片岡直輝
大林芳五郞君は偉大な存在であつた。彼は大阪の生んだ歴史的人物の一人である。大林君はこの貨殖の地に於て、何人の血を稟(う)けてかくも剛俠にして仁義に敦(あつ)い性格を得たか、を思はしめる。「事業家」としては彼以上の者は少くない。又土木建築業者としても彼は未完成で逝つた。富の成功者としても階段を上り詰めたものではない。大林組は彼を失つて忽ちその前途を悲觀された。しかるに植えつけられた種は、彼の歿後に於て遂に鬱然たる巨材となつた。彼は如何なる場合にも失望しなかつた。そして天才的な彫刻師が巨像を刻むやうな眞摯さで人生を歩んで行つた。予は「事業家」、「土木建築請負業者」といふ仕事の上の彼の伎倆は顧なかつた。たゞ單に「人間大林」に惚れたといつてよい。予は、主として、彼の爲に事業を援助する場合、「人間大林」の豪快、細心、誠實、無邪氣等彼の美質のみに着眼して來た。大林君の持つて來た仕事について予が仔細に檢討するならば、相當議論の餘地があつたに拘らず、いつも彼の爲に先棒を擔がされたのは、「人間大林」に多大の感興と友情を有つた爲だ。予は彼のいふまゝに、廣島瓦斯にも、廣島電氣にも飛び込んだ。友人や知已の忠告をも斥けて、多難の阪堺社長ともなつた。大軌の整理にも衝つた。大林組の整理の時も『予は一文も報酬は貰はぬ。もし金錢で予を動かさうといふのなら斷然お斷りする』といふのが予の信條であつた。予は大林君の歿後その遺族の喜びを見ることを以て滿足した。
大林君は律義な人であつた。又世話好きであつた。予は大抵の場合大林君の要求を快諾したが、さる月給取の一人の借金の相談を受けた時は、その世話を拒絶した。その故は『君のやうに仕事をしてゐる者には金の廻る時があるから辨償も出來ようが、人に傭はれて月給生活をしてゐる者には借金は一身の破滅だ』といふ予の定論からである。それでも君は、『賴まれると嫌やとは言はれませんで』と首をかしげながら、予の話を聞いて『成程』と感心した態であつた。ある時君は、『私はこれといふ學問はしてゐないが、私の店には大學出が澤山ゐる。一寸見ると小僧のやうで齒痒いものですが、私は自分の息子であると考へて、決してその人等が失望するやうなことを言つたことが無い。まア辛抱なさい、辛抱が肝腎だ君等は學問があるから、それに經驗が出來たら鬼に金棒だ、と激勵してやります。自分の子供だと思へば腹が立たない。學校出は一時は間に合はんが、どこか純でよろしい』と敎育を尊重してゐたこともある。
一日予は大林君が菩提寺の嗣僧を世話して淨土宗の大學に入れ、その學資萬端を貢いでゐることを聞いた。『君は善いことをしてゐる。信仰は大事ぢや。この間岩下君と大林論をやつたことがあるが、岩下君は、大林君の最も長所は涙脆いところで、あれは眞人間だといつてゐたよ。俺は、それは信心の力だ、本人はさう考へて居らんが、大林の本家の林家は代々篤信家だと聞いてゐる、その血統が彼をして温かい人間愛を造らせるのだ、と言つた』といふ話をすると、君は靜かに予の顏を見て『有難う、有難う』と心から感謝の意を表してゐた。その眼には涙さへ浮んでゐた。こゝに大林君の本然性がある。
尊い「人間大林君」であつた。