大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

二十五 帝國座 四十六歳―四十七歳

川上音次郞

日本演劇史上に、所謂新派劇なる一派を創始した俳優川上音次郞は、當時の所謂壯士芝居の畑から出て、常に新方面に先驅しつゝ行詰つた劇界に多大の光明を放つて來たが、未だ以て自ら慊(あきた)らず、先づ妻の貞奴を伴なつて歐米に遊び、劇そのものゝ心髓を研究して大いに得るところがあり、歸朝後直ちに新派劇團なるものを組織して劇壇革新の狼烟を揚げた。

東京及大阪に於ける試みは、在來の行方とは全く異つた新鮮味を見せて相當の人氣を呼んだのであつたが、その新劇にピツタリ嵌つた理想的劇場の無いのを遺憾とし、新劇場の建設を先づ岩下翁に愬(うった)へたのである。

岩下翁と新劇場

もとよりさうしたことに人一倍理解をもつてゐた翁のこととて、新劇場の建設が現代文化に多大の貢献をなすものと思考され、直ちに川上の説に賛意を寄せられると共に更にこれを故人に諮り、川上の爲に一大劇場の建設を依囑されたのである。如何に翁の倚託(いたく)とはいへ、未知の俳優川上の爲に新劇場を建設することは意外の相談であり且つ川上の財的實力には全く信用し難いものがあつたが、故人は(イ)岩下翁の新文化に對する禮讃と(ロ)劇場建築に對する職業上の興味と(ハ)孤立無援の川上に對する同情等により、大阪船場の北端内北濱五丁目に二十餘萬圓を投じて新劇場を建設したのであつて、これが所謂川上の帝國座なるものである。

帝國座
帝國座

帝國座の出現

川上が洋行中に考へた綜合藝術なるものは相當に興味のあるものであつたが、その頃の世には未だ新劇(西洋もの)を味ふ力なく、多數民衆の心を捉へることは至難であつた。たゞ舊劇(きゅうげき)に飽きた一部の觀客が新劇の目新しさに好奇心をそゝられ、時偶に活動寫眞でも覗かうかといふやうな氣持に過ぎなかつた。新藝術に對する眞の鑑識眼を有つた者は寥々たるもので、ましてや戀(こい)飛脚の本場たる大阪に於てマクベスや、オセロのシエークスピアもので觀衆を醉はしむることは當時としては無理な相談で、川上は時勢に先んずるの見識はあつたが、餘りに主觀的理想に囚はれ、世の現實を察知することに甚だ疎かつたといふ缺點は免れなかつた。

明治四十三年三月、壯麗な帝國座が北濱の一角に出現した一と時は、華城の子女が珍らし物食ひにその淸新味を追ふて雲集したが、前述のやうに、時代はこの天才川上の理想を裏切つて、觀客は次第に減ずるばかり、帝國座は忽にして經營難に陷り、無論大林組に對する建築費の支拂など思ひもよらなかつた。

川上の死

この頽勢を輓回せんと苛ら立つた川上の苦惱は、軈て彼をして猛烈な神經衰弱症たらしめ、或る日彼は樂屋で卒倒した儘遂に帝國座竣成の翌年たる明治四十四年一月十一日、四十八歳を一期に空しくこの世を去つたのである。

帝國座の建設費は、最初川上より五萬圓を入れ、殘餘は興行の利得を以て充當する契約であつたが、時利あらず、その後工費支拂の契約は一回も履行されるに至らなかつた。しかるに故人は寧ろ好漢川上の悲運に同情し、藝道への邁進をのみ激勵して頗(すこぶ)る宏量の態度を示してゐた。

故人の襟度

偶川上の死を耳にしたとき『川上は偉い男だつた。立派な腕を有ちながら事志と合はずに隨分苦しみ通した。惜むべきである』と帝國座建設の爲受けた損失など全く忘れたものゝやう、爾後これを口にだもしなかつた。

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