大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

八 孝養

明治二十六年の夏頃、故人は靱の片邊りに瀟洒な住宅と並びの借家數件を購つた。これは故人が孝養の眞心から、せめてもの母の安住所に充てたもので、後附近の人々はこれを大林裏と呼んでゐた。

母の安住所

母堂美喜子刀自(とじ)は、この新たに設けられた住居の内に、温淸定省至らざるなき故人の孝養に醉ひつゝ樂しく餘生を送つたのである。阿部製紙と朝日紡との工事で彌(いや)が上にも故人に箔がついて行く。曾て故人に注がれた四圍(しい)の冷笑と疑問とは何時の間にか拭はれて、好評嘖々の噂は靱界隈に漲(みなぎ)つてゐる。遇ふ人々から『由さんは偉い人にならしやつた』といふ讃辭を聞き、閭門(りょもん)五ケ年の淋しさも昔の夢と化し、今や最愛の子は、亡き夫の豫言に違はず遂に世に出たのである。刀自は天にも昇る心地、親の身としてこれより嬉しいことはない。まして目のあたり故人の起居、動作、態度、應對等の沈着と眞面目さを見るにつけ我が子ながら惚々しさう、且つ末女たか子には既に西島家より婿養子龜松氏を迎へて別に呉服商を營ましてある。花のやうな孫娘のふさ子孃は片こと混りに『お婆ちやん』と言つて附きまとひ、大林家三代を嗣ぐ義雄氏さへ呱々(ここ)の聲を擧げ、一家團欒和氣靄々として四時春のやう、刀自が三十年の辛苦も今は綺麗に洗はれたのであつた。

母堂の死

しかるに刀自は心に弛みが出來たのであらう、明治二十七年十月十八日、ふとした病から遂に不歸の客となられた。されど齡は古稀、出世した最愛の子の腕に抱かれてこの世を去り逝くのだから嘸(さぞ)滿足であつたらう、眠るが如く大往生を遂げられたのである。

畢生(ひっせい)の看護もその効なく、懷しの母は遂に亡くなつた。故人の悲しみは譬(たと)ふるに物なく、慟哭して止まなかつた。『母には長い間苦勞をかけた。これからゆつくり孝養を盡さねばならぬと思つてゐたのに』と哀愁禁ぜず斷膓の思ひであつた。眞に今少し刀自が長命であつたなら、故人が君國への奉仕も、より以上に身を立てることも見られたのであつた。孝經(こうきょう)に「夫れ孝は親に事ふるに始まり、君に事ふるに中し、身を立つるに終る」又「孝子の親に事ふるや、居には則ち其の敬を致し、養には則ち其の樂を致し、病には則ち其の憂を致し、喪には則ち其の哀を致し、祭には則ち其の嚴を致す」とあるが、前後を通ずる本編幾多の記述によつて見ても、故人はこの古今を貫く聖訓を文字通り實踐して行つたのであつて、かうした人格的色彩の濃厚さを見るにつけますます故人の偉大さに敬服させられる。

OBAYASHI CHRONICLE 1892─2014 / Copyright©. OBAYASHI CORPORATION. All rights reserved.
  
Page Top