大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

三 阿部製紙工場工事 二十九歳

蛟龍は遂に雲を得た。その卓越せる技能と誠實な仕事振りは、雌伏三年、多少巷間の認識を博するには至つてゐたが、未だ以て全幅の信任を得るまでには達してゐなかつた。

稀有の大工事

折しも明治二十五年一月十八日、請負總額十二萬一千圓(現時ならば少くも百萬圓程度のものであらう)總煉瓦の大工場に加へ石造倉庫十棟より成る、當時の大阪に於ては稀有の大工事たる阿部製紙工場工事を故人は一躍して取得したのであつた。

阿部製紙工場全景
阿部製紙工場全景

衆人環視

當時大阪の主なる請負業者は大溝組、川尻組、金川組、萩組、小池組、入江組、大阪土木、有馬組、橋本組、木村組(橋本、木村兩組は主として顧客先の工事を消化し、入札工事には餘り關係しなかつた)等であつて當時の故人は無論これ等同業者間に餘り多くを知られてゐず、『大林とはどんな男だい』といつたやうに、故人は彼等の齒牙にだに掛らないほど小さな存在であつたのに、その無名の請負師が忽焉として風の如くに來り、かゝる稀有の大工事を請負つたのであるから、同業者よりは非常な驚嘆を以て迎へられたのは勿論のことで、自然羨望、呪咀、嫉妬、猜疑等の的となり、未だ内容の充實しない無名の故人の手によつて果してこの大工事が滿足に竣成されるだらうか、『資金難の爲中途で腰を折るだらう』又は『期限を失して違約金を徴收せられるだらう』或は『杜撰の計算は多大の損失を招くだらう』或は又『創業日猶淺く優秀な輩下を有たないから出來榮は劣惡のものに歸するだらう』などと、所謂他人の頭痛を疝氣(せんき)に病むといつたやうな暴評とりどりであつた。かやうに衆人環視の中で工事を進めて行くのだから一面如何にも華やかな觀はあつても、故人にとつては謂はゞ請負界への門出、將來の運命を決する大試驗場ともいふべく、一字一畫たりとも忽に出來ない大事の工事であつた。

月桂冠

幸ひ故人には天才に加ふるに斬新卓拔な大手腕があり、まして熱誠を罩(こ)めた血眼の奮鬪は、遂に故人をして月桂冠を戴かしめたのである。實に周到の段取、能率の增進、新工法の實施、材料の精選、勞働者の統制等、水際立つた優秀な施工で、期限内に竣工引渡を遂げたばかりでなく、一毫の非點だにないその出來榮は、阿部製紙各重役をして激賞措く能はざらしめ、同業者間の危懼も誹謗も忽ち一掃することが出來、寧ろ同業者をして尊敬の念さへ拂はしめたのである。

尚同社の故人に對する信任が如何に強烈であつたかは、同社幹部の一人であつた松本行政氏の如き、自己の愛甥伊藤哲郞氏を故人に託してその指導を乞ふに至つたのを見ても明瞭である。伊藤氏は當時二十三歳の靑年、後日白杉龜造氏と共に故人の片腕となつて大林組の大をなした大功勞者である。

かくして故人は請負業者としての大試驗に登第したのであつて、將來の運命に對する第一階段を力強く昇り得たのである。曾ての名も無き靑年請負業者は今や一躍して大阪有數の請負業者として認められるに至つた。

朝日紡

しかも本工事進行央の明治二十六年三月、更に八萬三千圓の朝日紡績工場工事を請負つたことは、同業者をして驚異を通り越して恐怖の念さへ抱かしむるに至つたのである。

さりながら同業者の『杜撰の計算は多大の損失を招くだらう』との推測は、多少事實に近いものがあつた。尤も計算は周到細密のもので杜撰の評は當らないが、些少とはいへ損失に終つたことは事實であつた。しからば何故に損失を招いたか、下にその原因を述べて見よう。初め故人は本工事の企あるを聞知した時、時機到來を叫んで躍動したのであつたが、懷中蓄ふるの資は僅かに千金を出でない。少くも萬金の資が無かつたなら手が出せず、回天の事業空拳を奈何せんやで悲憤の餘り夜さへ睡れなかつたほどである。

片山氏の援助

こゝに於て故人は先づ資金の調達に狂奔し、幸ひ片山和助氏の同情によつて畧(ほ)ぼその目的を達することが出來て欣喜雀躍(きんきじゃくやく)したのであつた。片山氏は長く靱に住し、故人の先考德七氏とは昵懇の間柄とて、豫(かね)てから故人の力強い支援者であり、眞摯にして僞らざる好漢大林を愛するの餘り、故人をしてこの機に乘じて雲霓(うんげい)の志を伸ばさしむべく、遂に五千圓を限度として資金の調達を約されたのである。その他故人は母堂の臍繰りまでも引出して兎も角所期に近い資金を調へ、勇躍して御工事を取得したのであつたが、一萬足らずの資金では轉(うた)た囊中の寂寥(せきりょう)を嘆ぜざるを得なかつた。ましてや創業時のことゝて世の信用も薄く、材料の多量購買による利益など殆ど望まれなかつた。例へば木材等の如きも、一部分の工事を區切り、進行につれて少量づつを購入するの煩を忍ばなければならず、加ふるに故人の材料精選癖が累をなして購買費の嵩んだことも損失の一原因であつた。更に見遁すことの出來ない一事は、大林としての最初の名聲を博する爲、勞働者に對して比較的多分の賃銀を支給した點である。かゝる諸原因から本工事に於て些少の損失を招いたのは勢ひ已むを得なかつたのである。

無形の利益

かくして故人は有形的には多少の損失を招いたのであつたが、無形の利益に至つてはその損失を償ひ得て餘りがあつた。即ち施主側並に同業者、その他一般より受けた絶讃と信用の如きは、何ものよりも至高至大のものであり、殊に勞働者が故人の理解ある同情に競ひたち、互に相勵み、相輔け、畢生(ひっせい)の努力を拂つて奮鬪して呉れたればこそ「期限内の竣功」と「工事の優良」とを期し得たのであつて、爾後彼等多數の勞働者が大林の工事といへば先を爭つてその傘下に馳せ參ずるの基礎を作り上げたが如き、所謂「損して得とれ」の譬(たとえ)を如實に示したものである。

支拂の迅速

その後故人は常に『僅かの賃銀を吝(おし)むのは愚の骨頂だ。仕事が粗雜で能率が上らず結局高いものに歸着する。

材料代などもその通りで、支拂が確實で迅速であつたなら廉くて良いものが早く手に入るものだ』と言つてゐたが、これが購買に對する故人の最後まで抱持した信條であつて、阿部製紙工事に於ても、資金貧弱の結果、半面血を吐くやうな苦しい場合もあつたが、一回たりとも支拂期を愆(あやま)つたことがなく、爾來今日に至るまで、この支拂の迅速と確實とは大林組の社是の一つとして踏襲されてゐるのである。

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