大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

九 大阪築港工事 三十五歳―四十五歳

大阪開港

諸外國は我が國開國の當初から大阪を唯一の開港場として垂涎措く能はぬものがあつた。米國總領事ハリスの如きは脅迫的にその開港を幕府に迫つたほどである。當時の諸大名中には、大阪が皇居に接近しある故を以て極力大阪開港に反對したものもあつたが、その後東京奠都(てんと)と共にその理由が消滅し、明治元年七月大阪は兵庫と共に開港場となつたのである。當初は外人中兵庫よりも寧ろ大阪に店舖を設けたものが多く、明治七年頃にはその數殆ど百に達した。

大阪港の衰微

しかるに岸壁より一里以上を隔てる海上に投錨する港灣の不完全は年を追ふて貿易の不振を來し、遂に明治十二年頃は一名の外人さへ止まるものなきに至り、貿易の商權は全部兵庫に奪はれたのである。

こゝに於て有識者間には夙(つと)に大阪港の改良が叫ばれ、明治五年より二十年迄計畫の樹立せられたこと三回に及んだが、巨大なる經費の負擔から何時も頓挫に終つたのである。しかし商工都市としての實力が次第に充實するに隨ひ、痛切に築港の必要を感ずるに至つたので、遂に市當局は明治二十五年より研究を進め、同二十九年に至つて大體の案が成立し、こゝに總豫算二千二百餘萬圓、國庫補助四百餘萬圓合計二千六百餘萬圓の大工費を以て着手する運びとなつたのである。

築港開始

明治三十年十月十七日、畏くも 小松宮彰仁親王殿下の台臨を仰いで起工式が擧げられた。特に殿下は令旨を賜ひ、親しく防波堤に立たせられて御手づから基石を投下せられたのである。築港事務所長は曩(さき)の大阪府知事、後農商務次官たりし西村捨三氏で、工學博士沖野忠雄氏が技師長に、工學博士岡胤信氏が工務課長として各部署に就かれた。西村翁は天下の能吏として著聞した名士であり、沖野、岡兩博士は斯界(しかい)の權威者であつた。

築港の概要

工事の主なるものは、安治川尻と木津川尻とから沖合に向つて二條の防波堤を築き、この防波堤によつて圍まれたる海面の中約二百萬坪を三十尺の深さに逡渫することと、その浚渫土砂を以て約百五十萬坪の埋立地を作ること、並に海陸連絡の設備として大棧橋及二本の繫船突堤を築設することなどで、起工後八ケ年を以て竣成する計畫であつた。

大阪築港工事ブロツクヤードの状況(其の一)
大阪築港工事ブロツクヤードの状況(其の一)
大阪築港工事ブロツクヤードの状況(其の二)
大阪築港工事ブロツクヤードの状況(其の二)
大阪築港棧橋工事
(安治川を隔てゝ天保山を望む)
大阪築港棧橋工事
(安治川を隔てゝ天保山を望む)

請負人の決定

當時一ケ年の市經濟が百萬圓内外であつた大阪市にとつては前代未聞の大事業であつて、深慮沈思の西村捨三所長は、沖野技師長及岡工務課長等と謀つて、この大工事を双肩に荷ひ、よくその責任を果し得る有力なる土木業者を詮索されてゐたが、明治三十一年六月十五日、この名譽ある工事の重要部分たるブロツクヤード及海面埋立工事、材料調達並に人夫の供給をば大林組をして當らしむべく決定せられた。このことは、内容の充實未だ完全のものとは認められなかつたが、責任感が豐富で全身これ膽とも稱すべき故人の人格が信任された結果に外ならない。

故人も身に餘る光榮として偏にその眷顧(けんこ)に感激し、全力を傾倒してその衝に當つたのである。至誠は神をも動かすもの、數千の人夫亦よく故人の意を體し、粉骨碎身日夜奮鬪を續けて行くので、自然業績もありありと見えて行く。西村所長を首(はじ)め沖野、岡兩氏共日々にこの好成績を熟視し、請負者選定に對する鑑識の謬(あやま)らなかつたことを悅ばれたのである。殊に經理部長平田專太郞氏の如きは最後まで大林組の愛護者であつた。かやうに施主側と請負者とがシツクリ結び合つた協調は、工事成績に直ちに反映して前途洋々春のやうなもので、工程頗(すこぶ)る順調、砥のやうな坦道を安々と歩んで行く觀があつたが、端なくも遽然(きょぜん)として財界を襲ひ來つた未曾有のパニツクと、他の請負工事中豫期しない損失に禍されて、故人は恰も巫山(ふざん)の夢の破られたやう、急轉直下、遂に浮沈の瀨戸際に立たされてしまつた。

當時我が國は支那より三億七千萬圓の償金を收め、又戰時中多額の軍事費が國内に撒布せられた影響を受け、潤澤化せる民間資金は忽ち企業熱の旺盛を促し、國内は到る所好景氣に惠まれたのであつたが、その餘波は未曾有の投機熱を煽つて泡沫會社の濫立を見、遂にその反動は明治三十四年に至つて爆發し、殊に企業熱の最も旺んであつた大阪を中心とする財界はその混亂も一層強烈であつて、三月には堺の北村銀行の破綻を見、四月には大阪の七十九銀行並に難波銀行の閉鎖が行はれ、後、逸見銀行も破綻し、その他關西の各種著名の貿易會社或は石炭商、洋反物商等の倒壞亦尠からず、人心の動搖極度に達して大阪は全市を擧げて恐慌の巷と化し、各銀行を通じその取付が預金の三分の一に達したほどであつた。

大阪師範工事

この財界の恐慌は無論大林組にも大打撃を與へた。折も折、偶大阪府立師範學校の工事と滋賀縣立師範學校の工事とが共に莫大な缺損に終り、泣き面に蜂の譬(たとえ)を如實に現したのである。

多少愚痴の感はあるが、大阪府立師範學校工事に對する當局の監督は峻嚴を通り越して殘酷の域に達し、大講堂の如きは徹底的に檜の節無しを強ひ、鑿痕(のみあと)ほどの節にも異議を唱へ、檢收不能の木材積んで山を爲すといふ有樣、この材料極選の爲に被つた損失は實に甚大なものであつた。開校式當日府下選出の代議士植場平氏が壇上に於て祝詞を兼ねた所感を述べられた中に、『監督者は學校建築を如何に心得てゐるか。檜材の一切無節といふ御殿にも比すべき贅澤な講堂を以て、單にその結構を誇る如きは、餘りにも外形に拘泥して敎育と經濟の根本義を沒却したものだ』と批評されたことは、よく時弊を慨(なげ)かれた至言ともいふべく、材料精選に對しては人後に落ちないことを確信してゐた故人も、常識を逸したその極選には啞然たらざるを得なかつたのであるが、一度び請負つた以上は損益に超然として唯々諾々、只管(ひたすら)竣成を期するといふ觀念が故人には人一倍強烈であつただけに、故人の被つた損失の夥大であつたことはいふまでもない。

大林組の受難

かくの如く内憂外患一時に臻(いた)るで、大厦(たいか)の覆へるよく一木の支ふべきにあらざる如く、佐々木氏の支援を以てしてもこの難局の打解は望まれなかつたのである。たゞ簡單な方法として築港工事をさへ返上するならば直ちに苦難より脱することが出來るのだが、故人は『西村所長以下の愛顧に對し何と應へよう。何の面目あつて大阪市民に見ゆることが出來よう。工事の返上は大林が死ぬのも同樣だ。どうしてそんな無責任な行動が採られようぞ』と、その強い責任感から、神謀籌策、獅子奮迅、東西に馳驅(ちく)して難關の突破を試みたのであつたが、決河の勢ひを以てする財界の混亂には對抗の術がなく、死者狂ひの苦鬪も徒勞に歸して萬策盡き、流石大膽な故人も天を仰いで長大息せざるを得なかつた。故人の一生涯を通じてこの時ほど懊惱(おうのう)煩悶したことは恐らくなかつたであらう。

かくて故人は伊藤、白杉の兩股肱(ここう)を呼び、『豫(かね)てから種々心配をかけたが最早萬策が盡きた。遠大の志望も今は放擲(ほうてき)するの外はない。これも運命だ。自分はこれから遁世しようと思ふ。就ては君達二人に今後の始末を御依賴する。大林組が瓦解しようと又繼續(けいぞく)されようと君等の方寸に一任する』と兩人の前に印鑑を出してこれを託した。眦(まなじり)は裂けんばかり、露の涙さへ浮んで居り、決意牢として動かすよしもない面ざし。兩人は相見て暫し呆然たるものがあつたが、言葉を盡してその苦衷を慰め且つ自重を勸説(かんせつ)した後、兎も角急遽西村所長を訪(とぶら)ひ、衷情を披瀝して具さに現下の窮状を愬(うった)へた。所長は大林組の頓挫は延(ひ)いて築港工事の挫折を來すものなりとし、所長以下幹部員相寄つて、肝膽(かんたん)を碎き、大林組救濟の策を講じられたのである。

難關突破

紆餘曲折、結局當時築港の御用商人であつた範多龍太郞氏にこれを謀り、幸ひ氏の同情によつてさしもの難關を辛うじて切拔けることが出來、引續き工事を進め得たのである。工事返上の申出は一面薄志弱行の觀はあるが、その時の故人は獨り築港工事の返上のみでなく、大林組の現有財産、前途の志望等一切を擧げて放擲せんとしたものであつて、故人の一生涯に於ける數百件の請負工事中で返上を申出でたものはこの築港工事あるのみであつた。

古來大業を成す道程には險難苦楚の重疊(ちょうじょう)たる大磽确(ぎょうかく)が橫つてゐるものである。故人が創業以來八ケ年の間、順風滿帆の勢ひで進み得たのは蓋(けだ)し異數のことであつて、この難局が故人の前途に對して大なる刺戟と敎訓を與へたことは鮮少でなく、人間大林を完成する爲の天の與へた好個の試金石であつたと同時に、西村、範多、平田その他諸氏の恩愛に對しては長く感謝の意を表せざるを得ない。

良港の出現

本工事が大體の完成を見たのは明治四十年四月であつたが、これより以前、大阪市は築港の半ば竣成した明治三十六年八月より船舶の繫錨を開始した。過去數百千年の久しい間、明石海峽を劈いて茅海に入り、沿岸の循環を繰返して港口を壅塞した潮流の惱みはこゝに全く一掃せられ、水深二十八尺、優に一萬噸級の大船を繫泊せしむるに足り、且つ本工事によつて河口の埋沒を防ぎ、一千噸級の沿岸航路船は自由に安治川の上流に遡航するの便をも得、港灣の面目を一新するに至つた。こゝに於て曾て大阪寄航を嫌つた幾多船主も進んで航路を延長し、或は發着を大阪港に移す等漸を追ふて開發の緖に就き、陸上産業の勃興と港灣の改良と相俟ち、大大阪を形成する素地が作られたのである。

次いで大林組は築港に隣接せる市岡町、八幡屋町の道路擴張工事を遂行し、明治四十一年十二月全く請負の任務を果した。

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