大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第一編 前期

七 故人の修業時代 -大阪鐵道工事- 

故郷の土

故人は大阪鐵道工事に請負人たる水澤新太郞氏の應援として郷土大阪の地を踏んだ。過ぐる明治十六年の夏東上して以來四星霜、その間夢寐(むび)にだも忘れ得なかつた懷しい郷土大阪、錦を飾る身とまでは行かないが、誰に遠慮、氣兼ねのある筈もなく、故人平常の明朗性から考へても故郷に歸る嬉しさは什麼(いんも)であつたらうと想像されるのが當然だが、意外、故人は悄々として大阪入りをしたのであつた。

水澤新太郞氏
水澤新太郞氏

理性よりも情

『窃かに期する遠大の志望があつても、未だ所謂部屋住の身、何の面目あつて母や郷黨(きょうとう)に會はれようぞ』とは、その時故人を支配した強烈な廉恥心であつた。しかし『今頃母はどうしてゐられるだらう』と、一度母の身を懷ふ時、廉恥心も道義心もあつたものでない。『自分は母に會ひたいのだ』といふ人間自然の燃えるやうな情熱が遂に勝を制して、大阪入をしたその夜、窃かに母を訪れたのであつた。その時母堂は夢かとばかり込み上げて來る嬉しさを抑へ、何處となく風彩の揚らぬ故人の姿を一瞥して、『今頃何しに歸つて來たのか。四年前に言つたことを忘れはすまい。母は四年の間陰膳据えてお前の出世を祷らぬ日とて一日もない。それでお前は成功したといふのか』と、言は頗(すこぶ)る辛辣を極めた。中江藤樹の母に髣髴(ほうふつ)、これが母としての眞の慈であらう。こゝに於て故人は、今日までの修業の道程から今後猶暫し研鑚の要ある旨を述べ、この度訪れた事情を詳細に物語つた。母堂も時折下里氏より東京に於ける故人の奮鬪を耳にしてゐたことゝて、今目のあたり故人の言を聞くに及んで釋然(しゃくぜん)として安堵し、その夜は共に積る話に語り明かしたのであつた。

難工事

當時の大阪鐵道會社は、弘世三郞氏の創立にかゝり、生駒連峯の南端大和川溪谷を迂回して大阪と奈良とを結ぶ線路であつて、故人は水澤氏の片腕として職工指揮の任に就いたのである。

本線中最も困難を極めたのは、溪流に沿うて二條の線を穿つ龜ケ瀨隧道工事で、當時は高層建築等が甚だ稀であつた爲、彼の簡單な足代を組む技術さへ幼稚なもので、溪谷の懸崖絶壁に大規模の足代を構築して工を進めるのは容易のものでなかつた。幸ひ故人は御造營工事に於て相當大規模のものを扱つた經驗があり、その指揮は頗る鮮かなものであつた。而して工事が大きかつただけに、土工等は一部屋の者のみでなく、各方面からの寄り合世帶ともいふ集團であつたから、一糸亂れぬこれが統制は工事そのものよりも更に大なる苦心が拂はれたもので、こゝに至ると全く故人の畑であつて、その天才的手腕を縱橫に發揮して彼等の信望を攬(と)め、遺憾なくその職を全うしたのであつた。

飛行機上より見たる龜ケ瀨隧道
飛行機上より見たる龜ケ瀨隧道

木屋市との邂逅

或る日故人は、例によつて各工區を見廻りながら土工の働き振りを監督してゐた際、煉瓦屋の親方から『ヤア』といつて聲をかけられた。熟視すれば、この親方こそ往年故人が麴屋呉服店で番頭をしてゐた時代の知已、御靈稻荷座の俳優堀江榮太郞こと野口榮次郞氏であつた。『珍らしい所で遇つたなあ』『いや暫くだつたなあ』といふ相互の挨拶、曾て彼は顏に脂粉を塗り、故人は又前垂かけの呉服屋の番頭、互に未來を語つた仲、餘り意外の邂逅に兩人共暫し相見て次の言葉さへ出なかつた。軈て二人は附近の腰掛茶屋に入り、積る身の上話に舊情(きゅうじょう)を温め、今後互に力を戮(りく)せて大に成すあらんことを約したのである。

聽けば、榮次郞氏はその後父の死に遇つて富裕の家督を相續したが、もつて生れた豪快任俠の性質から好んで俠客の群に入り、惜しげもなく財寶を撒じて男を賣り、市俠の一角に彗星の如く頭角を現すに至つた。殊に松島に於ける有名な大喧嘩の際數名の兇漢に足腰立たぬほど毆られながら『それでよいのか。まだ生きてゐるぞ。息の根を止めてくれ』と大喝して勇名を馳せ、男の中の男として北區一圓に木屋市野口親分の名が高まつたのである。しかるに當時官の方針として、顏役連中の悉(ことごと)くを正業に就かしむべく隨分嚴しい取締が勵行され、若し正業に就かざる者に對しては日々私服を尾行せしめるといふ嚴格さで、野口親分も已むなく名を煉瓦屋に藉(か)り、遊び半分日々工事現場に出向いてゐたものであつた。

境界爭

龜ケ瀨隧道開鑿(かいさく)の始業後幾干もなくして故人の上に思はぬ難問題が降つて湧いた。それは甲、乙兩區間の境界爭議である。測量さへすれば直ちに解決する筈なのに、兩區夫々自説を固持して讓らない。あはや血の雨を降らさんばかりの凄愴な氣が漲(みなぎ)つた。故人としては監督上の一大責任である。兎も角も中に入つて双方を宥(なだ)め、直ちに嚴密な測量を遂げて確乎たる境界點を指定した。結果は乙區の主張の正當であることが立證され、甲區方は少からず面目を潰した。

決鬪状

甲區の土工頭は丹波源といつて相當斯界(しかい)に名の賣れた男であつたが、心中甚だ平かならざるものがあり、翌日は業を罷めて職に就かず、剩(あまつさ)へ故人に對して決鬪状を送つて來た。

故人はそんな物騷なものを受けたが眉一つ動かさず、『一寸行つて來る』と飄然(ひょうぜん)單獨で彼等の屯する龜ケ瀨山中ホボ谷に赴いた。これを聞いた木屋市親分は事態を慮つて直ちにその後を追つたのである。

ホボ谷は大和川の峽に臨んだ山腹の窪地で、丹波源は配下の土工數十名を集め、各得物を携げて故人の來るのを待ち受けた。

豪勇

この殺氣漲る眞只中に故人は自若として靜かに進み入り眼中人も無げなる沈着振り、その威に怖れてか誰一人手向ふ者も無い。故人は徐(おもむろ)に丹波源に向ひ、『親方そこに居たのか。今日は仕事を休んでゐるので心配して來た。しかし達者でゐるのを見て安心した。時に親分、さつき手紙を貰つたが、何か僕に對して不滿の點でもあるやうだが、それならそれと單刀直入、赤裸々にどの點が惡いと言つて貰いたい。もし昨日の境界が不服であるのなら、文句は測量器械や間繩(けんなわ)に言ふのが至當だらう。昔から一尺の長さは一尺で通つてゐる。今更七寸にも出來ないではないか。この手紙は僕宛になつてゐるが、宛名が違つてはゐないか。君も永く土方頭をして世間に知られた男だ。間繩が氣に入らないと言つて方角違ひの人間を殺したとあつては男を賣る稼業の顏が立つまい。萬一僕が惡かつたなら謝罪もしよう。又八つ裂きにされたとて些かの恨みもない。ましてや一時の誤解から血氣に走り、この有利な仕事を棒に振つて明日の日からどうするのだ。この大勢の中には妻子を有つてゐる者もあらう。胸に手を當てゝよく考へて見たらどうだ』と諄々(じゅんじゅん)としてその不心得を説いた。丹波源素より痴漢ではない。

光風霽月(こうふうせいげつ)

相當理解のある親方ではあつたが、主張の通らぬ一時の腹立ちまぎれと、部下逸(はや)り男の激昂即ち群集心理に支配され、遂ひ盲目的にこのやうな態度に出たのであつたが、一度故人の理義整然たる説諭に遇つて流石は男、『俺が惡かつた』と言つて謝罪したので、忽ちにして光風霽月、故人と丹波源の二人は相見て大に笑つた。偶野口親分もやつて來て、故人の大勇に驚くと共に互に杯を擧げてその無事解決を祝つた。爾後丹波源は從順にその職に勵んだのである。

責任感と誠

故人が數十人もの暴漢が蝟集(いしゅう)する殺氣滿々たるたゞ中に單身乘り込んだといふことは無謀の擧と觀られないでもないが、故人としては、自己監督の責任上一身を犧牲にしても解決しなければならないといふ熾烈な責任感と、誠を以てせば百萬の敵も怖るゝに足らずとの平素抱懷せる信念を貫いたのであつて、その職務に對する赤誠とその行動の豪邁(ごうまい)なる點は人間大林としての眞の現れであらう。

OBAYASHI CHRONICLE 1892─2014 / Copyright©. OBAYASHI CORPORATION. All rights reserved.
  
Page Top