくなりまして最後に『左樣なら』と言葉を切るとき、お叩頭が利き過ぎまして思はず送話器に額を打當てることが度々ありました。私がまだ幼い頃、送話器に額を打當てる父の樣が子供心に面白いものですから、父が電話室に入りますと、義雄と一緖にソツと外から硝子越しに父の樣子を窺ひまして、若しハイハイと堅くなりますやうな氣配が見えますと、「それ今に打當てるよ」といつて見守つて居りましたもので御座います。もし父が最後に打當てまして「オヽ痛い」と額を抑へながら顏を顰(しか)めて電話室を出て參りますと、私共二人がドツとばかりに拍手喝釆したもので御座います。

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