大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

編外 手向艸(たむけぐさ)(寄稿及談話)

逸足「攝津」の話

岡松忠利

明治三十七、八年頃、關西競馬倶樂部に私が理事をして居たことがある。その時の役員は、茨木中將、三谷軌秀、今西林三郞、大林芳五郞といつた顏觸れで、何しろ競馬熱の非常に盛んな時だつたから隨分盛況を極めた。故人は「攝津」と呼ぶ駿馬を持つて居られたが、非常な駿足で、「攝津」を買つて置けば間違ないと言はれたものだ。ある人が戯れに『偉い人といふものは馬の目利きも出來ると見える』と言つたのを聞いた故人は、『ナニ、眼が二つある人間が馬位見えんでは仕樣がおまへんナ』と洒落の中にも自信は漲(みなぎ)つてゐた。

これは單に一挿話に過ぎぬが、容易に人に許さなかつた白頭宰相故原敬氏が、故人を評して『大林君がもし政界に居れば、間違なく廟堂に起つ人で、餘程大きな器である』と口を極めて推稱された。原氏のこの評語は、故人をして千鈞の重きを爲さしめたといつてもよい。

偉大なる彼

片岡直輝

大林芳五郞君は偉大な存在であつた。彼は大阪の生んだ歴史的人物の一人である。大林君はこの貨殖の地に於て、何人の血を稟(う)けてかくも剛俠にして仁義に敦(あつ)い性格を得たか、を思はしめる。「事業家」としては彼以上の者は少くない。又土木建築業者としても彼は未完成で逝つた。富の成功者としても階段を上り詰めたものではない。大林組は彼を失つて忽ちその前途を悲觀された。しかるに植えつけられた種は、彼の歿後に於て遂に鬱然たる巨材となつた。彼は如何なる場合にも失望しなかつた。そして天才的な彫刻師が巨像を刻むやうな眞摯さで人生を歩んで行つた。予は「事業家」、「土木建築請負業者」といふ仕事の上の彼の伎倆は顧なかつた。たゞ單に「人間大林」に惚れたといつてよい。予は、主として、彼の爲に事業を援助する場合、「人間大林」の豪快、細心、誠實、無邪氣等彼の美質のみに着眼して來た。大林君の持つて來た仕事について予が仔細に檢討するならば、相當議論の餘地があつたに拘らず、いつも彼の爲に先棒を擔がされたのは、「人間大林」に多大の感興と友情を有つた爲だ。予は彼のいふまゝに、廣島瓦斯にも、廣島電氣にも飛び込んだ。友人や知已の忠告をも斥けて、多難の阪堺社長ともなつた。大軌の整理にも衝つた。大林組の整理の時も『予は一文も報酬は貰はぬ。もし金錢で予を動かさうといふのなら斷然お斷りする』といふのが予の信條であつた。予は大林君の歿後その遺族の喜びを見ることを以て滿足した。

大林君は律義な人であつた。又世話好きであつた。予は大抵の場合大林君の要求を快諾したが、さる月給取の一人の借金の相談を受けた時は、その世話を拒絶した。その故は『君のやうに仕事をしてゐる者には金の廻る時があるから辨償も出來ようが、人に傭はれて月給生活をしてゐる者には借金は一身の破滅だ』といふ予の定論からである。それでも君は、『賴まれると嫌やとは言はれませんで』と首をかしげながら、予の話を聞いて『成程』と感心した態であつた。ある時君は、『私はこれといふ學問はしてゐないが、私の店には大學出が澤山ゐる。一寸見ると小僧のやうで齒痒いものですが、私は自分の息子であると考へて、決してその人等が失望するやうなことを言つたことが無い。まア辛抱なさい、辛抱が肝腎だ君等は學問があるから、それに經驗が出來たら鬼に金棒だ、と激勵してやります。自分の子供だと思へば腹が立たない。學校出は一時は間に合はんが、どこか純でよろしい』と敎育を尊重してゐたこともある。

一日予は大林君が菩提寺の嗣僧を世話して淨土宗の大學に入れ、その學資萬端を貢いでゐることを聞いた。『君は善いことをしてゐる。信仰は大事ぢや。この間岩下君と大林論をやつたことがあるが、岩下君は、大林君の最も長所は涙脆いところで、あれは眞人間だといつてゐたよ。俺は、それは信心の力だ、本人はさう考へて居らんが、大林の本家の林家は代々篤信家だと聞いてゐる、その血統が彼をして温かい人間愛を造らせるのだ、と言つた』といふ話をすると、君は靜かに予の顏を見て『有難う、有難う』と心から感謝の意を表してゐた。その眼には涙さへ浮んでゐた。こゝに大林君の本然性がある。

尊い「人間大林君」であつた。

私の衷情

片岡直方

大林故人と父とは特に別懇(べっこん)の間柄でした。種々相携へて事を共にしたやうでしたが、當時私はまだ學生時代であつたので、事業方面のことは詳しく存じてゐません。しかし父と御懇意であつた關係で、度々故人に接する機會はありました。大きな耳、豐な頰、何時お會ひしても圓滿明朗なやさしい人でした。誰しもさうだらうと思ふが、父の親友は、自分から見ると叔父でゞもあるやうな懷しみを有つもので、大林故人に對して、私はさうした懷しみを慥(たしか)に有つてゐました。故人が中道にして早く世を去られた時、父は惜しい人物を喪つたと言つて長大息せられましたが、私も亦無限の感慨に打たれたことを記憶してゐます。その後私は父を喪ひ、父と交誼の深かつた渡邊千代三郞氏等とも別れ、父の親友として關西に於て今猶钁鑠(かしゃく)たるは、纔(わずか)に平賀義美、川上謹一の兩氏位のもので、轉(うた)た寂寥(せきりょう)の感がいたします。私のかうした氣持からして、故人の亡くなられた後、御曹子の義雄さんが私の父を眞の父のやうに慕はれるそのいぢらしさを見て、私は義雄さんを他人とは思はれませんでした。衷心からその健在と發展を祈つて已まなかつたのです。幸に故人の箕裘(ききゅう)を繼いだ義雄さんが、父の名を辱めない健鬪ぶりで、しかも倍々隆昌に赴きつゝある現状を見て、私は我が事のやうに喜んで居ります。

大林芳五郞氏を憶ふ

片岡 安

私が大林組先代社長と知合つたのは、明治三十六年第五回内國勸業博覽會が大阪に開かれた直後であつたやうに記憶する。私は建築技術家であり、設計監督の職を以て立ち、大林氏は土木建築の請負業を經營されて居つたから、自然に知る機會が多かつたけれども、私的の知合として交際したことはなかつた。たゞ私の養伯父直輝翁の宅又は事務室等に於て面談することもあり、又直輝翁より同氏の義俠的人格者なることを聽かされて、間接に大に私淑してゐたこと數年、その内に大林組の聲望大に揚り、事業の規模も擴大され、西は朝鮮、九州より、東は關東地方にまで羽翼を張り、第一流の土木建築請負業者として實績を擧げ、事業の基礎漸く堅實ならんとする時、大正五年の春病のために逝去せられ實に惜しいことであつた。

しかしその當時關西に於ける請負業者は、何れも財界の波瀾に飜弄されて一時は榮えながらもその終りを全うしたものが鮮かつたのに、大林氏はよくその財界波瀾を乘り切り、堅實なる基礎を十分に築き上げられたのは、事業經營そのものに堪能であつた外に、關西の有力なる財界人の間に、その人物の偉大さを認められたからであると思ふ。

私が同氏と面接の間に受けた印象を率直に言へば、如何にも簡易明朗、何等の墻壁(しょうへき)を設けず、純眞にして飾り氣も御世辭もなく、世話好きの苦勞人たるを痛感せしめられたことである。まことに得難き人物であつたといへよう。もし天壽を更に十數年も亨有されたならば、大林組の事業を更に進展せしめられたであらうが、私はそれよりも寧ろ大阪に於ける各方面の聯絡融合に奉仕的努力を續けられたであらうことの方が、社會人としては貢献大なるものがあつたらうと思ふのである。現に大林組が、先代の築かれた基礎の上に益繁榮しつゝあるのは、現社長及社員一同の一致協力の結晶ではあるが、先代の遺德亦與つて力あるを思はしめる。

義理堅い故人

片山篤也

私は、大林故人の媒酌で谷崎家より入つて片山家を嗣いだのであります。だから故人は私の恩人なのです。まして私が婿養子として入家當時の片山家は、母一人娘一人といふ誠に寂しい家庭であつた爲に、故人よりは一切萬事徹底的のお世話に預つてゐたのでありました。かうした間柄でありましたから、入家後の私は、無論故人を眞の父のやうに敬ひもし且つお賴り申してゐたのです。しかるに幾干もなくして他界せられまして、片山一家は暗夜に燈を失つたやうな寂寞を感じたのでありました。私は養子の身ゆへ、大林家對片山家との關係の多くは知りませんが、常に養母より聞かされてゐたのは、兩家は靱に於て共に肥料問屋を營み、故人の御親父と私の養祖父(和助)とは至つて別懇の間柄であつたさうで、故人が幼にして御親父を喪はれ、血を吐くやうな御辛苦の後漸く創業を見るに至つた時、養祖父は、故人の不屈不撓の精神を愛されますと同時に、早く父を喪はれた故人の不遇に同情されまして、僅かばかりのお世話をさせて頂いたさうですが、故人の才幹は實に見上げたもので、爾後旭日冲天の勢で成功せられ、養祖父はこれを我が事のやうに、自分の伯樂的鑑識の違はなかつたことを喜んでゐられたさうです。これと申すのも、故人が人並勝れて偉かつたことゝ、故人の御親父の遺德が斯くさせたものと心窃かに思つて居ります。有爲轉變は世のならひとか申しますが、その後片山家に於ては、養祖父の他界に次いで更に養父(私と同じく婿養子)も早く世を去り、眞の母一人娘一人の淋しい家庭となつたのでありまして、無論經濟的にも大打撃を受け、片山家としては容易ならざる大難局であつたのですが、この時に際し、故人は神のやうな慈愛の手を伸べて、方向に迷つたこの憐むべき親娘を安穩の地に導かれたのであつて、就中(なかんずく)家政整理中最も難關であつた本田の所有地處分の如き、故人は時價以上の高價を以て自らこれを引受けられるなど、お蔭で大した襤褸(ぼろ)も出さずに家政の整理を全うし、親娘の生活安定が確保されるに至つたさうであります。更に故人は『女世帶といふものは世間に輕蔑され勝ちで、家運にケチがつくものだ早く養子を迎へなさい』と口癖のやうに申されて自ら進んで私を婿養子に媒介されたといふことです。私が入家しました後も、難かしい問題でも起きますと必ず御相談申上げ、親とも柱ともお賴り申上げて居つたのです。かくの如く大林、片山兩家は血縁でこそないが、全く親戚同樣のものがありまして、養母生存中は冠婚葬祭の度毎に出向いてゐられたやうな親密さでありました。養母が曾て『義理堅い人といへば、大林さんを見ならへばよい』と言はれたことを記憶してゐますが、私はこの兩家の關係を辿り見て、『大林さんは世話好きの人』といふやうな簡單な觀察で、あの尊い大人格を葬つてしまふことは出來ないと存じます。

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