大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第三編 後記

五 大恩人片岡直輝翁

故人は岩下翁の大援軍を得て間もなく、更に大阪財界の大御所たる片岡直輝翁の大援軍を迎へたのである。岩下翁と片岡翁とは巴里生活の壯年時以來、刎頸(ふんけい)の友たる關係もあり、岩下翁より片岡翁への推擧宜しきを得た爲もあらうが、片岡翁が如何に故人を愛されたかは、(一)故人の請を容れ廣島瓦斯及廣島電氣軌道竝に阪堺電車等の創立に行を共にせれたこと、(二)故人に最も關係深い大軌の整理に當られたこと、(三)北銀破綻に際し大林家の救濟に當られたこと、(四)故人の遺言を容れて現社長を我が子の如く育まれたこと、(五)大林組の更生に對し自ら相談役となつて後援の實を擧げられたこと、等によつて窺ひ知ることが出來るのである。

三大知己

現實的援助は岩下翁に負ふ所が多く、精神的援助は片岡翁に負ふ所が甚だ多かつた。かくして故人は華城財界に於ける二大重鎭の旗指物を自己の陣營に堂々と押し立てたのだから、その陣容の華々しさに誰人も羨まざるは無かつた。加ふるに個人關係の知己として上原元帥を得てゐる。「百歳の下に知己を求む」と言つた古聖賢の語は、その容易に得易からざるを示したもので、一人の知己さへ得難いのに、故人は數歳にして三大知己を得たのであつて、故人は世にも稀な幸福の人であつた。この一事を以てしても故人が尋常一樣の凡夫でなかつたことが證されるのである。片岡翁と故人との關係は、片岡記念帖に寄せた白杉氏の記述が最もよく穿たれてあるので、これ亦こゝに轉載することにした。

片岡翁と大林組

白杉龜造

私が片岡翁に知られましたのは、明治四十一年、先代主人大林芳五郞氏に伴はれ、瓦斯會社の社長室で初めて温容に接した時からであります。爾來二十餘年間種々御愛顧に預りましたが、その間圖らずも大林組の危急存亡といふやうな重大な局面に遭遇しまして、まことに容易ならぬ御庇護と御指導を蒙(こうむ)つたのでありました。私はそれらの事柄を申述べまして、故翁の俤(おもかげ)を偲びたいと存じます。

時は明治四十一年末と記憶して居りますが、廣島に瓦斯會社を起します際、先代主人の許に或る人から起業の交渉がありました。だが畑が違ひますので、先代主人は直ちにこれを專門家たる翁に相談をせられたのであります。當時翁と先代主人との關係は、交際の時日も至つて淺く、單に知り合といふに過ぎずして、未だ事を共にするといふやうな親密の程度までには進んでゐなかつたやうでした。しかるに何ぞ圖らん、僅に一宵の會見によつて起業の相談が纏り、急轉直下忽ちその成立を見、翁自ら社長の任を引受けられ、先代主人は取締役に就任したのであります。これが翁と先代主人とが事業を共にした抑(そもそも)の初めであります。元來新事業などには可成沒交渉の態度を採られた極めて物堅い翁平常の性格より推しまして、僅か一宵の歡談によつて廣島瓦斯の生れましたことは、非常に驚くべき事だと私はその時思ひまして、偉い人の肝膽(かんたん)相照すその動機が如何にも神秘的であり、その襟度の奧ゆかしいのにつくづく感心したのでありました。

尤も先代主人に對する岩下翁、渡邊翁等の推輓(すいばん)もあつた爲でせうが、爾後翁と先代主人との交は次第に親密の度を加へ、その翌年更に阪堺電氣軌道會社を起し、翁の社長たると共に先代主人これが取締役となり、又一方廣島電氣軌道會社を創設し、先代主人をしてその社長に就かしめ、翁は平取締役と爲つてその事業を輔けられた等、日露戰後事業熱の旺盛な時代とはいへ、恰も影の形に添ふ如く、かくも事業の經營を共にせられたことは、如何に翁が先代主人を信任誘掖(ゆうえき)せられたかを知るに餘りあるものであります。

その後大正三年に至り、日露戰爭の餘波を受けた我が邦の財界は萎靡窮塞(いびきゅうさい)遂に破綻者相次ぐの不祥事を釀(かも)し、就中(なかんずく)北濱銀行の破綻は、同行に至大の關係を有つ大林組としてその打撃は尋常一樣でなかつたのであります。責任觀念の強い先代主人は、直ちに自己の不動産を擧げて北銀に對する債務の辨濟に充てんと決意し、これが金策につき翁の御盡力を請ひましたところ、快くこれを諾され、渡邊千代三郞氏と共に、東西一流銀行その他特殊銀行に至るまで十數行に渉り、これが調達方に極力御盡力下されたのでありましたが、當時金融界の梗塞は想像以上でありまして、折角の御盡力も遂に効を奏するに至りませんでした。そこで已むなく大林の私財を擧げて北銀に提供し、以て債務者たるの誠意を披瀝することに致しました。流石の翁も、その時ばかりは我が事成らずと嘆ぜられ、たゞ翁のお顏を立てる爲、希望の半額位を融通しませうと言つた一、二の銀行があつたことがせめてもの慰めであると申されました。しかし私共は、その御熱誠なる御盡力に對し、感謝の辭さへ無いほど恐縮いたしました。

同時に一方大阪電氣軌道會社の窮状は大林組にとつて大なる惱みでありまして、さなきだに業務不振の大軌が、岩下社長の蹉跌と七里專務死去の厄に遇つて孤城落日の觀を呈し、獨り金森支配人のみ奮戰苦鬪を續けて居られましたが、財界四圍(しい)の不況は策の施すべきやうもなく、遂に社債の利子さへ支拂ひ兼ねる窮境に陷つたのであります。當時大林組は同社に對する大債權者たる立場上、大軌の整理如何は殆ど自社の興廢(こうはい)にも關し、或は死命を制せらるゝや否やといふやうな重大問題でありましたので、是非共同社の振興を企圖しなければならなかつたのであります。先づ焦眉の急として、專任重役補充の必要に迫られましたが、容易に適任者を得るに至らず、結局翁の配慮に俟つの外途無しといふことに委員會の議が纏り、私も一員として打揃ひ翁に懇請致しましたところ、幸に快諾せられまして、數日の後大槻龍治、永田仁助、藤野龜之助の諸氏その他有力なる方々を網羅する大軌内閣が組織されたのであります。こゝに於て漸く同社整理の道程に入ることが出來、さしもの窮状も次第に復活されて參つたのであります。

幸にして大軌は復活の曙光を認め得ましたが、更に大鐵槌は容赦もなく大林組の頭上に落下して參りました。それは忘れもせぬ大正四年の四月、しかも多事多端なるその際に於て、先代主人が病に臥したことであります。大林の一家一門は申すに及ばず私共に至るまで、熱誠をこめて醫療看護に盡したのですが、遂にその甲斐もなく、翌五年一月溘焉(こうえん)として世を去るに至りました。病褥(びょうじょく)に呻吟(しんぎん)すること十ケ月、その間幾度か病床を見舞はれた翁の温い情に、先代主人は何時も感激してゐました。そして病漸く革(あらた)かなるとき一門一族を集め、席に翁と渡邊千代三郞氏を請じ、遺兒竝に後事一切を託されたのであります。

主人を失つた我が大林組は、百難一時に襲ひ來つたやうな累卵の危期に瀕したのであります。先代病臥中は、北銀の態度も好意と同情を以て追求の手を緩められてゐたのですが、歿後幾干ならずして愈債權急收の宣告を與へられたことは、當然の歸趨だらうがその苦痛は言語に絶するものがありました。さなきだに財界の不況と金融界の梗塞とによつて、事々物々齟齬のみ生ずることが多く、如何にせばこの難關を切り拔くぺきか、私の一生涯を通じてこの時ほど途方に暮れたことはなく、最早翁の御援助にお縋り申すより外何等方途は無かつたのであります。

私共がこの重圍(じゅうい)の中に奮鬪してゐた際、翁は私共を激勵して『決して心配するな。整理に就ては極力援助する。商賣は積極的にやれ』と申されたのであります。翁のこの一語は、私共大林の者にとつて百萬の味方を得たやうな心地がしまして、安堵して業にいそしむことが出來たのであります。その際でした。翁は今西、高倉、谷口、天野、志方の諸氏と連名で「亡友之遺囑も有之將來小生共後援監督可仕候」云々の友情の籠つた依賴状を各方面に配られて、先代歿後の大林組をば救つて下さつたのであります。

當時北銀の追求は愈辛辣を極め、北濱五丁目の元の帝國座を賣却するに際し、北銀と關西信託との間に價格拾八萬圓にて賣買の契約が成立し、所有者たる大林家の事後承認を求めて來ました。如何に全財産を北銀に提供致しましたとは申せ、所有者に一應の相談もなく、まして價格の餘りにも低廉なるに至つては、その不條理と冷酷の態度に憤慨せざるを得なかつたのです。よつてこれを翁に愬(うった)へましたところ深き同情を寄せられ、直ちに北銀當事者にお話下さいましたが、時既に遲く、その契約を飜すことが出來ぬ事情もある由で、今回は事後承認を與ふべしとのお言葉に從ひ、遂に泣寢入りとなつてしまひました。しかし翁は北銀の當事者に對し、將來を戒められた模樣でありました。果然その後は頗(すこぶ)る寬大の態度を示すやうになつて參り、豫期以上良好に整理を進めることが出來たのであります。これ全く翁の御威德の賜と永久忘れることの出來ぬ次第であります。

爾後大林組は、翁の多大なる御庇護によりまして、業務は歳と共に進展し、社礎漸く固く、大正八年三月、さしも至難を極めた財政整理も首尾よく完了致しましたので、一夕翁を首(はじ)め御後援を願つた方々をお招きいたし、社長並に一門の人々と共に親しくお禮を申上げたことがありましたが、その時翁は心からお欣び下さいまして、涙さへ浮べて居られたやうでした。

同時に大林組は、合資組織を株式會社に革(あらた)めましたが、その際勤續滿十年以上竝に將來十年に達する社員に對し、その功勞に酬ゆる爲贈與すべく、資本金の四分の一を割いて之に充當する案を立て、豫め翁に御相談申上げましたところ、翁は『是れなる哉』と膝を叩き、時勢に伴ふ勞資協調の名案なりとて大いにこれを賞讃せられたのでありました。流石は我が邦に於ける理解ある經濟界の大巨頭なりと心竊(こころひそか)に敬服いたしました。

組織變更と同時に、猶末永く翁の御庇護に預りたく、私共は翁を相談役に推戴したいといふ萬腔の希望を持つてゐたのですが、餘りに虫のよい無遠慮のことゝ思ひまして、しばし躊躇して居りましたところ、私共の希望を何處からお聽きになられたのか、特に社長竝に私をお呼びになり、『希望があるさうだが遠慮は入らぬ。相談役になつて上げやう。しかし前以て申置くが、一株の株式たりとも又半錢の報酬たりとも、もし持參するやうなことがあつた曉は、直ちに相談役を謝絶することを條件とする』との事でした。何處までこのお方は親切なんだらう、そして何といふ心事の高潔な方なんだらうと眞に私は泣かされました。爾來決算期毎に決算書類を御覽に供しましたが、いつも他所事と見えぬほど心から喜ばれました。

以上述べましたやうに、翁の大林家竝に大林組に施された恩愛が餘りに大なるが故に、觀方によつては或は理性を飛び越えた感情的のものゝやうにも想像されませうが、如何に愛兒の如く育まれた大林組とはいへ、理性の判斷を誤られるやうなことは絶對にありませんでした。例へば、翁の御紹介を請ふことが度々ありましても、一回たりとて嫌と申されたことがなく、そしてその紹介状は必ず御自分にお書きになられました。而して紹介状の内容は必ず「差支へなき程度に於て大林組を賴む」といふことでした。かく聲望ある地位に在られながら、嫌と申されたことのないその愛情、紹介状が必ず自筆であつたその嚴格、猥りに自己の權威を揮つて他を強制せられざりしその謙遜、これ等の事實を連鎖して考へて見ますと、翁の大林組に對せらるゝ心事をよく窺ふことが出來るのであります。

その他古武士の典型とも申すべき翁の一言一行は、總べて皆大敎訓たらざるはなく、二十年間翁より享(う)けた活ける敎訓を靜に追想します毎に、しみじみとその尊さが仰がれるのであります。

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