大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

六 援軍來 三十歳

佐々木伊兵衛氏

堀江に佐々木伊兵衛氏とて大きな材木商があつた。元紀州廻漕問屋を營んでゐたが、明治初年材木商に轉じたのである。時々この店へ大工らしい職人に腕車を輓かせて木材の購入に來る一人の靑年があつた。

佐々木伊兵衛翁
佐々木伊兵衛翁

好靑年

價の高下は左程意に介しないやうだが、品質を吟味することに至つては頗(すこぶ)る嚴を極めた。代金は一錢、二錢の端數でさへ値切らずに、しかも現金で綺麗に拂つて行き。たまには貸になることがあつても期日にはキチンと持つて來る。番頭は勿論丁稚等に對してもいと慇懃(いんぎん)で、自分はお客だといふやうな傲慢な素振りなど微塵もない。

それでゐて應對はキビキビして無駄がなく、容貌といひ、態度といひ、如何にも男らしい好靑年である。主人も最初は番頭や丁稚等との取引を奧で聽いてゐた程度であつたが、度重なるに從つて挨拶の一つも交はすことゝなり、遂には昵懇の間柄となつてその靑年の爲人(ひととなり)をも知るやうになつて來た。その靑年こそ即ち故人であつた。小取引は依然繼續(けいぞく)されてゐる。その交際が重なれば重なるほど、佐々木氏の胸中にはこの靑年ならばとの賴母しさが增すばかり、まして一時に多量の木材を仕入れる資力も信用も乏しい故人が、當時有名な阿部製紙のような大工場を請負ひ、しかも驚異的な良成績を擧げつゝあるを聞くに至つて、むらむらと起る同情の念は遂に制止することが出來なくなつたものであらう。

木材供給

或る日佐々木氏は故人に向つて『貴方の覇氣と誠實とには感心しました。さう申しては濟まないが資金も豐富でない御樣子。代金は後でもよろしいから御用の節は私方の材木を遠慮なくお使ひになつて、そして大きな工事をドシドシ請負つて充分成功して下さい』と傳へた。何といふ眞心罩(こ)めた慈(なさ)けの言葉であらう。故人は百萬の援軍を得た心地がして泣いてその好意を感謝した。阿部製紙の工事を請負つて未だその竣成を見ない二十六年三月、更に朝日紡績の大工事を取得し、その後僅か五年の間に、大和紡績、日本纎糸、毛斯綸(モスリン)紡織等、阿部製紙をも凌駕する大工事を次々に取得するに至つたのも、佐々木氏の後援による賜に外ならない。その後兩者は親交の重なるに隨(したが)つて意氣益投合し、親子も及ばぬ間柄となつた。

資金の融通

佐々木氏は木材の供給より更に一歩を進めて資金の融通者となり、眇(びょう)たる一靑年を守り立てゝ遂に請負界の覇者たらしめたのである。

故人が、創業後幾干もなくして片山氏に次ぎ、このやうな有力な後援者を得たのは、如何にも運命に惠まれてゐるやうにも思はれるが、或る人が運命論を否定して『棚の牡丹餅は人が上げて始めて在るのだ』と言つたやうに、故人の眞摯と熱誠と手腕とがその牡丹餅を棚に上げたのであつて、偶然に落ちて來たものでなく、自ら開拓した必然の幸運に外ならないやうに見える。

その後、施主その他に對する大林組の保證人は總べて佐々木氏の持ちきりといふ有樣であつた。

片山和助氏
片山和助氏

報恩的看護

故人も亦佐々木氏を慈父のやうに敬慕し、大正三年七月佐々木氏の病篤かつた時などは、自ら楠本、高安等の名醫を聘(へい)して診療を乞ひ、自己の寢臺(しんだい)を佐々木邸に持ち込んで、晝夜の別なく看護に盡したのである。親子も及ばぬ溢(あふ)るゝやうなかうした故人の熱情は、幸にして氏の病魔を驅逐し得たのであつて、その報恩的の義擧は、獨り氏のみでなく、氏と故人との關係を知る幾多の人々に大なる感動を與へたものである。佐々木氏は故人が逝つてから數年の後他界せられた。

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