大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

編外 手向艸(たむけぐさ)(寄稿及談話)

忘れ得ぬ一人

松方幸次郞

私と大林さんとの交渉は至つて少く、單に北濱銀行破綻救濟時の一事に過ぎなかつたと記憶してゐる。しかし唯その一事に於て、世にも稀な數々の人格的人間味を大林さんによつて味ひ得たことを悅ぶものである。由來大阪人は、餘りにも經濟的思想に富んでゐる結果、餘りにも利に聰く、時には利を獲る爲には手段を選ばざる底の我利我利盲者流の多いことを常に聽かされもし、又私自身としてもかく想像してゐたのであつたが、偶北銀救濟時に採られた大林さんの行動は、大阪人に對する私の想像を全く裏切つて、一ツの驚異としか感じられなかつた。あの時大林さんは『自己の成功は北銀頭取たる岩下翁の眷顧(けんこ)指導によるものだ。翁の窮地を救ふ爲に素裸となつたとて何等の未練も怨みもない』といつて、數百萬の全財産を惜し氣もなく投げ出されたのであつたが、かうした場合世の多くの人は言を左右に託して逃避するのを常とし、「金を貸せば友と金とを失ふ」といふ諺を如實に示し易いものだが、大林さんはこの諺を見事に打ち破り、全財産を弊履(へいり)の如くに抛(なげう)つて義に就いたその心根の美しさと、かく決意した襟度の大には、眞に感服させられたのである。そして私は決心ほど怖しいものはないといふことまでも味ふことが出來た。私が大林さんと接したのは財産提供の申出後であつたが、大林さんの態度が何時も虚心坦懷、洒々落々、氣持がよいほどの明朗振りであつて、全財産を投げ出さうとする窮地の人の氣配などは見たくとも見られなかつた。思ふに、故人がかくまでの決意をされるまでには相當な煩悶も苦痛もあつたゞらうに、一度意を決したが最後、かくまで朗かになり得るものかと驚嘆させられた。まして、自分は財産提供によつて既に翁に義理だてした、他は關知の要がない、といふのが普通の人情だが、大林さんはさうでなかつた。翁の爲に寢食を忘れて日夜東奔西走するその樣は、滿身義の塊りといつてよく、輕佻浮薄な世の中によくもこんな義人がゐるものかと、自分の眼を疑ふほどであつた。又大林さんは軀幹長大で、鬚なども常に伸び放題といつた無造作な無骨稜々(りょうりょう)たるものがあつたが、見かけによらぬ謙遜家で、起居進退頗(すこぶ)る禮に適ひ、實に人觸りのよい方であつた。まして總べてが赤誠の流露といつてよいほど率直であつたから、言々句々キビキビして齒切れがよく、私は大阪人にもかうした寧ろ世にいふ江戸ツ子的な稀に見る偉丈夫がゐるのかと驚きもし、地方的性情の分野が次第に破壞されて行くことなども副産物として味ふことが出來た。要するに大林さんは私の一生を通じて精神的に忘れることの出來ない一人である。

好個の敎科書

牧野元良

故人はその性格、手腕二つながら敬服すべき人であつた。明治三十年頃故今西林三郞氏の紹介で私の宅を訪問されたのがその相識つた初めである。故人は大阪で呉服商を營んで居たが、飜然(はんぜん)考へるところあり、靑年の頃東京に出て斯業(しぎょう)を習得した後、大阪に歸つて開業したものであると聞いてゐる。

故人の強い責任感と、任俠な資質と、豪放にしてしかも細心な性格は、早くも世に認められ、私の識つた頃には大阪府立師範學校の建築と大阪築港工事に引續き、天王寺に開催された第五回内國勸業博覽會工事等を請負ひ、何れも卓越せる手腕によつて非常な好評を博し、當時既に同業者間に頭角を現はし、大林組の名は相當に賣れてゐた。

次いで明治三十八年、濱寺の俘虜(ふりょ)收容所工事を請負つたことも名高い話だが、この建坪は二萬四千坪といふ廣大なもので、期間は僅に三週間であつた。從つて世人は、かくの如き短時日にかくの如き大建築を完成することは八面六臂の働きがあつても到底なし得ざるものとして、これを請負つたその無謀を嘲笑したものである。故人はこれ等の嘲笑の中に立つて見事豫定の期間内に竣工せしめ、曩(さき)に嘲笑せる世人を驚嘆せしめた。東京の某工學博士は、專門的立場から、僅々(きんきん)三週間に、假令(たとい)それがバラツク式のものとはいへ、二萬四千坪の建築を爲すには材料の運搬のみにても相當の日數を要するのに、大林は如何にしてこれを實行するであらうかと態々(わざわざ)來阪して現場を視察したものである。しかるに故人は、その實際的經驗から割出して、この短期間に好成績を擧げたのであつて、某博士も『模範的請負業者である』と口を極めて賞讃した。聞くところによれば、故人は先づ第一に用材の種類及寸法等を定め、懸賞を附し、全國材木商に對して、濱寺海岸に各自競ふて材木を運搬せんことを打電したがこの奇策は忽ちに功を奏し、數日ならずして各地より多量の材木が集まり、容易に目的の用材を調達し得たのであつた。一方大工の大募集も亦懸賞制で成功し、かくして所期の目的を達したのである。これ實に故人の大膽と機敏と奮鬪と秘策とを雄辯に物語るものである。しかし前記の如く用材が多量に蒐集された爲、自然多數の殘材が生じたのであつたが、日露戰爭後の好景氣來によつてこれも豫期せざる利益を擧げ、所謂一石二鳥式の奇功を奏した。

大阪電氣軌道株式會社の生駒山大隧道は當時本邦に於ける最長の廣軌複線隧道であり又天下の難工事で、故人は幾多の障害に逢着した。就中(なかんずく)一部工事が崩壞して犧牲者を出したことは障害の最大なるものであつたが、故人はその中にあつて献身的に奮鬪努力し、遂に天下の視聽を集めた難工事を竣功せしめたのであつて、流石に故人ならでは出來ない業である。

東京停車場の煉瓦造り大建築を請負つてこれを竣功せしめたのもその當時であつたが、大正十二年世界を驚倒せしめた關東の大震災は、東京全市に於ける多數の煉瓦造建築物を崩壞せしめ、學理的にも煉瓦造建築物は耐震に適せずと斷定されたにも拘らず、東京停車場が破壞を免れたのはその建築施工宜敷を得た結果で、『流石に大林は間違ひがない』と世の賞讃を博したのであつた。

要するに、一旦應諾すれば如何なる困難に遭遇するも斷じてこれを遂行せざれば止まぬといつた強い責任觀念と、部下に對する溢(あふ)るゝが如き熱愛的情操とは故人の終生渝(かわ)らぬ處世の第一義であつた。その生涯は一の立志傳であり、また好個の敎科書である。

「尻括り」問答

增山忠次

一言以てこれを蔽へば、大林先代は典型的な親分肌の人といひ得る。豪快、壯烈な性情と天眞爛漫溢るゝが如き愛嬌とは、人をして敬愛の情に堪へざらしめた。ふくよかな耳、豐にして健全なその軀幹、ハキハキとしてゐてしかも柔和なその態度、一見人をして陶醉せしめる愉快な明るい感じ、それ等の總べてが人をチヤームする強い力であつた。

酒席にも再々お相伴をしたが、如何にも屈託のない呑氣さや賑やかさで、藝妓や女將を調伏したりして夢中になつて悅に入るところは、まるで子供のやうな人であつた。これ一にその心に些かの蟠まりもないことを物語るもので、故人の性格は却てこの方面に於て窺ひ得られた。當主義雄さんがこの明るい性格をそのまゝ受け繼がれたことは、私共遺友をしていかにも懷しい思ひをさせる。

故人は何事に對しても極めて徹底し、所謂奧の深い念の屆いた遣り方で、萬事簡單なやうでその實は頗る要領を得てゐた。クドクドした前口上は絶對にこれを排斥され、直ちに本論に入つてテキパキと處置をされたが、大事小事共に非常に細心な注意を拂はれ、工事場に於ては一本の釘までも、一々自から拾ひ集められたなどは有名な話である。

故人の傭人採擇法についていへば、初對面で大抵相手の値打は解ると言つて居られた。一日私が或る人を依賴すべく同道した時にも、一見して『宜しい、引受けませう。しかし尻括りの出來ない人は御免だ。君は尻が括れるかナ』との話であつた。「尻括り」と一口にいつてしまへば何でもないやうであるが、苟(いやしく)も會社の一員として働く以上、自己の責任を感じないやうな者では信じて何事も委せられるものではないと氣がついて、輕々しく人の性格を調べもしないで就職を依賴した私の輕卒を恥ぢ入つたこともあつた。

俠仁

小林一三

「俠仁」といふ二字は頗る簡單ではあるが、大林故人の性格を最もよく言ひ現はしてゐると思ふ。「俠」といふ文字は「をとこだて」と訓し、俠骨とか、俠烈とか、勇猛果敢な勇ましい意味が多量に含まれてあるが、たゞ單に「俠」だけでは故人を表現するに甚だ物足らない感じがする。更に「仁」の字、即ち慈み、恤(めぐ)みの意が加つて始めて故人の性格の全貌が浮き出て來ると思ふ。これを故人の經歴中の實際に當て嵌めて見るならば、彼の生駒隧道工事の遂行が最も好い實例ではあるまいか。生駒隧道は廣軌複線で、當時我が國隨一の大隧道と稱せられたゞけこれが掘鑿(くっさく)は技術の未だ發達してゐない當時としては危險極まりなしとまで觀られ、しかも故人は當時財政難の大軌を支援する意味で自らも財政的窮地に立ちながら、『何糞ツ』と最後まで頑張り通し、遂に大成功を收めたのであつて、斷じて行へば鬼神も避くといふ勇ましい「俠」を如實に示したものである。かうしたことは獨り業務上に於てのみ發揮せられたのでなく、故人の歩んだ行跡の到る處に光彩を放つてゐることは偉とするに足り、而して、ともすればさうした豪邁(ごうまい)の氣に富んだ人の中には血氣に逸(はや)り過ぎて一面亂暴粗野に流れ易い者があるが、故人は至つて正直で、眞面目で、親切で、世話好きで、殊に親近や部下を慈み、知已朋友を恤はすなど、そしてその世話の仕方も世間一般の『もうこれ位でよからう』といつたいはゞ受動的のものでなく、これでもかこれでもかとぐんぐん押しつけて行くといふ主動的のもので、私の知つてゐる範圍に於ても、故人の爲に助けられて富をなし今日氣樂に暮してゐる人が澤山にある。即ちこれは多少抽象的ではあるが故人の行つた「仁」を示すもので、實に故人のやうに積極と消極、俠と仁といふやうに巧に織り交ぜた錦のやうな風格の持主は當代容易に發見さるべきものでない。

加ふるに故人は襟度が廣い爲でもあらう、何時も屈託がなく四時春のやうな明朗さで、しかも極めて無邪氣な性格は憎まうとしても憎めない長所であつて、その證據(しょうこ)には上立つ人には可愛がられ、對等の友人からは親しまれるのみでなく敬畏もされ、或は女子供にまで慕はれるといふふうで、前半生に於ける故人の辛酸苦鬪が精神的試練となつて、かうした美風が生れたものであらうが、この位人間のよく出來てゐた人は珍らしいと思ふ。故に故人は、當時大阪財界の大御所たる片岡直輝、岩下淸周の兩翁からまたとなく愛せられたものである。どちらかといふと兩翁とも潔癖勝ちの人で、殊に岩下翁の如き、自分の信念を吐露する場合は誰人に對しても遠慮會釋なく、時に舌端の銳さは人をして瞠若(どうじゃく)たらしむるなど、毛嫌ひが多くて隨分敵を有つた人であつたに拘らず、特に故人を可愛がつたといふことは、そこに何かの原因がなければならない筈だ。惟ふに同氣相求むといふか故人も亦岩下翁と契合するだけの偉大性を有つてゐたことは想像に難くない。生駒隧道の如きも岩下翁と故人との名コンビによつて始めて完成されたといつてよく、かくも翁の知遇を得たことは、人間が出來てゐたればこそで、そこが故人の偉大なる美點といはざるを得ない。故人も亦岩下翁を師父の如くに尊崇し、自己の營業上に於てさへ翁の該博なる指導に俟つものが甚だ多いやうであつた。さすがは岩下翁の伯樂的鑑識も偉いもので、彼の翁の牙城たる北濱銀行の破綻時に際し、好漢大林故人は救援の友軍中唯一の鬪將となつて東奔西走寧日なく、しかも自己の全財産を投げ出して翁平生の知遇に酬ひやうとしたのである。さうした場合、世の多くの人は、當らず觸らず、巧妙な逃避策に出で易いのに、故人の採つた潔よい行動は、當時岩下翁を圍む救援の一團をして少からず感動せしめたもので、私共も洵に氣の毒の感に堪へなかつた。しかるに故人は明鏡止水とでもいふのだらう。洒々落々意にも介せずに日夜奔命に疲れ、私の言ふ俠仁の氣魄が漲(みなぎ)りきつてゐたのである。善行は報ひられるもの、幸にして故人の採つたその美擧(びきょ)は各方面に好感を與へ、夙川などの所有地處分の際は相當有利に解決され、物質的にも意外の効果を齎(もたら)したことを聞いてゐる。

次にこの機會に片岡翁と故人の關係を述べて見たい。元來片岡翁は銀行家として素地を作り、大阪瓦斯會社を創設してその堅壘(けんるい)に盤居し、うるさい事業界方面への進出を好まなかつたやうに思はれたが、この思想堅固の片岡翁を、どうした動機にどうして動かしたものか、故人は自己を中心に創設した廣島瓦斯並に電氣、阪堺電鐵等の事業界に翁を擔ぎ出したのである。當時このことを聞いた私は、事業そのものに對する故人の手腕は別として、片岡翁を擔ぎ出したといふその一事に對し、全幅の敬意を表さずにはゐられなかつた。その後翁は南海、阪神等に堅實そのものゝ手腕を揮はれ、遂に大阪財界の大御所たるに至つたのだが、もし翁が大阪瓦斯のみに跼蹐(きょくせき)されたなら、かくまでの勢望を獲るの機會は永久に弔られたであらうし、大阪財界としても裨(ひ)する處が少かつたに相違ない。これを惟ふと故人の功績を推賞するに吝(やぶさか)なものでない。而して片岡翁は故人の物故後も猶長く大林家及大林組の面倒を見られ、大林組は遂に今日の大を成すに至つたもので、實に故人は良い先輩を得たものである。要するに故人の美しい「俠仁」の性格が自らかゝる幸運を開拓したものと私は信じてゐる。

以上は故人の性格を透して視た一觀察に過ぎず、更に故人の才腕力量等に就て述べて見たいが、私はその多くを知らないのを遺憾とする。たゞ故人が裸一貫より身を起して相當の産を築き、關西請負界の覇者たるに至つた點より見て、尋常凡俗の輩でないことだけは確認し得られる。その他阪堺等の事業界への進出は、故人早世にして極めて短い期間であつたからこれを云爲(うんい)する餘地もないが、兎に角阪堺電車の創立より南海への合併に至るまでの經路を辿つて見ると、相當優秀の事業家的天分を有つてゐたやうにも見え、故人に籍すに猶天壽を以てせば、或は天下に勇飛する大事業家にならないとも限らなかつたのである。しかるに五十歳前後の若さで、これからといふ時に世を去られたことは洵に痛惜に堪へない。今や幽明を異にして二十年、動機、内容こそ異つてゐても、共に岩下翁の知遇を受けた私として一入故人が偲ばれてならない。

典型的任俠

鴻池忠三郞

今から三十四五年前、私が十七歳位のことだつたと覺えてゐる。私は故人の下に預けられ一年ばかりの間親しくその膝下で日夜薫陶を受けた。從つて今日私が土木建築業者として多少でも社會に認められるところがありとすれば、それは全く故人の賜といふべきである。

親しく薫陶を受けた一人として、私の最も感じたことは、故人が典型的な任俠の士であつたことである。賴まれたら後へは引かぬ一諾を千鈞より重しとされた。殊にその責任感に強い親分肌は他の追從を許さぬところで、それが爲に賴まれては、差し當り必要のない者でも雇入れるとか、或は手許に置くとかいつた風に心から人の爲に世話をし面倒を見られたものである。

土木建築請負事業は意氣一つで仕事をしたものである。故人は心から輩下を愛した。部下全部がその意氣に感じて水火も辭せぬ概の下に手足のやうに動いたことが、軈て故人の大成された所以である。例へば『馬鹿ツ』と怒鳴ると共に鐵拳が飛ぶ。これは甚だ亂暴のやうであるが、決してその人を憎んでやつたことでないから、毆打された者も決して腹を立てない。毆つた直後、故人は釋然(しゃくぜん)として『許して呉れ、ツイ短氣が出て』と相見て笑ふといつた調子である。この意氣は到底他の學んで得られない長所であつた。私が獨立後も常に『無理をしないやうに』と始終念頭にかけて注意をされた。その情誼に厚いのには實に感激の外はない。

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